霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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言霊学に就て(一)

インフォメーション
題名:言霊学に就て(一) 著者:王仁
誌名:神霊界 掲載号: ページ:19 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例:共通凡例B データ最終更新日:2024-05-30 15:11:58 OBC :M192919180701c05
言霊学に就て(一)

      王仁

(つらつ)ら考ふるに(この)至大天球の(うち)に偏在充満する一切万有は、(その)物の気体たると液体たるとを問はず、(いづ)れも声音
(声と音とは区別あれども今(ここ)に声音と(つら)ね書くは声にも非ず、音にも非ず、(まつ)たく両者を兼ねて不二なるものの仮名也)
を発する性質を有せざるはなし。今如何(いか)なる物と(いへど)(かす)かに変動すれば微かなる声音を伴ひ、大に変動すれば大なる声音を伴ふは吾人が日常経験する処なり。さて其声音とは何ぞや、通常理学者の教ゆる処を以てすれば音響なるものは一の振動にして、或物の振動は其振動を媒介物
(主として空気)
に及ぼし、媒介物の振動は吾人の鼓膜に及ぼし、鼓膜の振動は聴覚神経を経て脳に達するに()ると云ふにあり。()かも()(ただ)単に唯物論的形而下の解釈而己(のみ)。吾人は()かる半面の解説のみにては満足すること(あた)はず、(なほ)(すすん)で物の振動は何故に種々なる音響となり、(また)音響なるものは如何(いか)なる機能を有し、如何なる効果を有するやを知らむと欲するなり。換言すれば吾人の声は気管を通過する空気が声帯(その)()の発声機関に触れて発するなりてふ説明以外に(その)発声の因たる空気の通過するは何の為なるや、吾人の思料する処は何故に発声機関を()りて声となり、(また)他より来る声とは何故に吾人の聴管を通じて精神に影響するやを聞かむと欲するなり。(さら)(これ)究竟(きうきやう)す時は精神とは如何(いかん)てふ問題に帰着する也。吾人は()かる問題に達しては最早科学の説明より以上の不可思議力、無礙(むげ)自在の妙機を認めざらむと欲するも(あた)はざるものにして、(ここ)(まつ)たく科学の圏囲を超脱したる形而上学即ち哲学的領域に入るものなり。古来の哲学宗教が(あるひ)は声音なる末流を(さかのぼ)りて帰納的に絶対不可思議なる本源を認め、(あるひ)は無障自在の妙機なる根底より演繹的に声音なる枝葉を説くも畢竟(ひつきやう)するに(これ)(ため)のみ。(これ)無礙(むげ)自在の妙機絶対の不可思議力こそ実に所謂(いはゆる)宇宙の本体、独一(どくいつ)真神(しんしん)久遠(くをん)の仏陀にして、一切の音は即ち(その)発現なれば、

(だい)毘盧遮那(びるしやな)(けう)(第二具縁真言品)云、秘密主、此真言相非一切諸仏所作不令他作亦不隨喜何以故以是諸法法如是故若諸如来出現若諸如来不出諸法法爾如是住諸真言真言法爾故仝経疏七云以如来身語意畢竟等故此真言相声字皆常々故不流無有変易法爾如是非造作所成若可造成即是生法法若有生則可破壊四相遷流無常無我何得名為真実語耶是故仏不自作不令他作設令有能作之人亦不随喜是故此真言相若仏出興於世若不出世若己説若現説若未説法住法位性相常住是故名必定即象聖同即此大悲万茶羅一切真言一一真言乙相皆法爾如是故重現之也。

空海(くうかい)声字(しやうじ)(すなは)実相義(しつさうぎ)空海が著した『声字(しやうじ)実相義(じつさうぎ)』のこと。(いは)く、各教の興りは声字に()らざれば成せず。声字分明(ぶんめい)にして実相(あら)はる。(また)内外の風気(わづ)かに発すれば必ず響くを名づけて声と云ふ。響は(かな)らず声に()る。声は即ち響の本なり。声発して(むな)しからず、必ず物の名を表す、号して字と云ふ。名は必ず体を招く、之を実相と(なづ)く云々と。()れ声は絶対実在の発現にして、万有一切も(また)絶対実在の発現なれば、畢竟(ひつきやう)するに声物一如『絶対声物一如なりと云ふに(ほか)ならず。又新約書の約翰(ヨハネ)伝には之を最も巧妙に云ひ現はせり。(いは)太初(はじめ)(ことば)あり、(ことば)は神と(とも)()り、(ことば)は即ち神なり、この(ことば)太初(はじめ)に神と(とも)にありき。万物これに(より)て造らる。造られたるものに(ひとつ)として之に()らで造られしは無し。之に(いのち)あり、此(いのち)は人の光なり、光は(やみ)に照り、暗きは之を(さと)らざりき云々。それ(ことば)肉体を成て(われ)()の間に(やど)れり。(われ)()その神栄を見に実に父の生たまへる独子(ひとりご)の栄にして、恩寵と真理(さとり)とにて充てりと、()(ことば)は即ち(みち)(みち)は即ち神、神即ち万有なりと云ふに(ほか)ならず。
(此点に(おい)ては基督教も多神教の(ひとつ)なり)
要するに(これ)()は釈迦、基督等が認めたる声音即ち絶対説にして、(わが)言霊学の声音根本説と(あい)類似せりと(いへど)も、(その)所説たる漠然として()る所なく朦朧気に声音の妙気を想像したるのみにして、(わが)言霊学の如く絶対の真を伝へ、各声の霊気の明確にして整然たるが如きには()らざるなり。

(そもそも)(この)大宇宙を(わが)(くに)にては之を至大天球(たかあまはら)と云ひ、大宇宙の主宰(これ)天之御中主(あめのみなかぬし)と云ひ、万有一切之を神と云ひ、此活動力之を結びと云ふ。
(しか)して(なほ)之を言霊学の上より云ふ時は、至大天球は一声にと云ひ、天之御中主は之を一声にと云ひ、(わか)れ発して七十五声となり。此七十五声は結びの力によりて更に発動すれば万声となり、帰り納まれば一声の(をさま)る」カギ括弧で括られているが、強調の意だと思われる。
(これ)一切法界(ほふかい)四大観(しだいかん)なり。此四大は即ち()らゆる声音なり。天之御中主の発動()れを神と云ひ、神霊元子とはこころなり、こころとは絶体の霊機が此処(ここ)彼処(かしこ)と発作するの()ひなり。此こころの発作が更に現はれたるもの即ちこゑなり。こゑとは即ち心の柄なり、此声広義一面に又をとと云ふ、をととは外よりに結び(あた)るものあるに対してと結び対するの(いひ)にして緒止(をと)なり。之を厳格に区別せば、前者は有霊機物、即ち動物(広義)の心的作用による自発的声音なり、音に非ず。後者は無霊機物、即ち植鉱物等の他より迫撃するを(まつ)て後声音を発するものにして、心的作用なき物の他発的声音なり、声に非ず。()れども動物の下等なるものは(また)鉱物と区物する(あた)はずして、(しか)も一種の声音の質を有するなれば、基本に(さかのぼ)る時は声と音とは区別なく、其末に(はし)る時は人間の声と(いへど)も其声より心の活きなる観念を控除して考ふる時は()れ音なり。之要するに声と音とは天之御中主の心が発動したる声音の程度の差によりて(なづ)けられたるものにして、等しく広義に()ける声なり。

此声音は法界一切の万有となりて形想を現じ、又幽冥に(かく)れて不可思議なり。此巻序発蔵の活機は即ち所謂(いはゆる)結びにして、此結びの力によりて一切法界の生住異滅する状態を至大天球(たかまがはら)フリガナ「たかまがはら」は底本通り。王仁三郎は通常は「たかまがはら」と言わず「たかあまはら」と言っている。とは云ふなり。
(高天原(至大天球)の意義は之を大祓に譲る「大祓祝詞解」に書く、という意味だと思われる。
されば至大天球(たかまがはら)の組成元素は声音なり、音声なければ至大天球(たかまがはら)なし。故に此声音は至大天球(たかまがはら)と共に存在して如来(によらい)の所作に非ず、真神(しんしん)の所生に非ず、如来真神其物なり。之を真言と云ひ之を(ことば)と云ふ、(ことば)即ち神にして真言即ち仏也。我国にては之を言霊と云ふ、言霊は即ち神なり。神は即ち天之御中主の心なり。此心を種々に動き結びて万有を生す。万有は万別あり、故に万有の言霊(また)万別あり。此声音を大別すれば即ち己に言へりしが如く声と音とに(わか)る。(しか)して此声(さら)に別あり、一は人の声にして他は動物の声なり。人の声は明朗にして数多く、動物の声は混濁にして数(すくな)く、又動物の下等なる者に至りては(わづ)かに響底本にフリガナ無し。「ひびき」と読むか?を有するのみ。即ち霊機の減少するに(したがつ)て声(また)減少するなり。(なほ)又同じく人間にても外人と(わが)日本人との音声、言語を比較するに、外人の声は総て濁音、半濁音、拗音(えうおん)促音(そくおん)、のみにて、又鼻音を用ゆるもの(すこぶ)る多く、日本人の声は直音のみにして、
(但し今の日本の人の声は此限りに非ず)
清明円朗にして各声確然たる区別あり。
外人の声は数多の連続拗曲せるものなるが故に其元声(すくな)く、
悉曇(しつたん)五十音、英語二十四音の如し)
日本人の声は一々朗明なるが故に其元声多し
(七十五言なり)
彼等は拗促音を本位として直音を出だし、日本人は直音を本位として拗音を用ゆるなり。
(但し上古は一も拗促音を用いず)
故に外国人が直音を出さむとするも日本人の如く円満朗明なる(あた)はず、又日本人が拗促音を発せむとするも、外国人の如き曲拗促迫したる音を出す(あた)はず、両者自ら主客の(くらゐ)(そなは)りて動かすべからず。(たとへ)悉曇(しつたん)摩多(また)「母音」(をう)(ウに用ゆ)(えい)(エに用ゆ)(うう)(アウヲに用ゆ)の如く、又韻鏡の(をう)母唇音濁の(びやう)べい へい「べい」「へい」は小さな活字で二行で記してある。部廻(ぶけい)切「きやう ほう けい」「きやう」「ほう」「けい」は小さな活字で二行で記してある。にしてバビブベボの韻を受く、歯音清の(せい)「精」の右に「せい」、左に「しやう」とフリガナ。()(えい)「子」の右に「し」、左に「い」とフリガナ。「盈」の右に「えい」、左に「やう」とフリガナ。切にしてサシスセソの韻を受)等の如し。是等は我国の声にて呼べばヲウエイアウビヤウシヤウ等なれども、本音はヲウエイアウヒヤウシヤウ等なり。故に拗促音を本拠とせる外人より直声を出さむとするには必らず数音を綴り合じ、不足を補ひ余れるを捨て、所謂(いはゆる)反切(はんせつ)「反切(はんせつ)」とは「中国で、漢字音を示すのに、他の漢字2字を借りてする法。」〔広辞苑〕。の結果に非ざれば出すこと(あた)はざるなり。(いは)んや又彼等が用ゆる拗促音を出さむとするに(をい)てをや。即ち(をう)(とう)に用ゆる時(はじめ)てウの如く活き(()()(をう)との合なるが故に)(えい)(せい)に用ふる時(はじ)めてエの如く活き(()()()との合なるが故に 又(べい)「びやう へい「びやう」「へい」は小さな活字で二行で記してある。」はバビブベボに活く母字なれども、下に付くイ、ヤウを除かざれば用を為さず、(せい)「精」の右に「せい」、左に「しやう」とフリガナ。はサシスセソに活く母字なれども、下に付くイ、ヤウを除かざれば用を為さず。(とく)(こう)切、(とう)(とく)のクと(こう)のコとを切り除かざればトウに成らず。()(こう)(こう)(こう)のコを切り除かざればコウに成らざるにても(あきら)かなり。我国直音を本拠とするものよりすれば(がう)()かる困難なし、(なほ)(これ)()の事、鈴廼屋(すずのや)大人(うし)「鈴廼屋(すずのや)」は本居宣長の号。の漢字三音考に論ぜられたり。次は本居宣長『漢字三音考』の「外国の音正しからざる事」からの引用。原文と較べると些細な相違があるが、基本的に底本通りにした。フリガナは原文も参考にして付けた。

外国人の音は凡て朦朧(もうろう)渾濁(にご)りて、(たと)へば曇り日の夕暮の(そら)()るが如し。故にアアと呼ぶ音のオオの如くにも(きこ)え、又アアオオと呼ぶ音のウウの如くにもホオの如くにも(きこ)ゆる類、分暁(ぶんげう)ならざること多く、又カキクケコとハヒフヘホとワヰウヱヲと(あい)(わた)りて(きこ)えるなど、(もろもろ)の音(みな)皇国の音の如く分明ならず、又混雑(こんぜつ)乱曲の者多し。東西を今の唐音にトンスヰとよぶが如き、トとンと(まじ)り、スとヰと雑り、又トよりンへ(まが)り、スよりヰへ曲る。春秋をチユインチユウと呼ぶが如き、チとユとイとンと雑り、チとユとウと雑り、又チよりユへ曲り、イへ曲り、ンへ曲り、チよりユへ曲り、ウへ曲る。(いにしへ)の音も皆如此(かくのごと)し。一音にして如此(かくのごとく)混雑し、二段三段四段にも()(まが)るは不正の音にして、皇国の音の正しく単直なると(おほい)に異なり、曲らざる音もあれどもそれも皇国の正しき単音底本では「音」ではなく「△」という記号になっているが、『漢字三音考』の原文では「音」である。の如くには非ず。アア、イイ、ウウ、カア、キイ、クウなどの様に皆必ず長く引きて短かく正しくば呼ぶことあたはず、短く呼べば必ず(すゑ)急促(つま)りて入声となるなり。外国の入声は皇国の入声の如きクキツチフ底本では二文字目が「ヰ」だが、『漢字三音考』の原文では「キ」。等の(あら)はなる韻はなくして単音の如くなれども、正しき単音には非ず。其(すえ)物に行きあたりたる如くに急促(つま)りて、喉内に隠々として韻を帯べり。此方にて悪鬼、一旦、鬱結、悦気、憶見、甲子、吉凶など(つら)ね呼ぶときの悪、一、鬱、悦、憶、甲、吉等の音の如し。故に今此書(三音考)に入声の形を云ふには、仮に其音の下に点を施して(しるし)とす。日月の唐音をジツエツと書くが如し。これ新奇を好むにあらず。其韻を示すべき仮字(かな)なきが故なり。此点を施せるは皆急促(つま)る韻と心得べし。さて如此(かくのごと)く韻の急促(つま)るは甚だ不正の音なり。皇国の音は「い」「ゐ」いかに短かく呼べども正しく(かつ)優緩(ゆるやか)にして急促(つま)ることなし。又外国には韻をンとはぬる音(こと)に多し。ンは全く鼻より出づる音にして口より出づる音に非ず、故に余の緒の音に口を全く(とじ)ては出でざるに、此ンの音のみは口を(きびし)(とじ)ても出るなり。されば皇国の五十連音ヽヽヽヽヽヽヽ是れ誤りなり。此五十連音は下に云ふ悉曇(しつたん)の出にして濁音、半濁音を除きたるなり。我国には()れを合して七十五音なり、大人(うし)本居宣長のこと。も之を知られざれば(かか)る論あり』「ヽヽヽ」から「論あり」までは、『漢字三音考』の原文には無い。王仁三郎が付記した文。原文では「五十連音の五位十行の列に」になっている。
此五位十行の列に入らずして、縦にも横にも(あい)通ふ音なく孤立なり。然るに外国人の音は(すべ)渾濁(くもり)て多く鼻に触るる中に、(こと)に此ンの韻多きは、物言(ものごと)に口のみならず、鼻の声をも厠借(まじこ)る者にして其不正なること明らけし。皇国の古言にはン声を用る者(ひとつ)もあることなし云々。

()れ主として支那字音に関しての見解なれども、他の外国の声音も(この)理にもれず。要之声音は至大天球(たかまがはら)中の主宰天之御中主の心の発はれたるものにして、一切万有が享有する霊機(れいき)の程度に(よつ)て声と音とに(わか)れ、声は更に霊機享有の程度に由て、人の声と動物の声とに分れ、人の声は又(さら)に霊機享有の程度に由て日本人の声と外国人の声とに分れ、(ここ)に声音の正不正と多少とは明かに霊機の正不正と多少とを示せり。

声音
[#図 声音]


加之我国には其声各活機ありて機能を有し我国に有りと有らゆる言詞は皆(この)声に依りて義を現はし心を顕はせるものにして、(かの)外国の如く有り来りの無意味なる符号には非ず、(たとへ)ば漢字音にて(かぜ)(ふう)と呼ぶ、(しかして)ノウと云ふ者は何の意義を有するや、又(かね)(きん)と呼ぶ、(しか)(但し韻鏡(ゐんきやう)学者「韻鏡(いんきょう)」とは、古代中国の韻図。12世紀末に成立。は種々理屈を付するも(わず)かに少数の音に止まり、()つ完全ならず)してキンと云ふ音は何の意義を有するや。
(その)()印度語にても又英仏語にても如此(かくのごとく)推究し行けば捕捉する処なきに(をは)るなり。()れ世界の語学者が最も苦心しつつある問題にして、(わが)文部省が国語仮名遣ひの為に焦慮惨憺するも寸功を奏せざるは必竟(ひつきやう)「必竟」は「畢竟(ひっきょう)」と同じ。「つまり」の意。根抵なければなり。()(この)根抵だに有らば、(わが)国音国語は勿論、支那、印度、英、仏、独語、乃至禽獣(きんじう)鱗介(りんかい)の声をも解し、又其音を聞けば草木、金、石、糸、竹の種類をも(わか)つべし。
(但し(これ)()は吾人通常聞き慣れ居るが故に大凡(おほよそ)は聞き(わか)ち得るなり)
釈迦は之が功徳を解一切衆生語言多羅尼法華経の一節。と云ひ、我国にては之を言霊と云ふ也、言霊とは言葉の(たましい)なり、霊とは心の枢府なり、即ち吾(小我)心の枢府はやがて天之御中主(大我)の心の枢府なり。()の心の枢府を言葉の上より観たるもの即ち(わが)言霊にして、此言霊はやがて天之御中主の言霊なり。故に此言霊を知る時は(あら)ゆる一切の言語声音を知り、一切声音言語を知る時は天之御中主全体(すなはち)至大天球(たかあまはら)ここ以前は「至大天球」のフリガナが「たかまがはら」だったが、ここでは「たかあまはら」になっている。を知るなり。されば()()真に此を知りて言霊を用ゆれば一声の下に全地球を燎くべく一呼の下に全宇宙を漂はすべし(いは)んや微々たる雷霆(らいてい)(かけ)り風神を叱して乃至一国土を左右し、小人類を生殺するに於てをや。如是(によぜ)言霊、如是(によぜ)大道、如是(によぜ)妙術は実に我国の具有なり。故に我国を言霊の(さきは)ふ国と云ひ、言霊の助くる国といひ、言霊の(あきら)けき国と云ひ、言霊の治むる国と云ふ也。
(これ)()(わが)古事記を真解するに依而(よつて)明らかなり)

(そもそ)も我国が如此(かくのごと)く霊機の淵叢地(ゑんそうち)として如是大道を具有する所以(ゆゑん)のものは至大天球成立の本然に()るものにして、(なほ)吾人の一身を司配する精神の宿れる脳髄の如く、至大天球中に於ける脳髄なればなり。彼藤田(ふじた)東湖(とうこ)が天地正大気粋然鐘神洲藤田東湖は江戸末期の尊王攘夷論者。読み下すと「天地正大の気、粋然(すいぜん)として神洲に(あつ)まる」。と歌へるも朦朧気ながらにも之を想像したればなり。今一歩を降て之を天文地文的関係より観る時は実に我国が地球上に於ける位置、気候、水土(すいど)の関係より来るものなりと()ふべし。香川(かがは)景樹(かげき)も水土の関係より声音の正不正を論じて(いは)く(古今集正義論)香川景樹は江戸後期の歌人。底本では「景川」になっているが誤字。「古今集正義論」とは天保3年(1832年)に成立した『古今和歌集正義』のこと。

声音は性情の符、性情は水土の霊ならんことさらに論を待つべからず。しかも濁れる中にありては、(よし)と能く見し西土(もろこし)の、芳野の花の美善(うるはしき)を書せるに似たるも、百千鳥侏離(からさへつり)のこちたきを免れざれば、彼いはゆる正を得むことはほとほと(まれ)なるべし。(いは)んや黄なる泉に染紙のいたく喧擾る(をとな)ひをや。(なほ)余りの万つ国原、其音すべて直清朗なる事あたはざるは、我が天津日霊の大御照しますらん大御光の遍き際りに疎ければ、水土自然に剛潔ならずして、彼(まじ)はり濁れる柔土弱水の中に涵育(ひたる)が故なりとしるべし。されば其の謡へるや譜節もて之を(あや)どり、鐘鼓(しようこ)もてこれをたすくといへども、なほ其音清爽(せいさう)ならず、其調(しらべ)朦朧なるをいかにせん。独我安積香(あさか)の山の井浅からず、清濁る影し見えねば、難波津の何をかわけて善や悪しやをとはん、臀肉(そじし)の空しく内木綿の(うつろ)にして天霧さはる隈しなければ金石を仮らずと(いへ)ども詠ふやただちに天地を感動し、神人和楽かく何ぞ百獣の舞をうらやまん云々

()(もつぱ)ら漢詩を付けて和歌を興さむが為に論ぜるなれども、其水土(すいど)()る声音性情の関係を論ぜる大凡(おほよそ)の意は(きこ)ゆるなり。気候水土の関係によりて其国人の性情風俗一切が各特異の点あることは吾人の日常見聞する処にして又(これ)()天然の勢力が実に偉大なる不可抗力を有するものなることは欧州にても、モンテスキユー、スペンサー等(その)()社会学者も等しく認めて論明せる処にして、今此声音の如きも必竟(ひつきやう)同理なりと云ふ。我古事記に依る天体学に徴する時は地球は至大天球の中心に位して稍々(やややや)西南に傾度を有せり。(地球中心説)

(しか)して(わが)日本は(その)地球の表半球の東北方面の上部に位するが故に(あたか)も我国は地球面の中央の上に位置するものにして温帯中にあり。寒暑(かんしよ)度を失はず、土壌沃豊にして水気清澄なり。(これ)(もつ)て又我国を豊葦原(とよあしはらの)瑞穂(みづほの)中国(なかつくに)と云ふ也。豊葦原とは至大天球の事なり。瑞穂は満つ粋にしては稲草などの穂、又は(やり)槍と同義。の穂先など()ひて、精英純粋の処を云ふものにして、満つ粋の国とは地球上に於ける粋気の充満する国の意なり。
()かる水土論は他日具体的に論及することあるべし)

されば其国土に生ずる一切は皆精英の気を(あつ)めて(うま)れ、霊機(また)精英なるが故に其の声(また)精英にして其言霊(また)精英なり。如是(かくのごとし)()れ精英なり。故に(いは)く直に之を用ゆれば回天動地(てんをかかげ)の業(また)難からずと、さて()く精英なるものを用いむとする時は其の用法(また)精英ならざるべからず、(しか)して其の用法は実に(わが)朝廷に於ける天津日嗣の大道妙術にして所謂(いはゆる)言ひ継ぎ語り継ぎつつ伝へ玉へる我国古有の者なり。()れども崇神天皇の大御心(おほみこころ)によりて一度(ひとた)び秘蔵せられてより以還(いくわん)(しばら)く其の伝へを失ひ、天下(みだ)れて儒仏教の伝来となり、之と同時に又外国の語声をも輸入し(きた)りぬ。所謂(いはゆる)支那字音及び印度悉曇(しつたん)(これ)也。爾後(じご)我国の道益々(ますます)に失ひ、言霊の(いよいよ)亡び斎部(いんべの)広成(ひろなり)平安時代初期の官人。『古語拾遺』を編纂した。が如きすら我国上古文字無しと云ふに至り、万葉集時代には己に仮名遣ひの誤れるもの多く、(みなもとの)(したがふ)朝臣(あそん)平安時代中期の学者。『和名(わみょう)類聚(るいじゅ)(しょう)』を編纂した。が我が古語の失はれむことを憂ひて和名抄(わみやうせう)を遺したけれども、其和名抄己に(あやまり)あり。如此(かくのごと)き有様なりしかば現在今日まで使用しつつある五十音の此間に(をこ)るに至りしなり。是れ実に印度悉曇(しつたん)の転化したるものにして、(それ)が自然の理法に違へること(はなは)だし。今や崇神天皇以来二千年を経て時(めぐ)りて乾坤(けんこん)一転せむとも、(ここ)に彼()せられたる大道は世に()でむとするに至りぬ。(しか)れども馴致(じゆんち)習慣の久しき人(みな)(あやま)れるものを以て大道の本然なりと信じ、(かへつ)(これ)を以て奇異を好める妄誕の説とせむ。故に今(ここ)に之を闡明(せんめい)せむとするに際して、()づ現行五十音の基本なる悉曇(しつたん)なるもの宇宙真理の正伝に非らざる所以(ゆゑん)知悉(ちしつ)せしめむとす。(しか)れども(また)住々「往々」の誤りか?にして現行五十音が(はた)して悉曇(しつたん)(もとづ)くものなるや、否やを知らざるものあるべければ、又更に一歩を退(しりぞい)て五十音の出所を論定し、(しか)して(のち)本論に入らむとする也。抑々(そもそも)従来の片仮名五十音図共に吉備(きび)奈良時代の学者・吉備真備(きびのまきび)のこと。が作なりと云ひ、又真言(しんごん)の僧徒が天竺の悉曇(しつたん)章によりて邦人に固有する声のみを挙げて作りしものなりと云ふ等、(その)()異説多くして(つまびら)かならず、吾人は今之が作者の何人(なんぴと)なるやを尋求「尋究」の誤字か?するは必然の要件に非ずして五十音図其者(そのもの)の根拠を求めむとするものなるが故に作者の穿鑿(せんさく)(しばら)く之を()きて問はず、(ただち)に五十音の故郷に入らんとす。さて今之を真言僧侶の手に成れるものとせば、悉曇(しつたん)の出なることは論を()たず、(しか)して又之を吉備(きびの)真備(まきび)奈良時代の学者。の作なりとするも(おな)じく、是れ悉曇(しつたん)に基くもの也。何者吉備大臣が之を作りしとするも、必ずや入唐帰朝後のことに相違無くして
(唐に居ること二十年、我聖武天皇の天平七年帰朝す)
学び来れる漢音によりて作れるものなるべく、(しか)して従来支那韻音なるものは悉曇(しつたん)より出たるものにして、畢竟(ひつきやう)同根の出なればなり。(ちよう)鱗之(りんし)韻鏡(ゐんきやう)『韻鏡』の序文は1161年に張鱗之(ちょう・りんし)なる人物が書いた。に曰く

余年二十始得此学字音住昔相伝類曰洪韻釈子子之所撰也有沙門神興号知韻音嘗著切韻図載玉篇
(南梁高祖武帝の大同九年成る武帝とは、中国の南北朝時代の王朝「梁(りょう)」の初代皇帝・蕭衍(しょう えん)のこと。在位期間は西暦502~549年。底本では「天同」とあるが誤字。反切(はんせつ)の典拠の一つである『玉篇』が成立したのは大同9年(543年)。
巻末竊意是書作於此僧世俗訛呼王=洪為洪而己然又無処拠云々、又曰く 梵僧伝之華僧続之云々と、(よつ)て支那韻書も亦悉曇(しつたん)より転化せるものなるを知るべし。故に(いづ)れにても(わが)五十音は悉曇(しつたん)に根拠を有するものなることは(あきら)けし。韻鏡易解大全に曰く

依開大=区抄等堅阿伊宇恵遠五字及横加佐太奈波未也羅和九字者在仏経中余所三十六字
(五十音中、父母音を除きたるもの)弘法大師所加也云々

或は又作者 未分明矣と、又同頭書に曰く 云々三十六字雖大師加之彼十本有伝来非云新加之乎と、今五十音父母音を除きたる余りの三十六字は空海が加へたりとするも、(もし)くは(しか)らずとするも、己に父母音にして彼に存し、其音字の配列順序にして両者同一なる点より考ふるときは最早疑ふの余地なかるべし。

五十音図
[#図 五十音図]


以下悉曇の活字無きを以て○点を以て其配置を示す。

[#ここに図表2枚(母音と父音の図)が入るが省略]

前記の如く悉曇(しつたん)には母音十二字あり之を摩多と云ひ父音三十五字あり、之を体文と云ふ。(しか)して我国の五十音図の父母音は皆右の中の同類音を一音に約したるものなり、即ち「 」印を付したるは其約音を除去すれば、アイウエオ、(および)カサタナハマヤラワを残し、此父母(まじ)はりて他の三十六音を生ずるなり。依之観之正しく(わが)五十音図は此悉曇(しつたん)図を襲へるものなるは明白なり。
但し此図は之を襲用(しふよう)せるものなるも、声音は之を襲用せるものに非ずして正しく我国の声なり。
(上古よりは多少の変化あれども、之を襲ふも其類似の声の位置を借りたる者なり迷ふべからず)
印度人の声は到底日本人の声とは同一ならざるなり。
「但し吾人は悉曇(しつたん)専門の研究家に非ざれば、(あるひ)は時に些末(さまつ)誤謬(ごびう)なきを()し難し、(つつし)みて大方識者の高諭を仰ぐ」

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