大本言霊解
王仁
△大本 オホモトの言霊を略解すると、オの声はア行の第五段、即ち出なり、厳なり、稜威である。アの行は総て天位にして親音であるから、各横音に響く。之を天津祝詞に筑紫之日向之橘の大戸と示されてあるのである。
(一)、オの言霊は、起也、貴也、高也、於なり、興し助くる言霊也、大気也、大成也、億兆の分子を保ち且つ分子の始末を知る居る也、心の関門なり、受納の義なり、真愛の引力也、権利強き也、先天の気也、大地を包裏居る也。漸々に来り凝る也。外及也等種々の活用ある言霊である。
(二)、ホの言霊は、天地万物の始也、母也、矛なり、隠門也、臍也、ヽ也、袋也、日の霊也、上に顕る言霊なり、天の心なり、照込む義なり、火の水に宿る也、掘也、帆也、父也、太陽の明分なり、心に写る也、恋ふるなり、見止る也等、種々の活用ある言霊である。
(三)、モの言霊は、舫也、塊也、亦也、者也、累也、与也、円満を主る也、下に働く言霊也、世の芽出也、天之手也、数寄り数成る義也、伸縮有る也、遂に凝固而物と成る也、本元也、土の上面也、水の坐なり、分子の精也等種々の活用ある言霊である。
(四)、トの言霊は、男也、轟也、解也、基也、人也、昇也、万物の種を宰つて一より百千の数をなし、タ行は総て前駆の意義ある言霊也、十也、能く産み出す也、結び徹足る也、皆治る也、結びの司也、形の本源也、八咫に走る也、世の位也等、種々の活用ある言霊である。
△以上オホモト四言を更に略解する時は、次の如き活用を示す事になるのである。
(一) (オ)の言霊
(一)起也。神諭に一旦此世が潰れて了ふ所を、艮の金神が引受けて、潰さぬ様に守護いたして来たのであるから、神も人民も守護神も目を覚まして、それぞれ今度の御用に御起ちなされよとの神宣は、起也の言霊の活用である。
(二)貴也。神諭に綾部の大元は、今では粗末にしてあれ共、先に成りて神界の誠の仕組が解りて来たら、世界中に外には無い貴い所に成るので在るぞよと在り、且又貴き天神地祇の昇降し玉ふ霊地にして、貴人高位の人々の集まりて神業を補佐するてふ言霊である。
(三)高也。神諭に大本は地の高天原であると出てある。世界の中心、最高最尚の神人集合して、高き功名を顕はすてふ言霊である。
(四)興助る言霊也。大気也、大成也、恰も地獄のドン底まで落込み、行詰りたる社会を興し助けて、神政を成就し、神の大気吹きに由りて濁世を払拭し、至聖至楽の神世を大成する神の出現あるべき言霊である。
(五)億兆の分子を保ち、且つ分子の始末を知り居る也。神諭に三千世界の神、守護神、人民、餓鬼、虫、樹草に至るまで、神の恵に由つて、各自に其所を得せしめるとある所以である。亦三千世界の一切万事の事は、塵程の事でも、艮の金神は調べ抜いてあると出て居る所以である。
(六)心の関門なり。世界の人民の心の関門を開ひて、真理の蘊奥を覚らしめ、神の御国に導き助くてふ言霊の活用である。亦如何なる頑迷不霊の人と雖も、此大本に或る一定の時間参詣して、神の美はしき御声を聞き、且又その偉大なる神力に接する時は、必ず心の関門の開けて、心中に神国を建設し得るてふ言霊の活用である。
(七)受納の義也。三千世界一切の宝は全部○○の物になるぞよとの神諭の出でたる所以である。今迄悪の守護神が此世を持荒して、上げも下ろしも、行きも戻りも成らぬ如うにワヤに乱した世界を、艮の金神が天の大神様から一旦受取り申して、建替建直しを遂行致して、三千世界の総方様へ御目に懸ける、大謨な経綸であるぞよとの、神諭に出でたる所以である。又た竜宮の宝を陸の竜宮館の高天原へ御納め遊ばすのを、艮の金神が御預り申すぞよとの神諭の出たる所以である。
(八)真愛の引力也。神の仁徳愛護を発揮して、仁愛神の神政を布き、天津日嗣の真王仁君に引き付けられ、万国の民来朝して、神徳、君恩を欣慕し、真正の天下泰平を来すてふ言霊である。神諭に、艮の金神は世界一切を助ける神であるから、此真相が世界に判りて来たら、世界中の人民が歓こびて、我も我もと申して出て参る世界の大元に成るぞよと出てある所以である。又一度綾部の霊地を踏み、神徳に浴した以上は、堂しても此地を忘るる事が出来ぬやうに成り、神縁深き人は遂に神の綱に曳き付けられ、家族を挙げて移住し、神務に一身を投ずると云ふ言霊である。
(九)権利強き也。権利はマコトである。誠ほど世の中に強いものは無い。併し三百代言等の唱ふる権利なるものとは、天壌の相違ある事を付言して置きます。神諭に此大本は真の神の誠の教で開く、神界の地場であるから、絶対無限の権利を保つから、誰が何んと致しても微駆とも致さぬ、尊い、世界に外に無い誠の経綸の場所であるぞよと出て居る所以である。本春以来全国の言論界から無限の悪言毒筆を以て包囲攻撃され、其筋からは疑惑の眼を以て、綿密周到なる調査を受けたるにも拘はらず、一片の不都合も無く、思神、思国、思君、思民の至誠を認められたのは、全くマコト強きの致す所である。却て大本の基礎は益々強固となり、社会の渇仰信用は、日に月に増大しつつ在るも、権利強き言霊の活用である。
(十)先天の気也。先天的に神界の御用を勤むる、変性男子と変性女子の御魂が出顕して、宇宙の修理固成に任ずるてふ、言霊の活用である。変性男子即ち厳の御魂は、三千世界の父の役を勤め、変性女子即ち瑞の御魂は三千世界の母の役を勤め、至上至高の神世を樹立し玉ふ、言霊の活用があるのである。
(十一)大地を包み居る也。大地一切の動植物を包羅し、之を安息せしむる、大神の威徳を顕はすてふ、言霊の活用である。即ち神諭に大地の上の一切のものは、大国常立尊が司配し守護いたすぞよと顕はれある所以である。
(十二)漸々に来り凝る也。神諭(明治二十七年)に、此大本は今では何んでも無い粗末な処であれども、行く先は世界から漸々に結構な人民や御魂が寄りて来て、神の御用を致すやうに成るから、そうなりたら、巌に松が生えた如く凝り固まりて、神国の結構な御用を致すやうに成りて来て、三千世界に外に無い、誠一つの凝まりが出来て来て、三千世界を助ける地の高天原と相成るぞよ。是からは誠の人が漸々寄りて来て、日本魂の凝りて、世界の善の鏡を出す所に成るぞよと、顕はれある所以であります。
(十三)外及也。神諭に艮の金神は日本斗りで無いぞよ。海の外の異国は申すに及ばず、宇宙の守護を致す大本で在るから、大地の外面までも守護を致すぞよとの神諭の出づるも、オホモトの反しオの言霊の活用あるからである。
(二) (ホ)の言霊
(一)天地万物の始也。天地の初発に伊邪那岐、伊邪那美の二神が、アナニヤシエオトコヲト詔り竟えて御合ましし時に、ヽとホの霊現はれ、其御霊⦿『○は女神の水、ヽは男神の火』是の如く此の霊の現るを淡路穂狭別の島を生むと云ふ。其ホの霊が右に割別れて気起り、オの霊をなし、左に割別れてヲの霊を成し、次に気脹のヘの霊起り、右に割別れて天地の胞衣のエ霊を成し、左に割別れて胞衣搦むのワ行のヱの霊をなし、其胞衣の中より水火二つに別れんとして、フの霊起て吹き、右に浮昇り、ウ(ア行)の霊起り、左に渦巻き降るウ(ワ行)の霊起りて、竟にヒの霊起りて火と成り、次にミの霊現はれて水と成り、亦水は火の為に割別れて昇る水火の(火水と現るなり)イ(ア行)の霊を成し、火の霊は左に割別れて引く水火のヰの霊を成し、(水火と現る也)次に水火放のハの霊起りて、水の気は月となりて右に割別れて、アの霊を現じて天を成し、火の気は日と現れて左に割別れてワの霊と現じて地を成し、水の霊の月は朧にして形を茲に見せず、火の霊の日は形を茲に現ず。故にア行は天を宰り、ワ行は地を宰り、ハ行は地の方を宰り、(此アワの二行はホの一言より割別れ以てアワ道のホの狭別と云ふなり)
次にアの霊の水は、ワの霊の火とを文にして、ヤの霊起り、次にア行のイとワ行のヰとを文にして、入る息のイの霊起り、次にア行のウの水とワ行のウの火と文にしてエの霊起り、次にア行のエとワ行のヱと文にして、昼夜の胞衣のエの霊をなし、次にア行のオとワ行のヲとを文にして、水火を与のヨの霊起りて引く水火定まり、然して出る水火の正中にノネヌニナと起りて、総て水火の中に位す。是を伊予の二名島と云ふ。(伊予とは息与なり。二名とは出る入る息の二つの中と云ふ事なり。島とは行の事なり。)
次にラリルレロと起つて引く息を搦みて降る。(ナニヌネノは清き水にて昇り、ラリルレロは濁水にて降る)是れを筑紫ノ島と云ふ。此濁水降るに従つて、引息の火の霊弥々凝りて、コの霊起り、ロの濁水と与て水火塊るのソの霊を起して地の初をなす。其初を成すに従つて、差別分のケの霊起り、其差別別つて従がつて、水火与むのセの霊起りて瀬となり、其瀬と成すに従つて、クの霊起りて土を成す。其土を成すに従つて、スの霊起つて洲と成り、その洲現るに従つて火の気のキの霊起りて雲、霧霞も晴て、カの霊起りて日も暉いて影を成し、其暉に従て洲の上にシの霊の水起りて(此のシの水を清水と云ふ。清は借字也)
次にサの霊起りて上に割別れて昇り、カ行は伊邪那岐神、サ行は伊邪那美神、此二行の水火誘ひ双ぶを二神の御名とす。カ行を伊岐島と云ふ。(伊岐は息なり)サ行を津島と云ふ。(ツは水にして津也)此二行起るに従つてラ行の濁水弥収まるなり。生て両眼を閉づるは、総て口中の水を宰る也。小児の涎、或は生長して言語の別ち悪しきも、皆此ラ行の濁水収まらざるの故なり。呼吸に在つて離れず閉づるは、ラ行の濁水にして、開くはカ行サ行の活用也。故に此二行起りてより、澄めるものは昇りて天と成り、濁れるものは降りて地と成り、人の言語の別を成す。然して二柱の水火和して伊邪那美の気は水中の火と成りて降る。是をタ行と云ふ。万物の種を宰つて、一より百千の数を成す。其種を宰るのタの霊現はる。種は一粒よりして百千の数を成し、次にチの霊現はれて、チは一より始りて百千の数を成し、次にツの霊現はれ、ツは続連る義にして、一より二に続き連なりて百千の数に及び、次にテの霊現はれ、手の名は一にして左右あり、合して百千の数を成し、次にトの霊現らはれ、トは人の霊也。人の名は一にして女男あり。女男与て百千の数に及ぶ。此行総て万物の霊根のヽを宰る。是を佐渡の島といふ。(サは細也、トは火也。細なる火を宰る行と云ふ事なり)
次に伊邪那美の気の火中の水と成りてマ行現はる。此行は潤水にして、タ行の火は与舫う。(此のマ行の水は真水と云ふ。真は借字也)故にモの霊起りてタ行と舫い、メの霊起りて陰陽回り、ムの霊起りて陰陽睦み、次に月の霊のミは、前にヒの霊と共に起ると雖も、陰陽朧にして光を成さず、茲に至つてラ行の濁水収まり、カ行、サ行の水火澄昇るに従つて、始めて光を現して照暉やき、マの霊起りて円を成し、然して亦た月の霊のミはムと睦み、メと回り、モと日月舫い、日月もやいて万物を生じ、人及び鳥獣草木悉く現れて、一世界満足なり。即ちタ行水中のヽとマ行火中の水と与み舫いて、御霊⦿斯の如し。○は万物の子宮にして、ヽは万物一滴の種なり。是を大倭豊秋津島と謂ふ也。即ちオホモトのホの言霊は、天地万物の始元にして、○き世界に一の神霊を現はし、⦿の御国を建設すべき言霊、自然の活用を有するのである。皇国をホヅマの国、又はミヅホの国と称するも、ホの言霊の活用ある故なり。
(二)母也。天地救済の母親神なる瑞の御魂の大神顕現して、蒼生を平けく安けく、治め玉ふ意義の言霊である。亦母と云へば一切万物を産出し、且つ是を輔育する活用があるのである。
(三)矛也の言霊活用あれば、時に随ひ物に触れ、八千矛を向けらるる如うな事が幾度もある。旭日昇天の勢ひ日に月に加はり来る大本の成功を羨望する余り、遂に反対行為に出づる者が次第に殖えて来るのも、矛也の言霊の活用である。大本には手品の種が在るとか、山カンじやとか、意外の事を発見したとか、今に大本にヱライ事件が突発するから、今の内に脱退して我に従がえ、然らざれば一生世間へ顔出しの成らぬ様な事が出来するとか、教主の手品に掛つて居る幹部の役員は御気の毒じやとか、秘密の証拠を握つたとか、神霊界の記事は云々とか謂つて折角の熱心な信者を天之沼矛(舌)や筆紙に托して迷はせ、地獄のドン底へ抱き落しに掛るものが出来て来る言霊もあるから、大本の役員信者は大に注意をして貰はねば成らぬのである。何程大本の役者が至誠通神的の活動を行つて居つても時としては矛を向けられ、又は反間苦肉の奸策に乗せられ、失敗する事があるから、大本の真相を充分に探査して、真に大本を解して居つて貰はぬと、トンダ失策をする事がある。神諭に出てある通り、実に世間に顔出の出来ぬ様な事が出来するのであります。兎角この大本は神界の仕組で行く処で、人心小智の窺知すべき所で無いから、人間の誘惑にかからぬ様に、誠心誠意の信仰と研究を望まねばならぬ。
(四)隠門也。ホトは人体に取りては女の要処なり。隠れたる所なり。天地経綸の司宰者たる人間を生み出す枢軸である。地上に取りては世に顕はれざる主要なる地点である。然れども時満つる時は大に現はれ、万物を発生し、化育し、天下国家の真柱を産み出すてふ言霊である。
(五)臍也。ホソは人身の中府にして、所謂臍下丹田の上である。一身上の高天原で、天之岩戸である。即ち一身上の守護神の鎮坐所である。之を大地の上から見れば、大地の中心である。日本を極東と称するは地理学上の見地からである。大地固成の上より、地質学上より見れば、日本は大地の中心であり、綾部は日本の中心で、下津岩根の地の高天原で、世界の大守護神の鎮坐せらるべき言霊である。
(六)ヽ也。ヽは世の始の霊である。艮の頭にヽを加ふれば良となる。良はヨロシキともナガシとも訓む。艮はトドメともカタムルともハジメとも訓む。世の元のハジメの生神が現はれて、三千世界を造りカタメて、最後のトドメを差し玉ふは艮の金神である。艮の頭にヽを加へて、即ち一霊天より下る時は良き世を招来し且又末ナガキ松の世を出現すると云ふ言霊の活用である。
(七)袋也。袋は一切物品を蔵むる意義である。一度此袋に容れられた以上は、容易に出る事は出来ぬ。是れを出したり入れたりする権利ある者は、袋の持主である。綾部の神宮坪の内と云ふ地名は、袋の言霊活用である。一度真愛なる神の霊地に参詣し、神の恵の御綱が懸つた以上は、袋の持主なる大神の許し無しには、自由行動を取る事は出来ぬのである。一旦大本の教に入り、中途に少々の誤解を生じ、大本を悪罵しつつ、脱走した人でも或る一定の期間を経過すれば必ず前非を悔ひ、神界に謝罪して、亦元の神宮坪の内の霊地へ立戻る如うになつて来ると云ふ言霊である。神諭に『大本の大橋越えて未だ前へ、行衛判らぬ跡戻り、慢神すると其通り』と出てをりますが、一旦力一杯反対行動を為た人が、改心して再び大本へ立戻り、大神の仁慈に浴した例は、今迄に数え切れぬ程ある。現に目今反対行動を取つて、無暗に活動を続けて居る人もあるが、是等の人々も必ずや前非を悔ひ、改心の情を表して、再び大本へ帰り来るべき運命を持つて居るのである。可成はズツト此侭信仰を続けて我真心を大神に認めらるる様に致したきものであります。
(八)日の霊也。天照皇大神の威霊、国祖の大神を輔て、日本国の霊能を中外に発揮し、天津日嗣を万世不朽に守護し玉ふ霊地である。皇道大本が敬神と尊皇の神旗を神風に翻へし、天下万民の為に永年奮闘を怠らないのも日の霊也の言霊に支配されつつあるからであります。
(九)上に顕はるる言霊也。天地の間に人の眼にて見る能はざる火水がある。是を火水とも云ふ。神と唱ふるは体であつて、水火と唱ふるは用である。故に陰陽と陰陽と与みて万物を産むのである。人の胎内に火水あり、是を霊水火と云ふ。亦た気ともいふ。魂と唱ふるは体にして、息と唱ふるは用である。故に息と息と与みて言、気と気と与みて人を産むのである。変性男子の御魂は一名厳の御魂と唱へ、火の体にして、大本教祖の御神務である。変性女子の御魂は一名瑞の御魂と唱へ、水の体にして、大本教主の天職である。故に教祖を火となし、教主を水として、大神界の経綸が、秀妻の国の中心、地の高天原に行はれつつあるのである。真実の火は象形の無きもの、是を火の体と云ふのである。此の火が象形を見する時は、必ず火中に水がある。故に良く燃える。是を火の活用と云ふのである。大本の神々の経綸が完成するのも、変性男子の火の中へ変性女子の水が入り込んで助くるから、火の活用が上に高く顕はれ、ホノヲと成つて天をも焔す勢となるのである。亦た実の水には象形無し。是を火の体と云ふ。此の水の象形を見する時には、必ず水中に火がある。故に良く流れ動いて水の活用を遂ぐるのである。以上は火も水も共に体と用とを略述して見ましたが、今度は火と水とに就て、体用の区別を述べて見ようと思ふ。火、水と並び唱ふる時は、火は体にして水を動かし、水は用にして火に動かさるものである。火は元来動かずして音無く、水は動いて音を発するのである。故に変性男子の火は動かず、音も成さないけれども、其火に動かされつつある。変性女子の水は大変に動けば動くほど音を為すものである。古典を按ずるに、天照大神(火)と素盞嗚尊(水)との誓約の後ち、火たる天照大神は、天之岩戸に深く隠れて少しも動き玉はず、水たる素盞嗚尊は火に動かされて、山川草木悉く動揺せしめ、天地皆震動したのも、水の御魂の活用である。大本の変性男子即ち教祖様は、火の御用であつたから、明治二十五年から大正七年まで、前後二十七ヶ年の永い間、一室に閉じ篭り、大神に奉仕さるる傍、昼夜を分たず、机に向つて神諭の御用を専ら遊ばし、少しも表え現はれての活動は無かつたのも、火の体の御役目であつたからであります。故に動かずして音も無く世間からの反対も、部下の中傷も何も無く、実に音無しで、音無瀬川の上流に天下修斎の神業の根基を築き居られたのである。之に反して変性女子の教主の御魂は、水の役で、教祖の火の力に動かされて、種々の活動を成し、従つて部下の教信徒より或は笑はれ、或は罵られ、或は苦しめられして、種々の音を立てて来たのも、御魂の因縁の然らしむる所であります。元来火は体にして水を動かすものであり、水は用にして火に動かさるるものである。火は動かずして音無く、水は動いて音を成すは天地の真理である。総て動かざるは火の性質で、動くは水の本来の性質である。故に水の名を為すと雖も動かざる時は火である。凝結した水を氷と云ふも此の理である。又火の名を為すと雖も動く時は水である。例えて云へば、水気は水の名であり火垂は火の名である。然れ共右の手を以て左の手を打つ時は、右の水は火となり左の火は水となりて音を為すのである。亦た木は水で鐘は火であるから、木を以て鐘を打つ時は、鐘は水となつて音を成し、鐘を以て木を打つ時は、木は元の水となつて音をなすのである。火水体用の活物にして、相対して動き、天地の水火の廻る事此の如く微妙なものであります。元の火は─にして、元の水は│である。即ち体から言ば、火は横にして伏し、水は竪にして起つ。変性男子の火は、体から見れば女体であり、変性女子の水は体から見れば男体である。然るに水に火加はる時は火に従がつて横に流れ、火に水加る時は水の体に同化して高く上に燃え上がり、上に顕はるるに至る。変性男子の火も変性女子の水に依りて、雲の上までホノヲと成りて顕はるると云ふ言霊の活用であります。言霊学の体より言ふ時は、─はカにして│はミなり。故に十をカミと言ふ。用より言ふ時は、─はシにして│はホである。故に是の十をシホともイキとも言ふ。│はミヅホの義である。十は瑞穂の中国の標章で、即ち神国日本の意義であります。
(十)天の心也。天に坐す御三体の大神が、大地の汚濁を洗滌し、払拭し玉ふに就て、二度目の天之岩戸開きの大神楽を施行し玉ふ御神意を、普く天下に発表し給ひ、人心を清めて天国を地上に建設さるるてふ言霊である。大本の神諭は即ち天の心を伝ふる貴重なる神示であります。故に此の大本は天の心を心とし、天を相手として活動して居る所であるから、現代の如き俗悪なる人間社会に真解されないのも無理はないのである。それを人間心を出して、大本の行り方が何うの斯うのと批評したり反対したりするのは、未だ大本の言霊的使命を解せざる、迂愚者の狂動であると言はねば成りませぬ。人間心の抜けない人々は、到底大本の真相が解らないから、従つて反対するのでありますが、何程反対されても微駆とも動ない大本は、天の心を心として天下の為に全力を尽くして居るからであります。併し我々の心の緩まない為に、種々の敵を造つて警戒を与へ玉ふ、天の心かも知れませぬ。神諭にも力一杯敵対ふ御役も拵えてあるから、其人は誠に御苦労な御役じや。霊魂の因縁で、善の役と悪の役とが拵えてあると出て居りますから、信従者も反対者も、天神地祇の御心に由て、知ずに神界善悪両面のそれぞれの御用を勤めさして頂いて居るので在ります。
(十一)照り込む義也。俗世界の新聞紙や雑誌で大本の教理を誤解し、又は売らん哉主義で種々の悪言を並べ、邪教とか妖教とか、誇大妄想狂の集団とか、教祖は田舎の紙クズ買の婆々だとか、教主は手品師だとか、大正の天一坊だとか、由井正雪だとか、社会共産主義者だとか、所在悪罵を恣にして、大本を覆えさうとすればする程、世界の同情が大本へ集中し、思ひも寄らぬ助け船が現はれて来るのは、照り込む義也の言霊の活用が在るからである。加之時期到来の暁には、天津日の豊栄昇りに、大本の至誠至忠の真心が、大空に高く輝き渡り、旭日強く大本に照り込み、一切万事が明らかに世界に判るてふ言霊であります。
(十二)火の水に宿る也。火は天に属くし、水は地に属くす。天の大神が地の高天原なる霊地に天降り玉ひて、大神業を遂行し玉ふてふ言霊である。時期到来すれば、天の○○様も一時は下津岩根に天降り坐して、五六七の神政を成就し玉ふてふ言霊の活用がありますが、今は発表する時期ではありませぬから、省いて置きます。又変性男子の御魂なる教祖様の威霊が、瑞の御魂なる変性女子の水に宿り玉ひて、神示の経綸を助け玉ふてふ言霊であります。
(十三)堀也。オホモトのホの霊に掘の活用があるので、是非是非掘の必用を感じ、大正三年の八月八日から、三千坪の面積に金竜池を掘り、大八洲の水火に合して、五大洲に象どり、大小五箇の島を築き、各自に神社を建造し、天地経綸に参加し玉ふ生神を奉祀したのであります。神諭にも、出口直の屋敷には金の玉と黄金の釜が生けて在るから、是を掘り出して三千世界の宝と致すぞよ。昔から世に埋もれた一切の宝を掘り上げて、それぞれに目鼻を付ける世界の大本であるぞよ。と出て居るのも堀也の言霊の活用が在るからであります。
(十四)帆也。現時は蒸気船が出来て居るから、帆の必要を感ずる事は甚だ尠なく成つたなれど、古は船に帆は最も必要の物であつた。理想の彼岸に達せんとせば、救世の船にも帆が必要である。大本の四言中に、斯の帆の活用があるので常に神業が順風に帆を挙げた如く、着々と進行したのである。時に暴風に遇ふた事も幾度となく在つたけれども、其暴風に逢ふ毎度に大本の神業が急速力で進歩して来たのも、帆の言霊の活用に由るのであります。今後と雖も未だ未だ幾度となく、強風に吹き付けられる事が有るであろうが、何処までも帆柱(神柱)の折れない限りは、一層迅速に神業の進歩を見るべき言霊であるから、何事が出来しても心配は要りませぬ。且又帆は高く現はれるもので在りますから、彼岸に近くに従ひ益々世人より、見上げらるる如うに、成るのであります。
(十五)父也。父系に属する変性男子の、厳の御魂国常立尊の現はれ玉ひて、三千世界を審判し、教導し玉ふも父の霊也の言霊の活用であります。
(十六)太陽の分明也。天に一つの太陽ありて、万界を照し玉ひ、地に一つの帝王ありて、大地の顕界を知食す如く、宇宙の間に唯一の光明を放ちて、万物を照し助くる霊地の存在するは惟神の明分である。其霊地が宇宙の中心にして、地上の中心日本国に存在し、日本国の中心たるアヤの高天原に存在するは、天照大神の知召す太陽の明分に基づくのであります。
(十七)心に写る也。古今東西の思想は、一切大本に映写し、厳、瑞二柱の心鏡に感ずるに由り、世界の人心の傾向の判明する霊地であるから、大本に写らぬ事は一つもないと云ふ言霊であります。殊に瑞の御魂の心の鏡には、一々明瞭に映じて来るので在ります。現に今筆を採りつつある私の心眼に、大阪の支部の某氏の態度に、不公平な点があると云ふて、信者の人々が某氏に対して不平を抱き、ゴテゴテ言ふて居れるのが写つて、執筆の邪魔に成るので、大変に困つて居るやうな次第であります。
(十八)恋る也。神諭に今では世界の大本に成る結構な所が、余り粗末に致してあるから、分らぬ人民が寄りてタカリて、色々と悪く申して居れども、大本の経綸が天晴れ判りて来たら、如何なものでも恋しくなりて、我も我もと申して集りて来て、勇んで御用を致すやうに成るぞよと、出て居る所以であります。
(十九)見止る也。世界一切の事は、何に由らず、綾部の大本の許しの無き事は、九分九厘までは都合克く行くなれど、モウ一厘と云ふ所で手の掌が覆りて、一も取らず二も取らず、行きも戻りも成らぬ事が出来するから、何事に由らず此大本へ参りて、艮の金神の見止めを戴かねばならぬぞよと云ふ、神諭が現はれて居る所以であります。
(三) (モ)の言霊
(一)舫ふ也。モヤウは方舟也。ノアとナオとの方舟の中心はス也。スは言霊の大本である。国の内外を問はず地の遠近を論ぜず、至誠至忠の紳士淑女の舫ひ集り来つて、大家族的団欒の楽みを味ひつつ、神業に参加し、且つ霊肉両方面の罪を救はるてふ言霊の活用である。
(二)塊る也。大地を造り固め締め、更に海月如す漂える現代を修理固成して、天国楽土の神代を来たらしむる為に、国常立の尊が此の大本に出現し給ふてふ、言霊の活用であります。
(三)亦也。者也。亦は再度の意義である。大地の主宰神たりし国常立尊は、千座の置戸を負ひて、永年間、艮へ退隠され、地上の主権に離れ、悔しい残念を克く堪え、克く忍びて、一陽来復の春光を待たせ給ひしに、天運爰に循環し来つて、再び大地の主権者と現はれ、二度目の世の建設を経綸し給ふ事となつたのは、即ち亦也の言霊の活用があるからであります。又者也は、智者も、学者も、聖賢者も、愚者も、若者も、老者も、幼者も、強者も、弱者も、富者も、貧者も、軍人も、法律家も、官吏も、商人も、農業者も、政治家も、教育家も押並べて信者と成り、相和し相信じて、以て一家の者の如く睦び親しみ、大神の洪慈大徳に浴すべき、言霊の活用であります。
(四)累也。与む也。円満を司る也。この活用は前段の亦也、者也の言霊の活用に近似して居るから、重複を避けて説明を省略して置きます。
(五)下に働く也。敬神尊皇報国の至誠を尽し、君国の為に永年所在辛酸を嘗め、常に心身を消磨しつつも、現代人の如く、栄誉の地位を望まず、依然として地平線下の活動を甘んじつつあるも、下に働く言霊の活用あるからである。総てモの言霊は語の下に克く活用される。けれども、いへども、なれども、是も、彼れも等の如し。
(六)世の芽出也。神諭に三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。世の根の世の本の始りの御用であるぞよ。九ツ花が十曜に咲くぞよ。世の中の一切の悪木を切り捨てて、新らしき神世の芽を出して、万古末代栄えさすぞよ。芽出度芽出度芽出度の花が咲くぞよと、現はれて居るのは、世の芽出也の言霊の活用を説かれたのであります。
(七)天の手也。宇宙一切、森羅万象を掌握するは、即ち天の御手である。モの言霊の幸ふ大本は、宇宙一切を天津大神の委任を受けて、之を統御し整理して、神政を成就し、之を天神の御手に奉還するてふ言霊の活用であります。神諭に此世の者は艮の金神が出口の神と現はれて、御預り申す経綸であるから、他の者の自由にはならぬと出て在るのも、天の手也の言霊活用が在るからであります。神界の御経綸の尊とき地面を、個人の名義で所有し、管理するさえ御神慮に叶はぬ位であるから、取越苦労をして跡で取返しの成らぬ事を仕出来しては成りませぬ。何事も天即ち神の御手の内に在るので、神様が人間を使ふて、経綸を成さるのであるから、御仕組の地所を人民の自由にする如うな事では、到底大御心に叶はぬから物事成就しませむ。神界の仕組の判らぬ人は、余り先の事を思ひ過ごして、我と我手に事を六ケ敷するものである。人の手に依らず、何事も天の御手に任すのが、艮の金神様の今度の世の建替の仕組であります。
(八)数寄り数成る義也。此の言霊の活用は、億兆無数の蒼生や霊魂が寄集つて、種々の事業を成す事である。神諭に、三千世界の神と人民、守護神が寄りて来て、三千世界に外には無い結構なことを致して、天地へ御目に掛けるぞよと出て居ります。故にこの大本へは因縁の御魂が数え切れぬ程、沢山に集りて来て、世界一切の事を眼鼻を付けるてふ言霊の活用が有るのであります。亦た神界の御経綸も世界一切の事であるから、数々の活動方面があつて、八百万の神々が夫れ夫れ御働きに成つて居られるが、現実に大本の人々の神示に従がつて、御用を勤める事も、沢山にありますから、人数も多く要りますし、費用も従がつて嵩むと云ふ事になりますから、斯ふ云ふ無限的の事業を為すには、何程金力や学力があつても、現今の如き少数の幹部の人々の力のみでは、大海の一滴に等しき活動より出来ぬのでありますから、神の綱の掛つた因縁の身魂は、夫れ夫れの御陰を戴いて、斯の大神業を助けて頂かねば成りませぬ。神諭に、因縁の身魂は世界に何程でも拵らえてあるから、一々大本へ神が綱をかけて引寄して、因縁相応の御用を致さすぞよと出て在りますから、労力なり、物質なり、筆なり、口なりで、斯の千載一遇の大神業に心身を捧げ、以て日本神国の神民たる本分を尽さねば成らぬので在ります。
兎に角モの言霊には、数寄り数成也の活用があるから、同じ大本修斎会の支部や会合所の中にも、太霊道や精神療法家の如うな事を専務に施行して、肝心の神意を忘れて居られる方も在るさうであるが、是も過渡時代の産物で、数々の行り方になるのも止むを得ないのであります。併し可成一日片時も早く大神様の真意を了解し、個人の病気直しのみに心を労せず、モツトモツト偉大なる神業に、統一的に従事され度きものであります。
(九)伸縮有る也。神諭に、三千世界の立替立直しと云ふ如うな、大謨な経綸であるから、神の申した事でも、チツトは伸びる事もあり、思ふたよりも速く出来上る事もあるから、チツト位日時が伸びたと申して、御陰を落す人民は、信心が足らぬのであるぞよ。何事も神の申すやうに致して、時節を待ちて下され。毛筋の横巾ほども事実に於て間違いは無いぞよ。斯大本は神界から引掛戻しの仕組が致して在るから、何程智慧ありても学力ありても、人民力では見当が取れん仕組じやと、現はれて在るのも、モの言霊の伸縮自在なる活用であります。大本の事業は常に惟神の行り方でありますから、意外に迅速に物が片付いたり、又意外に渋滞する事も、今迄に幾度か有つたのも、此の言霊の活用に由るのであります。伸縮自在の有る言霊であるから、修斎会のみの活動でも行かぬ神界の経綸がありますから、教主たる私として、専断的に事を決行し、会長其他の役員に小言を頂戴する事も有りますが、素より覚悟の前であります。神諭にも、今度の仕組は三千年余りての神秘的事業の戸が開くのであるから、一通りや二通りや三通りや五通りでは、物事成就致さぬから、小さい心を出さずに、変性女子の為る如うに為して置いて下されよ。神が日々守護いたして居るから、別条は無いぞよと出て居りますから、一々人間界の規則に由つて律しられると、実に困る事が沢山あるのであります。
(十)遂ひに凝固而物と成る也。神諭に、谷々の小川の水も大河へ、末で一つに為る仕組と出て居りますが、綾部の大元には川に因縁ある瑞の御魂が出現して、三千世界の泥水を清めるのであるから、今度の神政成就に付ては、瑞の御魂の大河へ、一つに纏めて了はねば成らぬのであります。故本田先生の門弟に長沢氏あり。之も水に言霊上縁あり。大石凝先生の名亦た、遂に凝固して物を成す也に意義あり。其遺弟なる○○、○○○にも水に因縁あり。諸々の小川を集めて和知の大河を成し、由良川の洗礼を施すてふ言霊の活用であります。神諭にも、今度の二度目の世の立替立直しは、日本国中に因縁の身魂が配置てあるから、其れを変性女子が調べて、経綸の御用を致せよと出て居りますから、苟くも教祖の御筆先に現はれた御神示に近き教理は、之を小川の水として、大本の清流に朝宗すべく、努力をして来たのであります。故に駿河へも走り、東京へも行き、美濃へも、尾張へも駆け、神政成就の為に奔走しましたので在ります。世界に立替立直しを唱へて居る所は、一切艮の金神様の御経綸の発祥であるから、天の岩戸開きに就て必要な教理や説明は、自由に之を神明の代表たるものの採用し、且つ応用すべき特権があるとおもふ。中には神界の深き経綸の判らぬ人が現れて、我々の惟神的行動を罪悪視し、以て反対の口実とするものが出来て来るのであります。神諭にも、東京で経綸をするが美濃尾張、大和玉芝国々へ、神の柱を配り岡山と、出て居るのを曲解して、出口王仁の身の終りだと言ふて居る人もあるらしい。大本の神諭は、途中から輸入したものの如うに言つたり、思つたりして居る人も在りますが、細工は流々仕上げを見て貰むと解らむぞよと出てあるから、疑ふ人は疑ひ、反対する人は極力反対しても、大本の経綸には少しも差支へは無い。色々と海月如す漂ふて、遂に凝固而物と成也の言霊の活用が在るから、是も天地自然の神界の思召に因るのである。明治二十五年からの神諭に、出口王仁三郎は世界の新聞や書物を調べて、之を一つに纏めて、世界を救ふ変性女子の御魂であるから、辛い御役と出て居るのであります。故に小心な教信徒は、今春以来の神諭に在る如く、内外の人々から疑はれ、罵られたり、反対されたりする運命の役に在る変性女子の身魂に愛想をつかして、逃げて行く者が出て来るので在ります。明治維新に際しても、世界の智識をあつめて、以て皇基を守り、国礎を定められた如くに、我々も神の御意志に反せない限りは、モの言霊の活用を頼んで、数を寄せ、数を成すてふ大活動を為て居るのであります。元来大本の教祖に由つて現はれたのは、二十七年間の世の立替立直しの神諭斗りであります。其他の鎮魂帰神法も言霊学も古典の解釈も、私が参綾と同時に綾部の大本の教に同化されたのであります。併し是も皆艮の金神大国常立尊様の御経綸であります。又私が国々の因縁ある賢哲を尋ねて一種の大観念を築き上げ、之を社会へ発表する事にしたのも、艮の金神様の古からの御経綸であります。世界の事は何に由らず、一切万事大本へ集めるぞよ。世界に変つた事や、大きな事や、種々の事の出来るのは、皆艮の金神の仕組じやと出て居りますから、吾々の意見と一致した教理は、自分の者として差支えない。神諭を十分に解釈すれば当然の行動であります。此大本は普通の人間では、神の深い経綸は判らぬぞよと出て居るのは、茲等の事であります。神界の深遠なる御経綸を知らずに、浅心薄慮の○○○○派とか、何とか云ふものが現れて、神霊界の読者名簿を写し、一々読者に吾々の行動を非難した書面を送て、一生懸命に反対して居る人々でも、遂には神界の深き仕組が判つて来て、言霊の活用に左右され、元の大橋へ帰つて来るやうに成るのであります。
(十一)本元也。モトの反しモ也。世の大本の意である。凡て名は実の主でありますから、大本の言霊活用して凡ての本元と成るのであります。大本の名は人民の所名では無い、艮の金神様の御神示に由るのである。故に何事も皆この大本が根基を為さねば、万事が完成しないのである。静岡の長沢氏の神社経営に就ても、其根本たる敷地は、大本から拵らえたのであり、○○○○の前身なる皇風宣揚会の基根金も、朝○氏を通じて大本から出資したのである。総て本元の霊あるを以て、其他の種々の事業を営んで居る人々が、大本の保護の本に成功して居るのであります。兎も角も神界経綸の大本で、天神地祇の神集ひに集ひ、神議りに議り玉ひて、顕幽一切の事物を定め、之を宇内に施行し玉ふ御神慮より、大本の名称を付せられたのであります。現今の大本を見れば、一から十迄皆このオホモトの四言霊の活用を実証して居ります。変性女子の御魂の大化物を顕はし、世界の曝しものに致すぞよと出て居りますから、何れ大化物の化の皮を脱る時が出て来るので在りませう。併しこの大化物は何程むかれても極めて平気の平左で居ります。斯んな大謨な御用が、一人や二人の力で出来る筈はないから、悪く方々から言はれて、段々に大きく成らねば、最後の艮めは刺せぬのであります。本元也の言霊活用が顕はれて、大化物の弥々面白き時期が到来して来ました。併し世間一般の人々から色々と攻められ、化ケの皮を脱がれて、本元也の蚯蚓斬の蛙飛ばしに成るかも知れません。旧七月十二日も無事であつたと思ふて居ると、教祖の神諭に出てある通り、悪の鏡の御用を勤める大化物の変性女子の行り方、現世の体主霊従の写つた行動に、胆の小さい、尻の細い英雄豪傑がアフンとして、開た口が塞がらん如うに成るぞよと云ふ、神諭其ままの事が実現して来ました。反対者の中には、大八洲号は出口の作でないと云つて、鬼の首でも取つた様に思ふて、反対の種に為て居るが、巻頭にも出して在る通り大石凝翁の著した天地萌抜の巻から抜粋したり、又は訂正したりしたものだ。○○氏の神典から借用したものだと云ふ人があるが、その神典釈義も矢張り先師の著された天地萌抜の巻から出たものである。左すれば譬え神典釈義から出しても、矢張大石凝翁の著作を、○○氏が借用したものである。況んや同じ師説を学んだものの、意義の一致するは当然である。又出版の遅速と著作の遅速に由つて真偽の判るべき筈が無いのである。大本の神諭の上から見れば、大石凝翁も矢張り艮の金神の仕組で、世の立替の前駆と成つて御出ましに成つたのである。大本の経綸の深くして、広く大なるを知らぬ信者は、是からは色々の誘惑にかかる恐れが無いとも言ひ兼る。人の中傷的言筆に迷はず、何事も神の教に任して、腹帯を〆て居つて貰ひたい。然る時は信仰と至誠の凝固力で、立派な物に成ると云ふ言霊の活用ある大本教であります。併し東京でも駿河でも尾張でも何処でも、八九分の神界の仕組は判て居るが、肝心の一分の処が誰にも分つて居らぬから、一旦迷ふた人も、反対して居る人も、肝心の艮めの際には、本元の言霊活用ある綾部の大本へ、頭を廻らし帰つて来ると云ふ、神諭は動かすべからざる生証文であります。
(十二)土の上面也。私が斯んなことを書くと、読者諸氏は不思議に思はれるであらう。神様に奉仕して居る大本の教主と云へば、可成神聖な役目であるにも拘はらず、傍若無人の言葉を弄する、人格の卑劣、真に唾棄するべきものと怪しみ、且つ卑しまれるかも知れませぬ。否定まつて諸氏に愛想を尽されませう。大化物かと思つたら、天下一品、古今無双の大馬鹿物だと言はれるで在ろう。夫れも私は百も承知千も合点して居るのである。併し大本にはモの活用、土の上面の言霊が幸ひ玉ふに由つて、上面から見れば実に醜るしいでせう。併し土の上面と云ふものは、色々の汚穢物に浸みて居りますが、是を三尺斗り掘つて見ると、自然の真土が現はれて来る。此土こそは真に美つくしいもので、森羅万象を載せて重しとせぬ、金剛力を保有して居りますが、此真土は余り綺麗過ぎて、総ての物を生成補育するに適せない。上面の土は幾ら汚なくても、万物を生育する力を持つて居ります如うに、私の行り方は何時も上面の土である。四方八方からの肥料を吸収して、而して万物を生育するのが変性女子の天職である。教祖の神諭にも瑞の御魂の使命が明かに出て居りますから、読者は既に御承知の事と察しますから、爰には省いて置きます。人間の最上最大の欲望は善の名である事は、真道問答の明文で御承知の通りであります。其人生の最大目的を捨て、神様の命に従がひ、天下国家の為に、所有悪の名を負ふ事を甘んじて、千座の置戸や十字架に近づいて居るのであります。凡て大本の仕組は、神勅を実現実行する大地の中枢であり、言霊の活用に従はねば、二度目の天の岩戸は開く事が出来ぬ仕組であるから、私は天からの命と信じて、此の不利益な役目を甘んじて居ります。併し其代りに、浅野会長以下の役員信者の方々は、実に至善、至美、至忠、至愛の善者斗りでありますから、修斎会の幹部なり、又た教祖の御威徳なり、二代三代の御世継の言行を信じて下さつても、決して別条は有りませぬ。私は堂しても、埃溜の約らむ役目を、天賦的に命じられて居りますが、併し是でも神界の御用と確信して、日々勇んで暮さして戴いて居るのであります。
(十三)水の坐也。水は方円の形に従ふは、自然の道である。極めて従順にして、融通の利くものは水の性である。此の大本には水の坐に位する変性女子の御魂が神界から現はして、色々の御用が命してあります。四魂の性能から言へば、火の御魂の変性男子は火の役であり、瑞の御魂は水の役で、天地万物に潤ひを与えて、克く之を生育せしむるものである。又た四魂に経緯ありて、荒魂、和魂を経即ち厳の霊と云ひ、奇魂、幸魂を緯即ち瑞の霊と云ふ。而て厳の霊は本田先生の真道問答にも在る通り一々万々、確固不易にして、瑞の霊は操縦与奪、其権有我と示されたる如く、教祖と私との霊魂の使命は、正反対の活動を致すのが御魂の使命であります。夫れで大抵の人々は、教祖様の厳直にして犯すべからざる言行を感心して、尊敬を払はれますが、之に反して、私の言行は、十人が九人迄で批難をされます。是れは何人が見ても当然の次第であります。併し火斗りでは天地万物の安息は出来ぬのと同様に、大本教にも火と水との役が必要であります。火と水と合体して、茲に神の体が成り、火水となつて生神の活動を全ふするのであります。道の大原にも、天主一物を創造す、悉く力徳に由る。故に善悪相混じ、美醜互に交るとある如く、何事も善斗りでは物事は成就せぬのである。論性題号にも、霊魂より言へば善也、体より言へば悪也、力より言へば善悪混交也と示されてある如うに、一種の勢力を造るに就ては、霊と体と合致した実力の必要を感ぜざるを得ぬのである。そうして私は体系であつて、体主霊従に近いのであるから、神界の経綸を表面から浅く見たり考へたりして居る、清き友からも手を切られたり、鬼にも仏にも一旦は見放される事が出来て参りませう。然れども私は少しも恐れも歎きもせぬ、自分の使命だと感じて居るからである。大海の水は低きに居て深く広く際限なくして、其底を見る事が出来ぬやうに、大化物の正体も中々容易に判からぬかも知れませむ。併かし私が神界に於て不必用であり、又た経綸の邪魔に成るものなら、何時神界から召捕遊ばしても構ひませぬ。天下万民の為になら、如何様の運命に陥るも、敢て辞せない覚悟は、二十年以前に心中に既に固まつて居るので在ります。私は元来学無く、識無く、徳も無く、位も無い、一介の蛮骨でありますから、只々神命に従がつて、実行方面に心力を竭して居る積りである。併し昔から学者の取つた天下無しと云ふ事がある。豊臣氏でも徳川氏でも織田氏でも、皆余り学者では無つたと思ふ。故に私は全力を挙げて、五六七神世の完成を期待し、世界と共に安楽な世の来るのを楽しみ、微力の限りを尽しつつ在るので有ります。オホモトの四言の活用に依つて、斯んな約らん役割の貧乏クジを曳かされたのも、身魂の因縁で、如何ともする事が出来ないのであります。
(十四)分子の精也。分子と茲で云ふのは、上帝の分霊と地主神の分体を享けて、生れたる人の事であります。分子の精斗り、所謂神界の御心に叶ひし真人の神業を助け奉るてふ言霊の活用である。誠の神慮に叶へば如何なる大事業を始むるも、少しも心配せずに、箱差した如くに行くが、之に反して、神界の事を思ひ過し、我を出さば大変なる困難の来るてふ言霊でありますから、大本は一々神慮を伺がつて事を為さねば、ドンナ智者の考へも、却つて神界経綸の邪魔に成りますから、大本幹部の役員は、十分の注意を払つて戴だきたいのであり在す。モの言霊の活用は、未だ未だ限り知られぬ程ありますけれども、余り永く成りますから、後日の説明に譲つて置きます。
(四) (ト)の言霊
(一)男也。男々しく偉ましく、勇壮活発なる言霊である。男は手力雄の活動である。故に大本教祖は、肉体は婦人なれど、実に雄々しき変性男子の霊性を具備して出現された。亦た二代も男性的の霊性を具備し、殊に第三代の直霊嬢は全く先天的の男性である。二度目の天之岩戸開の神業は、堂しても男性的霊性を具備せる手力雄の神力で無くてはならぬ。故に此の大本に立寄る人士は、何れも進取的の気性に富み、至清至潔の行動を取るてふ言霊の活用であります。
(二)艮也。艮の金神、大国常立尊の出現して、神政を樹立し、三千世界の艮を刺すてふ言霊の活用で在るので在ります。神諭に世界の事は何事も艮の金神の赦しなくては、九分九厘の処で覆へりて了ふから、神の力で無ければ、人間の力では到底物事の艮めは刺せんぞよと出て在るのも、艮也の言霊の活用であります。
(三)轟也。雷鳴遂に宇内に轟くてふ言霊の活用である。国祖数千年の大経綸完成の暁を語るものである。併し何と言つても世界に二つとない、神界の大経綸を完成する、地の高天原であるから、二度目の天之岩戸開きに就ては、体主霊従方面の大々的活動も来べきは当然で、彼の素盞嗚尊が一時の活動の為に、山川草木皆動揺し天地震動せし如く、大々的変動あるべき言霊の活用であります。然れ共今回の御経綸は、数千年間の永き神界の経綸でありますから、大本の役員信徒は、至誠一貫、神諭の精神を呑み込み、至誠的活動を続けてさへ居れば、仮令天柱裂け、地軸砕だくるの大変事来るとも少しも恐それず、悠々として天下修斎の神業に参加し、芳名を千載万秋に轟かすべき活用ある、言霊が備はつて居る、世界の大本であります。
(四)解也。神諭に世界の事は何なりと問て下され、何一つ知らん事の無い、世の元の生神が、出口直の後見を致して、ドンナ事でも説いて聞かせる、世界の大本であると示されたる如く、宇宙一切の事、世の太初の事から世の行先の事の解決を与ふるてふ言霊の活用であります。八咫鏡の明鏡八方に光り輝き、天地万物を照らし明らむる、霊地の言霊であります。
(五)基也。大地の基礎を固め、神政成就の根基を開く、国の太祖、大国常立大神は、昔の世の基からの因縁の身魂を顕はして、今度の御用に御使ひ遊ばすと云ふ事は、二十七年間の神諭に幾度と無く現はれて居るのでありますから、昔の神代の基礎を固めた、因縁の身魂斗かりを、世界の大本地の高天原に引よせて、五六七の神代の基礎を御定め遊ばすてふ言霊の活用であります。故に私は何事も綾部に基が神界から築かれてある事を、深く信じて居ります。就ては何事も皆、出口の名に依りて完成する事も、神諭に由つて確信して居ります。故に世界から数千万の強敵が現はれて来て、私なり大本教へ攻め寄せ来るとも、皆神界の御経綸の一部分の実現せしものと感じ、神示の確固不易、動かす可からざる大権利を、衷心より感歎して止まぬ次第であります。変性女子の千変万化の行動に就いて、種々の批評を試み、且又新聞雑誌等にて、何程の迫害を持ち込み来るとも、変性男子の一々万々確固不易の神教の根基は、微駆とも動かぬのであります。綾部の大本は神諭にも出て在る通り、月の形の御簾の内、日に日に代はる、引掛戻しの経綸であるから、体主霊従の鼻高は、引掛戻した時に結構な御陰を落すものが出来るから、大本は筆先を基として開く処であるから、外の教は混ぜられんと出て居りますから、他からの教理は、緯糸として参考として、或る期間は、私も応用して来たので在ります。併し宇宙の真理は、宇宙に一つより無いのであるから、誠の教は、世の元の誠の神の御心に基づくもので在ります。私は何んと言はれても、世界中から反対されても、例之生命を取られても、私の行動が結局世界を救ひ導く、神的行動となるものと信じて居る以上は、少しも痛痒を感じないのである。斯う言ふ事を書くと亦々反対者側から減らず口をたたくとか、負け惜みを言ふとか、強情だとか、横着者だとか、色々と評されるであらう。併し左様な小問題に、仮令一時間でも一分間でも精神を使ふやふな小さい魂性では、到底今回の大任を果す事は、夢にも及ばぬので在る。今春以来の神諭にも、私の今日の面白い境遇が示諭されてあり、且つ又節分が過ぎたら、大本の内部の立替を始ると、神示があれば寸分も違ず、諸氏御承知の通り、其筋の調査と各新聞紙の攻撃的行動が在つて、大本の内部の立替が完成しました。世界の立替、即ち改造問題は、天下を風靡するやうに成つたのであります。又た神諭に、今年の旧七月十二日から、世の立直し、神と学との力競べの始りで、大本の中が大変りする事も示されたが、是も又神諭の示す通りに成つて居ります。故に私は大本の根基たる神諭の確実不動なるを、層一層深く感激し敬服する次第であります。今後の大本は緯の私の御用は漸次必要が無くなり、只一筋に教祖様の神諭や、裏の神諭一点張りの御用を為して戴く時節が到来しまして、神の御仕組の完成が日夜に接近しつつあるを歓ぶ次第であります。世界の立派な賢明な智者、学者の総攻撃が何程襲来しても、唯々天職の使命を実行しつつ、自信力を有する私には、蚊の鳴く声位いより感じない。夏の最中に四角な蚊帳を釣つて、其の正中に安臥しながら、帳外の蚊群の泣く声を聞きつつ、団扇を使つて浄瑠璃でも唸つて居る様な心持である。古語にも喬木は強き風に克く中たると云ふ事がある。善の名にもせよ悪の名にもせよ、ソンナ事には懸念しない。神諭にも悪く言はれて良くなる経綸とあるから、私はいよいよ変性女子の天職の発揮されたる事を満足に思ふのであります。又私を退隠さして、大本の根本的大革正を実行せうと云ふ、ヱライ御方も現はれて来るが、其うなれば実に我々は気楽でよいが、神界から許て下さらぬので、堂も致方がありませむ。大本の幹部の役員をオダテ上げて、大本乗取りの妙策を講ずる者も出て来るのは、神界所定の事実であります。斯ふ言ふ人に限つて真の確信がないから、洞ケ峠を極め込むものである。大本は行く行くは宗教にする心算であるとか、何んとか云ふて、神の御心を知らぬ連中が、攻撃をする事も出来て来るなれど、基也の言霊の活用は如何ともする事が出来ぬのである。教祖の神諭は人作だとか、文章が卑近なから、尊い神の教で無いとか、天理教祖を守護して居た狐で、十七番目の伝九郎だとか、本田親徳が神憑して言ふたとか、色々と草の片葉まで言問ひして神界予告の通りに、邪魔者が現はれて来て居るが、何程理屈を言ふて、一生懸命に反対した所で、結局は矢張り大本の大橋へ後戻りするより他に道は無いのである。世界一切の事は、艮の金神様の永久の御仕組であるから、一時悪霊に誑らかされても遂には道が無くなるから、又た基へ立帰らねば成らぬのは、基也の言霊の活用である。
(六)人也。神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰者である。故にトの言霊あり。トは経綸の主宰即ち艮の義である。霊主体従の行動を為すものを、ヒト(霊主)と曰ひ、体主霊従の行動を為すものをニウ(入)と曰ふのである。人は即ち字形より曰ふも、左(火也霊也)が現はれ、右(水也体也)が下位に在る。之に反して入は右が先に現はれ、左が下位にある。故に日本人の言にてヒトと曰へども、体主霊従の外国人は之を、ニース又はニユスと曰ふ。ニユスの霊反しは即ちニユである。この大本には変性男子の人と、変性女子の入とが出現して、日本と外国との実地の像をして見せてあるので在ります。故に人と入とをアヤなす時は文となり、十二となるから、大正八年の一月号の神霊界には、七月即ち(文月)の十二日から、神界の御用が変りて、此の大本にもいよいよ霊主体従の人の御用と変つて来たのであります。今迄は変性女子の役は、苟も斯の大本の教に幾分でも適当した論説は、悉皆之を一つに纏めて、大本へ輸入したのは、即ち体主霊従(入)の言霊の活用であつたのであります。又た大本の教に、一旦入信したものも、入の守護神になると、一つの目的を立て、利己的の行動に出づる者が現はれて来て、大本の深遠なる経綸を、知らぬ入道者が、力一杯反対をして、大本へ入(疵)を付けるものが沢山に現はれる言霊であります。盤古の悪霊が肉体を駆使して、大本教の教祖も教主も、金毛九尾じゃ四ツ足じゃと隠口をたたひて、真の神人まで迷せに掛る事もある。今度は○の御魂や○の御魂までが○○を加えんとするなれど、九分九厘で手の掌がかえりて、谷底へ落ちて苦しむ者も、現はれるてふ言霊でありますが、是が暗黒の世界の現状が、大本へ映写して居るので在ります。此七月十二日以後になると、誠の人と誠の入とが明白に判りて来て、神と人との共同の大神業が行はれる、人也の尊い言霊の活用があるのであります。
(七)昇也。旭日昇天の勢ある、言霊の活用である。神諭に暁の烏に近よりて、日出の守護となるから、此の大本は日々結構になりて、艮の金神の威勢が天までも届くぞよと、出てある所以であります。又た神諭に昇る御魂と、降る御魂との立替で、一旦は混雑に成るぞよと出て居ります。大本の教を守り、霊主体従の行動をするものは昇り、亦た神の教を聞かずに、体主霊従の行動をする者は、地獄のドン底へ陥ると云ふ言霊の活用である大本でありますから、身魂も研かずに、我身の昇る事斗り考へて居ると、地獄の底へ落とされて、万劫末代苦しまねば成らぬ様に成るのであります。
(八)万物の種を宰つて、一より百千の数をなす也。一とは日也、霊也、火也、ヽ也。即ち天授の日本魂なり。この日本魂の一つの種を元にして、三千世界の御魂を日本魂に捻ぢ直す、大神の経綸場所であります。大本の太初、即ち教祖開教の時は、教祖様が只一人相談相手も無く、大神様の御命令を遵奉して、種々の艱苦を嘗めつつ、日本魂の種を養ふて居られたのが、今日に至り、数万の帰依者が集り、日本魂の人士が追々と現はれて来たのも、一より百千の数を成す也の言霊の活用であります。亦た一切万物の種を宰る言霊あれば、世界一切の事物は、此の大本でなければ、因縁が判らぬのであります。
(九)十也。十は─│の二息合して神と成るのである。又左右十指の活用で霊体合一の言霊である。皇道大本の神旗は十曜である。十は円満具足完成の意義である。キリスト教は十字架を標章とし、仏教家は十字を化して卍となし、法華教は十字の尖を割て標章となすも、皆完全無欠の意を表したものである。私は茲に大本の十曜の神紋に就て少しく書いて見ようと思ふのであるが抑も十曜の神紋に就ては、種々の意味が包まれて在つて一々之を説明せむとすれば、到底百頁や二百頁では充分に徹底的に説く事は出来ませぬから、十曜の紋のことは後日に譲ります。
(十)能く産み出す也。高皇産霊(男)神皇産霊(女)の火水の言霊活用に依り、経緯の二霊顕現して、万物一切を産出す意義あれば、トの言霊を活用してオホモトの名を付け、天地経綸の神業を完成し玉ふ神意であります。
(十一)結び徹り足る也。因縁の糸に吉き身魂が引付けられ、一つに成つて世界万民の為に心身を投ずる至誠が天地に貫徹して、大神の神慮に叶ひ、君国に報ずる円満具足の行動を成すてふ言霊の活用であります。
(十二)皆治る也。神諭に、昔の元の生神が、竜宮館の地の高天原に現はれて、三千世界を一つに丸めて、日本神国の一つの王で、何時までも天下泰平に治めるぞよと出て居りますのも、トの皆治る也の活用であります。
(十三)結びの司也。処々方々に教の射場が建てられ、誠の人が集まつて、神仏の慈徳を拝受し、且又神理を研究する団体がある。其の各種の団体を、時節が到来して之を統一し、之を主宰する言霊の活用である。
(十四)形の本源也。神諭に三千世界の一切の出来事は、斯の大本の中で、神から形をして見せるから、世界を見ないでも、大本の中に在りた事を気を付けて見て、腹の中へ入れて置きさえすれば、世界の事が手に採る如く明白に判る、世界の大本であるぞよと現はれて在るのも、形の本源也の言霊の活用であります。
(十五)八咫に走る也。八方を明に知らすと言ふ意義である。神諭に今度の二度目の天之岩戸開きに就いて、綾部の産土様に御苦労になりて、八方の神々様へ御披露が致してあるから、此の事が天晴れ世界へ判りて来ると、何れの神様も我れ一と、丹波の綾部じや大本じやと申して、今度の御用を御手伝遊ばす為に、皆お起し遊ばす如うに成る、尊い霊地であるぞよと現はれて在るのも、八咫に走る也の言霊の活用で在ります。
(十六)世の位也。世界の最勝妙中心の地にして、宇宙の権威たる神霊の、神集ひに集ひ給ひて神律を議定し、神都を開き、世界万民を安きに導き玉ふ言霊の活用であります。神諭にも綾部の大本は地の高天原であるから、三千世界の事は皆判る結構な所であるぞよ。斯大本は世界の鏡の出る、外に無ひ尊ひ処であるぞよ。世界中の結構な身魂は、皆爰へ出て来て御用を致す如うに成るぞよとあるは、世の位也の言霊の活用であります。
以上オホモト四言の言霊の活用に就て略解を施しましたが、読者の中には、私の解説を以て、大本の尊き事を知らさん為め、殊更に牽強付会せし者と見做される方々も有るかも知れませぬが、決して根拠無き解説では在りませむ。杉庵思軒先生の水穂伝や、中村孝道先生の真寸美鏡などの言霊を根拠とし、且又た私が廿余年間実地に就ての研究の結であります。殊に教祖様の御直話なり御筆先なり、其他の事柄等を総合して、断案を下だしたもので在ります。何れ未熟極まる私の研究上の解釈で在りますから、不完全な穴だらけで在る事は、私自身としても能く感じて居りますから、賢哲諸彦の御添削を願へば、実に望外の幸福で在ります。
オホモトの霊返しオの一言に帰する。オを更に解説すれば、オの言霊は天神地祇の昇降遊さるる天の浮橋ともなり、天の橋立ともなるのである。祭官が祓戸四柱の神、又は特に奉仕の神霊を送迎する時に、オオオオと高唱するのは、神界と現界との大橋を、言霊に依りて架する神事であります。故に降神行事の時には、侍者が最初は細く、漸次に太く、オオオオと奉唱するは、天上より漸次地上に近づき降らせ玉ふ意味であり、又た昇神行事には之に反して、最初は太く、漸次声を細く奉唱するは、神霊の天に帰り玉ふに就き、地上を遠ざかり玉ふが故に細く聞ゆる意義であります。近くに在る友人、又た家族に対して、オオイと大声を発して招いたり、又た招かれて、オオオと答ふるは、凡俗より見れば、実に失敬な、粗雑な言辞の如くに聞こえ、又た普通人からは然か思はれますが、実際は神国自然の言霊の妙用で、神様扱ひにした、非常なる敬語であります。故に人を呼ぶに、オオイ、オオの言の贈答は、却つて使用すると恐れ多い位で、少しも不敬とか粗雑と云ふ意義にはならぬのであります。可成は人間社会の呼応には、モシモシとハイハイとが、適当した言葉でありますから、天之浮橋は神事に携はる時の外は、用ゐない方が穏当であります。
畏くも大嘗祭の御時に用ゐらるる鎮魂祭の八首の秘歌も、一首一首に、オオオオと言ふ言葉が在ります。如何にオの言霊の至尊、至貴、至重なるかは、左に発表し奉る、八首の神秘歌に由つて、伺がひ奉る事が出来るのであります。
(一)アチメ オオオオ アメツチニ キユラカスハ サユラカス カミハカモ カミコソハ キネキコウ キユラカス
(二)アチメ オオオオ イソノカミ フルノヤシロノ タチモカトネカフソノコニ ソノタテマツル
(三)アチメ オオオ サツヲラガ モタキノマユミ オクヤマニ ミカリスラシモ ユミノハスユミ
(四)アチメ オオオ ノボリマス トヨヒルメガ ミタマホス モトハカナホコ スヱハキホコ
(五)アチメ オオオ ミワヤマニ アリタテル チカサヲ イマサカエテハ イツカサカエム
(六)アチメ オオオ ワキモコガ アナシノヤマノヤマヒトト ヒトモミルカニ ミヤマカツラセヨ
(七)アチメ オオオ タマハコニ ユウトリシデテ タマチトラセヨ ミタマカリ タマカリマカリ マシシカミハ イマソキマセル
(八)アチメ オオオ ミタマカリ イニマシシカミハ イマゾキマセル タマハコモチテ サリタルミタマ タマカヤシスヤナ
次に ヒフミヨイムナヤコト の数歌を十回唱へらるるのであります。以上の神秘歌なり数歌を拝読しましても、オ也、ト也の言霊の活用が備はつて在る、オホモトの天賦の使命が分るので在ります。
杉庵思軒の水穂伝に現はれた言霊学は、火水の体を説き、中村孝道の真寸美鏡は、火水の用を説いたもので在りますから、水穂伝の所説を大本言霊学と称し、真寸美鏡の所説を日本言霊学と称して、私は体用両面に区別しました。併し私が永年研究の結果、双方共実地に就て応用するに当り、余程不備の点を感じましたから、二十余年間、学理の如何に関せず、実用に適する説を採つて来たのであります。大本の言霊閣に安置する天津金木は大石凝翁一派の運用法とは、余程変つた点があります。如何となれば、人間の説を根底として立てた教理と、神界直授の真理とは、凡ての点に於て、深遠浅近の区別があるからであります。