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荊棘をこえて

インフォメーション
題名:荊棘をこえて 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:646 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195402c6513
 ここで当時の信者の動向にふれておこう。第一審判決が全員有罪と判定されたことは、信者の期待をうらぎった。しかし、これによって事件の全貌がだんだんとあきらかになったため、暴圧的権力にたいするあらたな憤りを信者のおおくが感じとった。そしてかえって信者の動きは活発となっていったのである。ことにその後における国内外の情勢は、大本神の予言の実現としてうけとめられ、いっそう、その信仰は力づけられた。
 信者はもはやかくれての信仰では辛抱できなくなった。お宮や八足台・三方を買いもとめ、かくしていたご神体を奉斎し、朝夕の礼拝をおこなう例がきわめておおくなった。信者の会合もひんぱんとなり、会合の目的も、単に裁判費用の調達・情報の伝達・交換から一歩すすめて、神書による相互研修や外部への働きかけへとひろがっていった。組織的な献金活動のさかんであった島根・茨城・北海道・石川・熊本などの各県をはじめとして、新発足後に活発な進展をしめした山口・広島県など、各地の動きも活発になった。病気のお取次や、信仰・時局の座談会などがおこなわれ、神書の研修のテキストには、『神諭』、『瑞能神歌』、『道のしおり』、『霊界物語』、ときには裁判記録などがつかわれていた。時局の前途にたいする不安なとがら、ふたたび大本信者の存在がみなおされ、弾圧下においてすらあらたに入信するものがあった。こうした積極的活動が、戦後ただちに「愛善苑」として新発足する素地ともなったのである。
 第二審のはじまったころ、亀岡には出口直日・日出麿・貞四郎・新衛のほか東尾・森・西村・土井・河津・藤津・波田野らが、綾部には高木・桜井(同)・湯浅らが、大阪には大国・桜井(重)、京都には御田村らがいたが、被告人のなかには、長期間の勾留によって身体の衰弱がはげしく、未決勾留中すでに発病して、保釈後病床についた人もかなりあった。また幾人かはそれが原因で生命をうしなってしまった。ほとんどが以前の職をうしない、家業も中絶したままであった。差入れや、のこされた家族の生活をささえるために蓄財はうしなわれていたし、公判出廷に要する旅費・滞在費もばくだいであった。さっそく就職や家業の再建に奔走しなければならなかったが、しかし「国賊」とののしられ、「被告人」とされた者にとっては、それはきわめて困難なことであった。くわえて当局の監視がつきまとい、その行動は大いに制限されていた。だが、これら幹部の人々の保釈出所は地方の信者を勇気づけた。この人たちをとおして裁判の実相も手にとるようにわがってきたし、地方信者の結束もしだいに強化されていった。東尾や森は亀岡を拠点として献金をとりまとめ、その他の人も地方に潜行して、事件の真相をかたり、献金や信仰意欲の高揚につとめた。また公判がひらかれたときには、大阪や京都に往な被告人の家が連絡や宿泊の場所ともなっていた。こうした活動は、もと特派宣伝使であった人たちのあいだにもひろがっていった。
 世相はさらに暗く、国民の生活も日ましに苦しさをくわえつつあったが、信者は組織をつよめ、裁判費用の調達に奔走する一方、未決勾留中の王仁三郎・すみ・伊佐男に書信をおくり、差入れにも心をつかった。第二審の公判はやはり非公開であったが、王仁三郎や二代すみにあえるよろこびのため、信者は公判のたびごとに大阪控訴院の周囲にむらがり、公判廷への廊下にならんだ。王仁三郎はわざとよろけて信者にふれたり、二代すみは編笠をあげてニッコリと笑いかけた。被告人も、公判の日には審判のきびしさを苦とせず、法廷の内外にはなごやかなふんいきさえがただよっていた。
 大検挙以来六年八ヵ月、抑圧されつづけてきた信者のうえに感激の日がやってきた。第二審の判決で治安維持法違反事件は全員無罪となり、王仁三郎・すみ・伊佐男の保釈出所をみたのである。大本信者のよろこびは、世相の暗黒をよそにひとしおのものがあった。交通事情の悪化や家計の窮迫をものともせず、信者はつぎつぎと中矢田農園をおとずれ、直接聖師に面会しては教示をもとめた。そしてその感激と教示を、郷里の信者や縁者・近所・知己などできるだけおおくの人々につたえた。
 しかし、戦時下国民総動員のなかにあって、大本信者にたいする警察の監視は、あいかわらずきびしかった。司法省刑事局の『思想研究資料』(特輯第九十一号)によれば、昭和一六年には、「大本教旧信者の一部の篤信者間に尚同教の神聖を信じ非転信者あり」と記されている。また内務省警保局の『社会運動ノ状況』(昭和一六年)にも、「一般元信者にありても『既に大本教が主張せる世の建直しが来たのである』、『愈々みろく神聖の実現が近付いた』等と称し、或は『日本精神を根本義とする大本教が不敬罪名下に弾圧を余儀なくせられたが、審理を続行するに従ひて不敬罪の汚名は雪がれ再び大本教が世人に貢献する日も遠くない』、云々の言動に出づる者尠なからざる実情にして、本年中検挙取調を為したる者別記の通りなり」としている。そしてそこには亀岡の大沢恒のほか、鳥取県の二人、香川県の一人の名をあげているが、大沢らは起訴猶予処分に付され、小倉の掛豊彦他九人を再建運動関係者とみなして取調べ、厳重戒飾し釈放したとのべている。
 事実、茨城県下館の小貫は再建運動で検挙され、留置中肺炎のため死亡した。また一九四二(昭和一七)年の八月には、北海道で数人が、また同年の暮には岡山県で三人が検挙され、昭和一八年には岩手県でも三人が取調べをうけた。
 この年の五月八日に、出口直日は島根県講武村の故木村一夫の墓参のために、木村家に一泊し、信者にも面会した。この機会を利用して警察当局は、たくみに再建運動の筋書をデッチあげ、再弾圧しようとした。当日木村家に手伝いにきていた中村末子が、「世の大峠が迫った」とかの大戦の見通しや大本のことなどの話を直日からきいたとして、それを兄嫁の中村百合子に話し、百合子から一般につたえられたというのである。そのため七月二〇日には百合子をはじめ。木村久子と末子らが松江署に留置されて取調べをうけた。久子と末子は否認しつづけたが、百合子は拷問された結果、取調官の作成した聴取書に署名させられて深夜帰宅した。そして自責の念にたえず、その翌々日の二二日、遺書をのこして近くの池に投身自殺した。その遺書は、事実にまったくないことを拷問によって「自白」したとされ、聴取書になってしまったことを心から詑びたものであった。百合子の自殺というおもわぬ事態に狼狽した警察は、八月に取調べをみずからうちきってしまったが、こうした警察の強引な策謀によって、若い生命がまた一つうしなわれてしまった。当時、百合子は二八才でもともと大本の信者ではなく、事件後、信者の中村家にとついできたもので、しかも妊娠の身であった。
 昭和一八年には、北海道でもいたましい犠牲者をだした。北海道別院の管事であった宮本惇一郎は、盲目で不自由な身ではあったが、事件後も北海道における信者との連絡を密にし、直日のもとへつぎつぎと献金を送りとどけていた。ところが聖師から宮本が聞知したという時局関係の話が、信者から他の方面にもれたため、この年の八月に当局はこれを造言蜚語としてとりあげた。宮本はじめ信者数人が相ついで検挙され、そのうち小原寅吉・門野初蔵・宮西豊蔵・岩戸安吉らはそれぞれ「略式命令」で罰金一〇〇円に処せられたが、宮本の取調べはとくにきびしく、宮本は九月ついに旭川署で自殺した。一一月には山形県で数人の信者が家宅捜索や取調べをうけ、そのうち小笠原富三郎は罰金五〇〇円、斎藤清は罰金三五〇円に処せられた。当時の三五〇円は「米二十俵分」に相当する。
 大阪では造言蜚語の疑いにかこつけて、もと大阪分院の管事であった高塚忠俊と妻の十子が、昭和一九年一二月八日に検挙され、十子は翌年の一月末に釈放されたが、忠悛は九ヵ月以上留置されて、終戦直後の九月にやっと釈放された。以上は主として、大本七十年史編纂会のおこなったアンケート(昭和39年)などによる資料のうちから摘記したものであるが、当局の取調べをうけた者は、全国各地で右のほかにも数おおくある。
 また信者の一部には、聖師の保釈運動や裁判費用の献金にかこつけて一派をつくり、自己の野望をみたそうとするものもあった。その動きは静岡・山口・四国・北九州などで顕著であったが、聖師の保釈出所によってその実態があきらかとなり、解消した。しかしこれを機に、一派を形成するにいたったものもある。
 暗いニュースばかりではなかった。あかるい話題もあった。昭和一八年一二月一二日には聖師の許しをえてはやくも、もと九州別院に伊都能売観音像が再建された。この観音像は昭和一一年の別院破却のさい、松浦教友らの配慮によって信者の石工が原形のまま溝のなかにかくし、七年余にわたってまもりとおしてきたものである。
 こうした弾圧と時代のくるしみとにたえぬきながら、信者はひたすら教団再建の日を待ちわびていた。けれども事件はなお上告中であり、聖師は保釈の身柄であったから、表向き教団の再建はゆるされなかった。しかし、聖師の言葉が全国の信者につたわり、信者の心は聖師を中心に信仰的にたかまっていった。
〔写真〕
○七年の歳月も敬愛と信頼のきずなをたつことはできなかった 二代すみ子の手紙 p648
○愛犬シロと散策をたのしまれる ある日の出口聖師夫妻 亀岡中矢田農園付近 p649
○弾圧はきびしさをまし信者の犠牲はたえなかった p650
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