第二次大本事件においては、予審の取調べのおわらない者があり、したがって全被告人の準備公判がおわらないまま、本公判ともいうべき事実審理が一九三八(昭和一三)年八月一〇日から、京都地方裁判所刑事部第一号法廷で開かれた。第一班は王仁三郎ほか六人で、庄司裁判長、大西・黒坂の両陪席判事、小野検事立会、大西・南の両書記に弁護人一八人が列席して午前九時半に開廷した。まず小野検事が公訴事実をのべおわると、林弁護人は検事にたいし、「結社」を組織したという昭和三年三月三日至聖殿に昇殿した一七人のうち、梅田常次郎・浅野遙・中野岩太の三人がなぜ起訴されていないのか、その理由を聞きたいと質問したが、ただちに傍聴禁止が宣告された。特別傍聴人として許されたのは第一六師団法務部長・舞鶴要港部法務官ら数人にすぎなかった。裁判長は検事にたいし、林弁護人からの質問にたいする答弁をうながしたが、検事は「その理由は発表できない」と答弁をこばんだ。裁判長はまず被告人王仁三郎にたいし、予審終結決定にもとづき予審訊問調書の内容について訊問し、事実審理をすすめていった。この日、私服・制服の警官数十人によって警戒陣がしかれ、裁判所付近には緊張した空気がみなぎった。こうして「固く閉された傍聴禁止の扉の中で、法延では窓外に鳴きしきる蝉しぐれを伴奏に各被告同席して、山のやうな証拠物件により王仁三郎の審理をつづけ、四時閉廷」した(「大阪毎日新聞」昭和13・8・11)。なお一〇日・一一日の各新聞は法廷にいならぶ七人の被告人の写真とともに、公判前後のもようを五、六段ぬきの記事として大きく報道した。
王仁三郎の審理はさらに一一日・一三日と続行し、同日午後から伊佐男の事実審理となり、井上・湯川・湯浅・高木・東尾ら第一班の審理は二〇日に終了した。ついで第二班より・第九班までの併合審理が順次すすめられて、一九三九(昭和一四)年三月一七日に、第五八回の公判をもって被告人五七人全員の事実審理をおわった。
※そのころおこなわれていた旧刑事訴訟法による公判審理の順序は、(1)被告人にたいし、その人違いのないことを確めるため、氏名・年令・身分・職業・本籍・住所等についての訊問がおこなわれ、(2)検事の被告事件の要旨の陳述があって、(3)事実審理にはいり、被告人にたいする訊問となる。この訊問は分離しておこなわれる場合と併合でなされる場合とがある。ついで、(4)証拠調べがあって、(5)弁論となる。まず、(イ)検事の事実および法律の適用に関する意見の陳述、いわゆる論告があり、つぎに、(ロ)被告人および弁護人の意見の陳述いわゆる弁論がおこなわれ、最後に、(6)判決の言渡しとなるのである。
第五九回(四月一九日)より第六八回(五月五日)までは被告人全員出廷しての併合審理がおこなわれ、各人の公判調書を全員に読み聞かされた。公判調書は「一万二千九百三十八頁におよび、事件の記録は合計十九万九千四十八頁といふ裁判史上での新記録」(「大阪毎日新聞」昭和14・3・18)といわれるぼうだいなものであった。そのころ、なお身柄を勾留されていたものは二〇人で、全被告人が法廷で顔をあわせたのは、事件以来満三年四ヵ月ぶりであった。第六八回(五月五日)の公判においては弁護人からの補充訊問があり、これで証拠調べがおわった。
公判における被告人の陳述は、一部の例外をのぞいて王仁三郎の主張と一致した。「大本は敬神尊皇報国の団体であり、大本教義中の国常立尊の再現、素盞嗚尊の再現とは、王仁三郎が日本の現皇統を排除して、自ら日本の統治者となるにあらず。大本のミロクの世とは、地上に天照皇大神の理想世界を建設することであり、その神意を伝達するのが王仁三郎の使命である。従って立替立直しの担当者であり、立替立直し後のミロクの世の統治者は、ご皇統にまします」というものであった。とくにみろく大祭のとき至聖殿に昇殿した被告人たち全員は、「国体変革の結社の事実なき旨」をのべた。また不敬被疑に関するものについては、不敬の意思によるものでない旨を強調した。
注目すべき点は、ほとんどの被告人が警察における取調べや、予審廷における取調べの不法をつよくうったえたことである。そして王仁三郎の陳述は本筋をまもりながらも当意即妙の答弁で終始した。伊佐男は、大本全教団をになう態度で、大本全般につきいちいち真面目に大本の教義と運動とを事実の上から釈明した。その他は各自の立場から弁明につとめた。しかし大本の幹部たちの信仰や思想はきわめて自由であったので、公判廷における裁判長への答弁も、こまかい点ではくいちがっているところもあった。
〈松野予審判事を告発〉 事実審理がおわろうとする直前の昭和一四年三月一三日、弁護士林逸郎は予審判事松野孝太郎を、文書偽造行使罪の嫌疑あるものとして、検事総長木村尚達あて異例の告発をなした。これは第二次大本事件に重大な関係あるものとして諸新聞も一せいに書きたてた。そのうち「京都日日新開」(昭和14・3・13)では、「大本教事件の弁護士か係り予審判事を告発、狂へる日出麿の予審調書が理路整然に過ぐると」という大見出しで報道した。出口元男(日出麿)が精神に異常をきたしていると知って、林弁護人は、前田・富沢・田代の三弁護人とともに昭和一三年七月二五日、中京区刑務支所で元男に接見してみた。ところがその言動全く常軌を逸しているので、福井看守長や松岡保健技師にたずねてみると、昭和一二年一一月この支所に転所以来狂態がつづき、精神正常者とはみとめがたいとのことであった。そこで、この四弁護人は七月二七日、京都地方裁判所第一刑事部に、元男にたいする精神鑑定の申立てをした。庄司裁判長はこれを京都帝大医学部精神病学主任教授の三浦百重に命じたので、三浦は数回にわたって鑑定をおこない、一二月二一日鑑定書を提出した。それによると「出口元男現在真実ノ精神病ニ罹リ 病名トシテハ精神分裂症ガ最モ疑ハシキモノナリ」とし、その病症発生の時期は昭和一二年三月頃と推定され、「現在異常ノ程度ヨリスレバ知性ノ完全ナル運用ハ全ク望ムベカラズ」というのである。
ここに「真実の精神病」であるというのは、警察側の佯狂(いつわりの精神病)ではないかという一部の見方があったのにたいし、いつわりではないことを明確にしたものである。しかるに松野予審判事の作成した元男にたいする予審訊問調書は、理路整然さらに乱れたところがないということは不可解であり、「文書偽造行使罪」のうたがいがあるという理由で、林弁護士が告発したものであった。元男は精神鑑定のおわったのち昭和一四年二月六日、庄司裁判長によって「心神喪失ノ状態ニ在ルモノト認ムルヲ以テ其ノ状態継続スル間公判手続ヲ停止」すると決定され、その日責付出所となり、京大付属病院精神科に入院した。鑑定では発病を昭和一二年三月ころと推定したが、すでに五条警察署における苛酷な取調中の昭和一一年二月に、京都の日赤病院に入院せしめられたこともあったのである。
一九三九(昭和一四)年一月三〇日、京都地方裁判所で元男にたいする分離公判の公判準備手続きがおこなわれたときも、庄司裁判長との間の問答は大要つぎのような状況であった(速記録による)。
裁判長「一体大本ト云フモノハドウ云フモノダ」 元男「サウデゴザイマス、ドウ云フ所ト云ツテ世ノ中ヲ立替ヘルノデスカラ、兎モ角」 問「ドウシテ」 答「私ガヤルト思ヒマス」 問「ドウ云フ訳デ」 答「私が奮闘力戦シテヤリマス」 裁判長「ウ」 元男「ヘエ舟ヲ造りマス、一般……サウシテ行キマス、ソレヨリ他オヘン」
この答弁は比較的理解しやすく、また深い意味のあるものと受取られるが、その前後の問答はあきらかに「異状」であったことを何人にも認めさせるものであった。
この告発事件は、大阪控訴院の岡琢郎検事によって取調べられた結果、大阪控訴院検事長金山季逸は五月一二日不起訴と決定した。しかしこの事件は林弁護士の「新爆弾」(「大阪朝日新聞」昭和14・3・13)として異常なセンセーションをまきおこした。そして第二次大本事件の取調べの内容についての疑惑をいだかせることとなり、司法部内におおきな衝撃をあたえ、第二次大本事件の法廷闘争における一転機ともなった。林弁護士は松野予審判事不起訴の決定にたいし、「司法制度改正調査委員会で予審制度廃止論が現はれてゐる今日、松野事件が司法制度乃至予審制度改正上の資料となれば幸です」(「大阪朝日新聞」昭和14・5・28)と語ったが、この告発事件を契機として弁護団は、受身の立場から積極的攻勢に転じてゆく。元男の「異常」におおくの大本信者は、神の摂理を感じとった。
〈証人訊問と警察官告発〉第六九回公判(五月二六日)には、かねて弁護人側から提出されていた八〇人にのぼる証人の申請につき、清瀬弁護人からその理由を説明したが、そのうち元京都府知事大海原重義ら二〇人が採用された。申請されていた元首相岡田啓介・元文相勝田主計・前政友会総裁鈴木喜三郎・元警視総監宮田光雄ら政界大物の証人については却下された。
六月一〇日には、庄司裁判長・陪席判事・小野検事・弁護団代表の一行一七人が、地元の近松光二郎らの案内説明により、綾部天王平の開祖や一般信者の墓地、ついで鶴山(本宮山)や大本の神苑跡(何鹿郡設グランドとなっていた)を実地検証し、翌一一日には亀岡の元大本本部跡および王仁三郎の誕生地穴太を実地検証した。
証人訊問は六月二一日(第七〇回)からはじまり、七月二四日(第七五回)をもっておわった。証人はのちに三人を追加採用されて合計二三人となった。大海原元京都府知事・下位春吉らのほかに注目されたのは、警察において取調べにあたった警察官のうち九人が喚問されたことである。拷問・強迫の事実や取調べに関して訊問されたが、異口同音にこれを否認した。列席の被告人一同はあまりに白々しい警察官の態度と虚偽の答弁におどろきあきれたが、六月二四日(第七三回)、警部高橋誠治にたいする訊問中、出口すみは突然神がかり状態となり、「そちらは天皇陛下の番頭ではないか」とのはげしい叱声を発し、裁判長は公判を一時停止せざるをえないというようなこともあった。すみは王仁三郎の鎮魂によって平静にかえり、公判が続行された。閉廷したのは当日の午後一一時二〇分であった。このように公判が深夜におよんだのは、京都地方裁判所でははじめてのことであったという。
警察官以外の証人はことごとく被告人に有利な証言をおこなったが、警察官らの答弁を弁護人は黙視することはできなかった。一年ぶりに事実審理をおわり、いよいよ八月三〇日から小野検事によって論告がおこなかれることになった矢先きの八月二四日(昭和一四年)、京都地方裁判所検事局検事正の真野歓三郎あて、現職警察官である高橋誠治・小浦定雄・塩貝作太郎・寺沢良一・中西景治・城義治・飯田外次郎・安田寅吉・北窪光則の九人を偽証罪として、弁護団全員の名によって告発した。その理由として「警察官ハ本件ノ捜査ニ着手スルニ付キ上司ヨリ何等ノ差図ヲ受ケス、警察側ニ於テ予備的調査ヲ為サス 又取調中警察官相互ノ間ニ書類ノ交換等ノ連絡ヲ取りタルニアラス……何等ノ威迫凌虐ヲ加フルコトナキニ拘ラス進ンテ……自供シタリ」と偽証した事実をあげている。上司よりの差図・予備的調査・相互連絡等については、警察側の機関誌「警察協会雑誌」の大本事件特輯号(昭和11・7、第四三四号)に掲載されている杭迫京都府特高課長の手記『大本事件日記』のなかに、その事実は明記されているのである。
この事件に関し、元内務属の古賀強は当時を回想して「裁判過程において、『この取調べは内務省からテキストが出て、テキストに合せて全部つくり上げた事件だ』という弁護士からの反論があり、『内務省がつくった文献がある筈だ、その文献を出せ』という要求があった。それにたいして証人に立った警察官は『なかった、そんなものはもっておらん』と返事しているが、公判廷でそれを否定したことはまずかったと思う。これだけの事件を京都の特高だけでまとめあげるとか、こういう思想の根底に到達することは考えられん。内務省が手伝ったということは当然のことだ。又実際にそうだからそれを隠すことはない。『何故ありのままに言わなかったか』と京都の特高の者に言ったことがある。言った以上は偽証罪になることを承知して此方から出すわけにはいかんから、そのままにしてしまった」(「古賀談話」)と語っている。
警察官偽証に関する告発事件は米田検事が主任として取調べをおこなったが、その解決がおくれたため、弁護団では公判期日の延期をつぎつぎと申請し、ようやく開かれた一〇月一六日(第七八回)の公判も、開廷まもなく休憩し、休憩実に八時間四〇分にして再開、午後九時半に閉廷した。この告発事件は一二月一五日不起訴処分となったが、偽証の心証がえられたことはあきらかであった。弁護団は告発がいずれも不起訴となったことを不服として、一九四一(昭和一六)年九月一八日に、松野予審判事告発については林弁護士が検事総長松坂政広にたいし、警察官偽証事件については弁護団全員の名をもって大阪控訴院検事長岩松玄十にたいし、それぞれ抗告の申立をおこない追及の手をゆるめなかった。
一九三九(昭和一四)年七月二四日、第七七回公判をもって事実審理をおわったが、第一回公判以来約一年、大検挙からじつに三年八ヵ月の歳月がついやされていた。その間、取調べがすすむにしたがって、身柄を勾留されていた被告人たちは、病弱者や大本における役職にしたがってその軽い者から順次保釈を許されて出所しつつあった。事実審理をおわった直後の八月二日には大深・桜井(重)・藤原・土井・中村(純)・徳重ら一〇人が、ついで二一日には森・西村・広瀬ら四人が保釈出所したが、しかし王仁三郎・すみ・伊佐男・高木・井上の五人は、弁護団によるたびたびの保釈許可の申請にもかかわらず、そのたびに却下されて刑務所にのこされた。そこで弁護団は警察官偽証告発をおこなった翌日の昭和一四年八月二五日、大阪控訴院へ勾留期間更新決定にたいする抗告を申立てた。勾留期間は旧刑事訴訟法(第百十三条)によって二ヵ月とされ、「特ニ継続ノ必要アル場合ニ於テハ決定ヲ以テ一月毎ニ更新スルコト」ができることになっていた。王仁三郎らの勾留期間更新は、昭和一一年五月以来すでに三九回にもおよび裁判所みずから立法の精神を蹂躙したものであった。勾留執行にたいする抗告は「人権蹂躙の疑ひ─大本教弁護士団抗議を焦点に、色めく大阪控訴院」(「京都日出新聞」)「大本事件に一波瀾!弁護士団から爆弾抗告」(「大阪朝日新聞との大見出しで新聞にも報道され、さらに「司法制度改善上に、また大本教事件裁判の進行上に法曹界は重大な関心を払ひ、拘留執行に対する抗告は刑法学専門家の滝川法学博士も『……拘留執行に対する抗告は日本ではこれが最初だ』と述べてをり、学界にも注意を喚起してゐる」(「大阪朝日新聞」昭和14・8・26)とも報道されて社会の注目をあつめたが、大阪控訴院では第三刑事部長の高野綱雄判事がこれを担当し、審理のうえ九月九日に棄却した。その理由とするところは、「被告人ハ大本教義ノ宣布ト称シ遠隔ノ地ニ赴キ審判ヲ困難ナラシムル虞アルノミナラス多数信徒中被告人ヲ狂信スル者ハ其ノ安泰ヲ願望スルノ余本件審判ヲ不能ニ陥ラシム為被告人ニ其ノ所在ヲ韜晦センコトヲ慫慂スヘキ虞ナキヲ保セス 被告人モ亦其ノ熱情ニ感激シ其懇請ヲ容ルル虞ナシト断定シ難キコトヲ窺知シ得ヘシ」というものである。
こうして、弁護団による苦心の告発・抗告も、強権によってにぎりつぶされてしまった。しかし当局の弱点をついたこの爆弾提議が、司法当局にあたえた心理的な影響はおおきく、法廷戦術としてはきわめて有効なものとなった。
〔写真〕
○公判が開始されたが権力はすでに大本の解散破却を強行していた 右から深編笠で出廷の出口王仁三郎 井上留五郎 出口伊佐男 高木鉄男 p518
○公判期日召喚状 p519
○調書を捏造した予審判事を文書偽造行使罪で告発した p521
○大本側の告発は事件にたいする社会の疑惑をふかめ権力側に大きな衝撃をあたえた p523
○綾部 亀岡 穴太を実地検証した庄司裁判長の一行 p524
○公判廷で偽証した現職警察官の告発状 p525
○あいつぐ告発抗告は社会の注目をあび不当の事実をあきらかにして法廷闘争を有利にみちびいたが権力側は乱暴にも強権をもって却下してしまった p527