終戦による社会情勢の変化によって、大本にたいするマスコミの態度は好転し、新発足以来しばしば大本の活動状況が報道されるようになった。とくに関西においては、愛善苑の提唱した国際宗教同志会が発足して、各宗各派の協力提携ができていたし、またこの会を代表する牧野虎次(同志社大学総長)や、日本宗教界の唯一の日刊新聞「中外日報」の社主真渓涙骨が、愛善苑の顧問として強くバックアップしたことなどから、関西における宗教者や識者のあいだには、愛善苑にたいする理解がしだいに芽ばえつつあった。
だが当時の一般社会は、食うこと着ることが精いっぱいという状態であり、終戦直後の混乱と虚脱状態から完全にぬけきってはいなかった。また用紙の不足から新聞紙面は極度に制限されていた。そのため第二次大本事件当時ぼうだいな紙面をつぎこんで連日報道された「大本邪教観」は、まだまだ払拭されていなかったし、「新生大本」にたいする認識と理解は、ひろく世間には浸透していなかった。そのなかで聖師の昇天をみたのである。識者やマスコミ関係者が聖師の昇天を知って、聖師なきあとの「大本」にたいし、非常な関心をしめすようになる。とりわけ、聖師の昇天をめぐる信徒の熱烈な信仰の凝集が、注目をあつめた。
『朝日グラフ』は「喪服の山越え十八里」と題して遷柩の写真を特集したし、朝日・毎日・京都の各新聞も、熱烈な信仰によるためしのない遷柩として報道した。また『週刊朝日』(昭和23・2・22)には「百万円の葬式・王仁三郎師昇天」の見出しで、感激的な遷柩の模様や、聖師の昇天にいたるまでの経歴などを記事として掲載した。この遷柩の報道はたちまちひろく喧伝されて、世の人々にふかい感銘をあたえた。ことに信徒か聖師によせていた信頼のおおきさが見なおされ、信仰集団の熱烈な底力が注目された。大本はすでに解散していたと思っていたおおくの人々が、この記事によって、大本の健在を知ったという。
なお海外では、ドイツの白旗団の機関紙、世界エスペラント協会の機関紙、キリスト神霊主義の機関紙等々に聖師の訃報と愛善苑の近況が紹介された。聖師の存在が偉大であっただけに、その昇天の反響は社会的にもおおきく、生前聖師に接したことのある綾部・亀岡の一般町民のなかにも、その昇天を惜しむ声がすくなくなかった。反面一部では、「王仁三郎さんが死んだら愛善苑ももうだめだろう」との声がないではなかったが、すみ子夫人の見事な態度と、昇天を期してさらに信仰をふかめた幹部・信徒の行動によって、そうした懸念も一掃された。むしろ宗教人の間では、その信仰のつよさと純粋性にふれて、今後の日本の宗教界の先頭にたつだけの気迫と実力を、じゅうぶんにそなえているものこそ愛善苑であると、評価する声がたかまっだ。
ながいあいだ、聖師の指導教化によってつちかわれていた信徒は、いちように聖師を信仰のかなめとあおいでいた。そして、聖師あっての大本であり、聖師あっての救世の神業であり、みろくの世を目標とする大本経綸の主体は聖師であると信じきっていた。したがって、まだみろくの世が招来されていない時点にあっては、聖師の昇天はありえないことであり、神約神契の破棄である。そうまで信徒は信じ、かつ思いつめて聖師に期待していた。大本事件による大弾圧に耐えしのんできた信徒の内面的ささえは、おおいなる聖師の存在であり、それが力でもあった。大本神業はこれからいよいよ聖師によっておこなわれるものと信じていた。その絶対的な信念が、聖師の昇天によって裏切られたのであるから、その内面的な衝撃はおおきかった。直日夫人によって、〝みろくの世の完成を信じ従ひて来し人等を思ふ父は死にたり〟と詠まれているが、信徒は天を拝し地にひざまずいて慟哭痛惜し、信仰的苦悩にとざされた。
しかしながら、聖師昇天後の二代苑主の毅然とした態度と、神的現象に裏づけされた強力な指導によって、絶望にあえいだ信徒もたちなおり、暗黒は光明へと転換されていった。出口委員長によって「私達は現界に於いてこの愛善の教を全人類に普及宣伝し、霊界に於いては聖師様が救の神として御活動あそばされ、信仰篤き人々の心の中に生き、よみがえり、それ等の人々の肉体をつかっての御活動をなされるのである」(二月四日節分祭での挨拶)と説かれているように、聖師にたいする肉体的信仰のあやまりが反省され、各人か自己の魂のなかに、神的聖師をよみがえらせていったのである。したがってその衝撃も比較的短期間にとどまり、教団全般としては顕著な動揺はおこらず、むしろかたい団結が、すみ子夫人を中心にかたちづくられていった。二月四日には白雪のふりしきる彰徳殿に信徒二五〇〇人が参列して、二代苑主の先達によって節分祭がとどこおりなくとりおこなわれたし、その前日の支部長・連絡事務所主任会議では、「二代苑主の新任にともなう愛善苑の機構、運営の問題がいよいよ明確となり、今回を機に更に積極果敢な活動を互いにちかいあった」のである。
だが部分的には、わずかなから分派的な活動がおきた。三五教(中野与之助ら)の働きかけが、信徒の一部に混迷をあたえたり、井上功がみずからミカエル聖師と名のり、聖師にあこがれる信徒を魅惑させた。そのほか聖師が自分に神がかりしたと称するものが、二、三あらわれたりした。しかしそれも一時的な現象でおわり、教団としてはその影響はきわめてすくなかった。全体からみると、それらの分派的活動にかたむいたものは、数十人はこえない程度であった。予言や神秘主義に郷愁をいだいた一部の人たちが、聖師の昇天につまづいたのである。しかしそれらの分派者といえども、出口聖師をたたえ、その偉大さを信ずる点においては、かわりはないだろう。そのうけとり方の相違が、これらの人々を分派へはしらせた。むしろ聖師の偉大さにたいする認識は、生前以上にたかまったのである。
〔写真〕
○聖師の昇天は国内外の人々から惜しまれた 右から牧野虎次 出口委員長 出口直日夫人 p817