霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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大本言霊解

インフォメーション
題名:大本言霊解 著者:王仁
誌名:神霊界 掲載号: ページ:3 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例:共通凡例B データ最終更新日:2021-06-08 15:09:48 OBC :M192919190915c01
大本言霊解

      王仁

大本(おほもと) オホモト言霊(ことたま)略解(りやくくわい)すると、の声は行の第五段、即ち(いつ)なり、(いつ)なり、稜威(いつ)である。の行は総て天位(てんい)にして親音(をやおん)であるから、各横音(よこおん)に響く。(これ)天津(あまつ)祝詞(のりと)筑紫(つくし)()日向(ひむか)()(たちはな)大戸(をど)と示されてあるのである。

(一)、の言霊は、也、(とほとい)也、(たかい)也、(うへ)なり、(をこ)(たす)くる言霊也、大気(たいき)也、大成(たいせい)也、億兆(をくちやう)分子(ぶんし)を保ち()分子(ぶんし)始末(しまつ)()()る也、(こころ)関門(かんもん)なり、受納(じゆのう)()なり、真愛(しんあい)引力(いんりよく)也、権利(まこと)強き也、先天(ちちはは)(もの)也、大地(だいち)包裏(つつみ)()る也。漸々(ぜんぜん)(きた)()る也。外及(そとをまもる)(とう)種々(しゆじゆ)活用(かつえう)ある言霊である。

(二)、の言霊は、天地(てんち)万物(ばんぶつ)(はじめ)也、(はは)也、(ほこ)なり、隠門(ほと)也、(ほぞ)也、(ほち)也、(ふくろ)也、()(れい)也、(うへ)(あらは)る言霊なり、(てん)(こころ)なり、(てり)()()なり、()(みづ)宿(やど)る也、(ほり)也、()也、(ちち)也、太陽()明分()なり、(こころ)(うつ)る也、()ふるなり、見止(みとむ)る也(とう)種々(しゆじゆ)活用(かつえう)ある言霊である。

(三)、の言霊は、(もやふ)也、(かたまる)也、(また)也、(もの)也、(かさね)也、(くむ)也、円満(ゑんまん)(つかさど)る也、(した)(はたら)く言霊也、()芽出(めで)也、天之手(てんのて)也、(かず)()(かず)()()也、伸縮(のびちぢみ)()る也、(つひ)凝固而(こりかたまつて)(もの)()る也、本元(ほんもと)也、(つち)上面(うはつら)也、(みづ)()なり、分子(ぶんし)(せい)(とう)種々(しゆじゆ)活用(かつえう)ある言霊である。

(四)、の言霊は、(をとこ)也、(とどろく)也、(とく)也、(もとひ)也、(ひと)也、(のぼる)也、万物(ばんぶつ)(たね)(つかさど)つて一より百千の(すう)をなし、タ(ぎやう)(すべ)前駆(ぜんく)意義(いぎ)ある言霊也、(とう)也、()()(いだ)す也、(むす)(とほり)()る也、(みな)(をさま)る也、(むす)びの(つかさ)也、(かたち)本源(ほんげん)也、八咫(やあた)(はし)る也、()(くらい)(とう)種々(しゆじゆ)活用(かつえう)ある言霊である。

△以上オホモト(げん)を更に略解(りやくかい)する時は、次の如き活用を示す事になるのである。

   (一) (オ)の言霊(ことたま)

(一)(をこる)也。神諭(しんゆ)一旦(いつたん)(この)()(つぶ)れて(しま)ふ所を、(うしとら)金神(こんじん)(ひき)()けて、潰さぬ(やう)守護(しゆご)いたして来たのであるから、神も人民も守護神も目を覚まして、それぞれ今度の御用(ごよう)御起(おた)ちなされよとの神宣(しんせん)は、(をこる)也の言霊の活用である。

(二)(とうとい)也。神諭に綾部の大元(おほもと)は、今では粗末にしてあれ(ども)、先に成りて神界の誠の仕組(しぐみ)(わか)りて来たら、世界中に(ほか)には無い(とほと)い所に成るので()るぞよと在り、(かつ)(また)(とほと)天神(てんじん)地祇(ちぎ)昇降(しようかう)(たま)霊地(れいち)にして、貴人(きじん)高位(かうい)の人々の集まりて神業(しんげう)補佐(ほさ)するてふ言霊である。

(三)(たかい)也。神諭に大本(おほもと)()高天原(たかあまはら)であると出てある。世界の中心、最高最尚(さいせう)神人(しんじん)集合して、高き功名(こうめう)(あら)はすてふ言霊である。

(四)(おこし)(たすく)る言霊也。大気(たいき)也、大成(たいせい)也、(あたか)も地獄のドン(そこ)まで(おち)()み、行詰(ゆきつま)りたる社会を(おこ)し助けて、神政(しんせい)を成就し、神の(だい)気吹(いぶ)きに()りて濁世(だくせい)払拭(ふつしよく)し、至聖(しせい)至楽(しらく)神世(しんせい)を大成する神の出現あるべき言霊である。

(五)億兆(をくちやう)分子(ぶんし)を保ち、()つ分子の始末(しまつ)を知り()る也。神諭に三千世界の神、守護神、人民、餓鬼、虫、樹草(きくさ)に至るまで、神の(めぐみ)()つて、各自に(その)(ところ)を得せしめるとある所以(ゆえん)である。(また)三千世界の一切(いつさい)万事(ばんじ)の事は、(ちり)(ほど)の事でも、艮の金神は調べ抜いてあると出て()所以(ゆえん)である。

(六)(こころ)関門(かんもん)なり。世界の人民の心の関門を(ひら)ひて、真理の蘊奥(をんのう)(さと)らしめ、神の御国(みくに)に導き(たす)くてふ言霊の活用である。(また)如何(いか)なる頑迷(がんめい)不霊(ふれい)の人と(いへど)も、(この)大本(おほもと)()る一定の時間参詣(さんけい)して、神の(うる)はしき御声(みこゑ)を聞き、(かつ)(また)その偉大なる神力(しんりき)に接する時は、必ず心の関門の(ひら)けて、心中(しんちう)神国(しんこく)を建設し()るてふ言霊の活用である。

(七)受納(じゆのう)()也。三千世界一切の宝は全部○○の物になるぞよとの神諭の()でたる所以(ゆえん)である。今迄(いままで)悪の守護神が(この)世を持荒(もちあら)して、上げも下ろしも、行きも戻りも成らぬ()うにワヤに乱した世界を、艮の金神が(てん)大神(おほかみ)様から一旦(うけ)()り申して、建替(たてかへ)建直(たてなを)しを遂行(すいかう)致して、三千世界の総方(そうほう)様へ御目(おめ)()ける、大謨(たいもう)経綸(しぐみ)であるぞよとの、神諭に()でたる所以(ゆえん)である。()た竜宮の宝を(あげ)竜宮館(りうぐうやかた)高天原(たかあまはら)()(をさ)め遊ばすのを、艮の金神が御預り申すぞよとの神諭の(いで)たる所以(ゆえん)である。

(八)真愛(しんあい)引力(いんりよく)也。神の仁徳(じんとく)愛護(あいご)を発揮して、仁愛神(みろく)の神政を()き、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)真王(しんわう)仁君(じんくん)に引き付けられ、万国(ばんこく)(たみ)来朝(らいてふ)して、神徳、君恩(くんをん)欣慕(きんぼ)し、真正(しんせい)の天下泰平を(きた)すてふ言霊である。神諭に、艮の金神は世界一切を助ける神であるから、(この)真相(まこと)が世界に判りて来たら、世界中の人民が(よろ)こびて、(われ)(わし)もと申して出て参る世界の大元(おほもと)に成るぞよと出てある所以(ゆえん)である。(また)一度綾部(あやべ)の霊地を踏み、神徳に(よく)した以上は、(どう)しても(この)地を忘るる事が出来ぬやうに成り、神縁(しんえん)深き人は(つひ)に神の(つな)()き付けられ、家族を挙げて移住し、神務に一身を投ずると云ふ言霊である。

(九)権利(まこと)強き也。権利(けんり)はマコトである。(まこと)ほど世の中に強いものは無い。(しか)し三百代言(だいげん)(とう)(とな)ふる権利(けんり)なるものとは、天壌(てんぜう)の相違ある事を付言(ふげん)して置きます。神諭に(この)大本(おほもと)(しん)の神の(まこと)(をしへ)(ひら)く、神界(しんかい)地場(ぢば)であるから、絶対無限の権利(けんり)を保つから、誰が()んと致しても微駆(びく)とも致さぬ、尊い、世界に(ほか)に無い誠の経綸(しぐみ)の場所であるぞよと出て()所以(ゆえん)である。本春以来全国の言論界から無限の悪言(あくげん)毒筆(どくひつ)(もつ)て包囲攻撃され、(その)(すじ)からは疑惑の(まなこ)(もつ)て、綿密周到なる調査を受けたるにも(かか)はらず、一片(いつぺん)の不都合も無く、思神(ししん)思国(しこく)思君(しくん)思民(しみん)至誠(しせい)を認められたのは、全くマコト強きの致す所である。(かへつ)大本(おほもと)の基礎は益々(ますます)強固となり、社会の渇仰(かつこう)信用は、日に月に増大しつつ()るも、権利(まこと)強き言霊の活用である。

(十)先天(ちちはは)(もの)也。先天(せんてん)的に神界の御用を(つと)むる、変性(へんぜう)男子(なんし)変性(へんぜう)女子(によし)御魂(みたま)出顕(しゆつけん)して、宇宙の修理固成(こせい)(にん)ずるてふ、言霊の活用である。変性男子即ち(いづ)御魂(みたま)は、三千世界の父の役を勤め、変性女子即ち(みづ)御魂(みたま)は三千世界の母の役を勤め、至上至高の神世(しんせい)を樹立し玉ふ、言霊の活用があるのである。

(十一)大地(だいち)(つつ)()る也。大地一切の動植物を包羅(ほうら)し、(これ)を安息せしむる、大神(おほかみ)威徳(いとく)(あら)はすてふ、言霊の活用である。即ち神諭に大地の上の一切のものは、(おほ)国常立(くにとこたちの)(みこと)司配(しはい)し守護いたすぞよと(あら)はれある所以(ゆえん)である。

(十二)漸々(ぜんぜん)(きた)()る也。神諭(明治二十七年)に、(この)大本(おほもと)は今では()んでも無い粗末(そまつ)(とこ)であれども、行く先は世界から漸々(ぜんぜん)に結構な人民や御魂(みたま)が寄りて来て、神の御用を致すやうに成るから、そうなりたら、(いわ)に松が生えた如く凝り固まりて、神国(しんこく)の結構な御用を致すやうに成りて来て、三千世界に(ほか)に無い、誠一つの(かた)まりが出来て来て、三千世界を助ける()高天原(たかあまはら)(あい)()るぞよ。(これ)からは誠の人が漸々(ぜんぜん)寄りて来て、日本魂(やまとだましい)()りて、世界の善の鏡を出す(ところ)に成るぞよと、(あら)はれある所以(ゆえん)であります。

(十三)(そとを)(まもる)也。神諭に艮の金神は日本(にほん)(ばか)りで無いぞよ。海の(そと)の異国は申すに及ばず、宇宙の守護を致す大本(おほもと)()るから、大地の外面(そと)までも守護を致すぞよとの神諭の()づるも、オホモト(かへ)の言霊の活用あるからである。

   (二) (ホ)の言霊(ことたま)

(一)天地(てんち)万物(ばんぶつ)(はじめ)也。天地(てんち)初発(しよつぱつ)伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)二神(にしん)が、アナニヤシエオトコヲト()()えて御合(みあひ)ましし時に、(ほち)(みたま)(あら)はれ、(その)御霊(みたま)⦿『○は女神(によしん)(みづ)、ヽは男神(をしん)()(かく)(ごと)()(みたま)(あらは)るを淡路(あはぢ)()()(わけ)の島を生むと云ふ。(その)(みたま)が右に割別(さきわか)れて(いき)(おこ)り、(みたま)をなし、左に割別(さきわか)れて(みたま)を成し、次に(いき)(ふくるる)(みたま)(をこ)り、右に割別(さきわか)れて天地の胞衣(ゑな)(みたま)を成し、左に割別(さきわか)れて胞衣(ゑな)(から)むの行の(みたま)をなし、(その)胞衣(ゑな)の中より水火(いき)二つに(わか)れんとして、(みたま)(おこつ)て吹き、右に浮昇(うきのぼ)り、行)の(みたま)(をこ)り、左に(うづ)巻き(くだ)行)の(みたま)(をこ)りて、(つい)(みたま)(をこ)りてと成り、次に(みたま)現はれて(みづ)と成り、(また)水は火の為に割別(さきわか)れて昇る水火(いき)の(火水(ほし)(あらは)るなり)行)の(みたま)を成し、(みたま)は左に割別(さきわか)れて引く水火(いき)(みたま)を成し、(水火(しほ)(あらは)る也)次に水火(いき)(はなる)(みたま)(をこ)りて、水の()は月となりて右に割別(さきわか)れて、(みたま)を現じて天を成し、火の()は日と(あらは)れて左に割別(さきわか)れて(みたま)(げん)じて()を成し、水の(みたま)の月は(おぼろ)にして形を(ここ)に見せず、火の(みたま)の日は形を(ここ)(げん)ず。(ゆへ)行は天を(つかさど)り、行は地を(つかさど)り、行は地の(ほう)(つかさど)り、((この)アワの二行はの一(げん)より割別(さきわか)(もつ)アワ()狭別(さわけ)と云ふなり)
 次に(みたま)の水は、(みたま)の火とを(あや)にして、(みたま)(をこ)り、次に行の行のとを(あや)にして、()(いき)(みたま)(をこ)り、次に行の(みづ)行の()(あや)にして(みたま)(をこ)り、次に行の行の(あや)にして、昼夜(ひるよる)胞衣(ゑな)(みたま)をなし、次に行の行のとを(あや)にして、水火(いき)(くむ)(みたま)(をこ)りて引く水火(いき)(さだ)まり、(しか)して出る水火(いき)正中(せいちう)ノネヌニナ(をこ)りて、(すべ)水火(すいか)の中に(くらい)す。(これ)伊予(いよ)二名(ふたな)(じま)と云ふ。(伊予(いよ)とは息与(いよ)なり。二名(ふたな)とは出る()る息の二つの中と云ふ事なり。島とは(しま)の事なり。)
 次にラリルレロ(をこ)つて引く息を(から)みて(くだ)る。(ナニヌネノ(きよ)き水にて(のぼ)り、ラリルレロ濁水(だくすい)にて(くだ)る)()れを筑紫(つくし)(しま)と云ふ。(この)濁水(だくすい)(くだ)るに(したが)つて、引息(ひくいき)()(みたま)弥々(いよいよ)()りて、(みたま)(をこ)り、濁水(だくすい)(くみ)水火(しほ)(かたま)るの(みたま)(をこ)して()(はじめ)をなす。(その)(はじめ)を成すに(したが)つて、差別(けじめ)(わかつ)(みたま)(をこ)り、(その)差別(けじめ)(わか)つて(した)がつて、水火(すいか)()むの(みたま)(をこ)りて()となり、(その)()と成すに従つて、(みたま)(をこ)りて(つち)を成す。(その)(つち)を成すに従つて、(みたま)(をこ)つて()と成り、その()(あらは)るに従つて()(いき)(みたま)(をこ)りて(くも)(きり)(かすみ)(はれ)て、(みたま)(をこ)りて日も(かがや)いて影を成し、(その)(かがやき)(したがつ)()(うへ)(みたま)(みづ)(をこ)りて(()(みづ)清水(しみづ)と云ふ。(せい)借字(しやくじ)也)
 次に(みたま)(をこ)りて(うへ)割別(さきわか)れて昇り、行は伊邪那岐(いざなぎの)(かみ)行は伊邪那美(いざなみの)(かみ)(この)(ぎやう)水火(いき)(さそ)(なら)ぶを二神(にしん)御名(みな)とす。行を伊岐(いき)(しま)と云ふ。(伊岐(いき)(いき)なり)行を()(しま)と云ふ。((みづ)にして()也)(この)(ぎやう)(をこ)るに従つて行の濁水(だくすい)(いよいよ)(をさ)まるなり。(うまれ)両眼(れうがん)()づるは、総て口中(こうちう)の水を(つかさど)る也。小児(せうに)(よだれ)(あるひ)は生長して言語の(わか)()しきも、(みな)(この)行の濁水(だくすい)(をさ)まらざるの故なり。呼吸(こきゆう)()つて離れず()づるは、行の濁水(だくすい)にして、(ひら)くは行の活用也。故に(この)二行(をこ)りてより、(すめ)めるものは昇りて天と成り、(にご)れるものは(くだ)りて地と成り、人の言語の(べつ)を成す。(しか)して二柱(ふたはしら)水火(いき)()して伊邪那美の(いき)水中(すいちう)()と成りて(くだ)る。(これ)行と云ふ。万物の(たね)(つかさど)つて、一より百千の(すう)を成す。其(たね)(つかさど)るの(みたま)(あら)はる。種は一粒よりして百千の(すう)を成し、次に(みたま)(あら)はれて、は一より(はじま)りて百千の(すう)を成し、次に(みたま)(あら)はれ、(つづき)(つらな)る義にして、一より二に続き連なりて百千の(すう)に及び、次に(みたま)(あら)はれ、()の名は一にして左右あり、(がふ)して百千の(すう)を成し、次に(みたま)()らはれ、は人の(れい)也。人の名は一にして女男(めを)あり。女男(めを)(くみ)て百千の(すう)に及ぶ。(この)(ぎやう)総て万物の霊根(たね)(ほち)(つかさど)る。(これ)佐渡(さど)(しま)といふ。((さい)也、()也。(さい)なる火を(つかさど)(ぎやう)と云ふ事なり)
 次に伊邪那美の(いき)火中(かちう)(みづ)と成りて(あら)はる。(この)行は潤水(じゆんすい)にして、行の火は(くみ)(もや)う。(()行の水は真水(まみづ)と云ふ。()借字(しやくじ)也)故に(みたま)(をこ)りて行と(もや)い、(みたま)(をこ)りて陰陽(いんよう)(めぐ)り、(みたま)(をこ)りて陰陽(むつ)み、次に月の(みたま)は、前に(みたま)と共に(をこ)ると(いへど)も、陰陽(おぼろ)にして光を成さず、(ここ)に至つて行の濁水(だくすい)(をさ)まり、行、行の水火(いき)(すみ)(のぼ)るに従つて、始めて光を(あらは)して(てり)(かが)やき、(みたま)(をこ)りて(まどか)を成し、(しか)して()た月の(みたま)(むつ)み、(めぐ)り、日月(いき)(もや)い、日月(ひつき)もやいて万物を生じ、(ひと)及び鳥獣(ちようじう)草木(さうもく)(ことごと)(あらは)れて、一世界満足なり。即ち水中(すいちう)(ほち)火中(かちう)の水と()(もや)いて、御霊(みたま)⦿(かく)の如し。(まるき)は万物の子宮(しきう)にして、(ほち)は万物一滴の種なり。(これ)大倭(おほやまと)(とよ)秋津(あきつ)(しま)()ふ也。即ちオホモトのホの言霊は、天地万物の始元(しげん)にして、(まる)き世界に一の神霊を(あら)はし、⦿()御国(しんこく)「御国」にフリガナ「しんこく」は底本通り。を建設すべき言霊、自然の活用を有するのである。皇国(くわうこく)ホヅマの国、又はミヅホの国と称するも、の言霊の活用ある故なり。

(二)(はは)也。天地救済の母親神(ははをやがみ)なる(みづ)御魂(みたま)大神(おほかみ)顕現(けんげん)して、蒼生(さうせい)(たひら)けく(やす)けく、治め玉ふ意義の言霊である。(また)母と云へば一切万物を(うみ)(いだ)し、()(これ)輔育(ほいく)する活用があるのである。

(三)(ほこ)也の言霊活用あれば、時に(したが)ひ物に触れ、八千矛(やちほこ)を向けらるる()うな事が幾度(いくど)もある。旭日(きよくじつ)昇天(せうてん)(いきほ)ひ日に月に加はり()大本(おほもと)の成功を羨望(せんぼう)する余り、(つひ)に反対行為に()づる者が次第に殖えて来るのも、(ほこ)也の言霊の活用である。大本(おほもと)には手品の種が在るとか、(やま)カンじやとか、意外の事を発見したとか、今に大本(おほもと)にヱライ事件が突発するから、今の(うち)に脱退して(われ)(した)がえ、(しか)らざれば一生世間へ顔出しの成らぬ様な事が出来(しゆつたい)するとか、教主の手品に(かか)つて()る幹部の役員は御気(おき)(どく)じやとか、秘密の証拠を握つたとか、神霊界の記事は云々(うんぬん)とか()つて折角の熱心な信者を(あま)()沼矛(ぬぼこ)(した))や筆紙(ひつし)に托して迷はせ、地獄のドン底へ()(をと)しに(かか)るものが出来て来る言霊もあるから、大本(おほもと)の役員信者は(おほい)に注意をして(もら)はねば成らぬのである。何程(なにほど)大本(おほもと)の役者が至誠(しせい)通神(つうしん)的の活動を()つて()つても時としてはを向けられ、又は反間苦肉の奸策(かんさく)に乗せられ、失敗する事があるから、大本(おほもと)の真相を充分に探査して、(しん)大本(おほもと)(かい)して()つて貰はぬと、トンダ失策をする事がある。神諭に出てある通り、実に世間に顔出(かほだし)の出来ぬ(やう)な事が出来(しゆつたい)するのであります。兎角(とかく)この大本(おほもと)は神界の仕組(しぐみ)で行く(とこ)で、人心(じんしん)小智(せうち)窺知(きち)すべき所で無いから、人間の誘惑にかからぬ様に、誠心誠意の信仰と研究を望まねばならぬ。

(四)隠門(ほと)也。ホトは人体に取りては女の要処なり。隠れたる所なり。天地経綸(けいりん)の司宰者たる人間を生み出す枢軸である。地上に取りては世に(あら)はれざる主要なる地点である。(しか)れども(とき)()つる時は(おほい)(あら)はれ、万物を発生し、化育し、天下国家の真柱(しんちう)を産み出すてふ言霊である。

(五)(ほそ)也。ホソは人身(じんしん)中府(ちうふ)にして、所謂(いはゆる)臍下(せいか)丹田(たんでん)の上である。一身上の高天原で、天之岩戸である。即ち一身上の守護神の鎮坐(ちんざ)(しよ)である。(これ)を大地の上から見れば、大地の中心である。日本を極東と称するは地理学上の見地からである。大地固成(こせい)の上より、地質学上より見れば、日本は大地の中心であり、綾部は日本の中心で、下津(したつ)岩根(いわね)の地の高天原で、世界の大守護神の鎮坐せらるべき言霊である。

(六)(ほち)也。(ほち)は世の(はじめ)(みたま)である。(うしとら)(かしら)(ほち)を加ふれば(りよう)となる。(りよう)はヨロシキともナガシとも()む。(うしとら)はトドメともカタムルともハジメとも()む。世の(もと)のハジメの生神(いきがみ)(あら)はれて、三千世界を造りカタメて、最後(さいご)のトドメを差し玉ふは艮の金神である。(うしとら)(かしら)(ほち)を加へて、即ち一霊(いちれい)(てん)より下る時は良き世を招来(せうらい)(かつ)(また)(すゑ)ナガキ松の世を出現すると云ふ言霊の活用である。

(七)(ふくろ)也。袋は一切物品を(をさ)むる意義である。一度(この)袋に()れられた以上は、容易に出る事は出来ぬ。()れを出したり()れたりする権利ある者は、袋の持主(もちぬし)である。綾部の神宮(しんぐう)(つぼ)(うち)と云ふ地名は、袋の言霊活用である。一度真愛(しんあい)なる神の霊地に参詣し、神の(めぐみ)御綱(みつな)(かか)つた以上は、袋の持主なる大神の許し無しには、自由行動を取る事は出来ぬのである。一旦大本(おほもと)(をしへ)()り、中途に少々の誤解を生じ、大本(おほもと)悪罵(あくば)しつつ、脱走した人でも()る一定の期間を経過すれば必ず前非(ぜんぴ)()ひ、神界に謝罪して、(また)(もと)神宮(しんぐう)(つぼ)(うち)の霊地へ(たち)(もど)()うになつて来ると云ふ言霊である。神諭に『大本(おほもと)大橋(おほはし)()えて未だ(さき)へ、行衛(ゆくゑ)判らぬ(あと)戻り、慢神(まんしん)すると(その)通り』と出てをりますが、一旦(ちから)一杯反対行動を()た人が、改心して再び大本(おほもと)(たち)(もど)り、大神の仁慈に(よく)した(ためし)は、今迄(いままで)に数え切れぬ(ほど)ある。(げん)目今(もくこん)反対行動を取つて、無暗(むやみ)に活動を続けて()る人もあるが、(これ)()の人々も必ずや前非を悔ひ、改心の(ぜう)(あらは)して、再び大本(おほもと)へ帰り()るべき運命を持つて()るのである。可成(なるべく)はズツト(この)(まま)信仰を続けて(わが)真心(まごころ)を大神に認めらるる様に致したきものであります。

(八)()(みたま)也。天照皇(あまてらす)大神(おほかみ)威霊(いれい)国祖(こくそ)の大神を(たすけ)て、日本(にほん)(こく)霊能(れいのう)中外(ちうぐわい)に発揮し、天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)を万世不朽(ふくつ)フリガナ「ふくつ」は底本通り。に守護し玉ふ霊地である。皇道(くわうだう)大本(おほもと)が敬神と尊皇(そんわう)神旗(しんき)神風(しんぷう)(ひるが)へし、天下万民の為に永年(えいねん)奮闘を(をこた)らないのも(みたま)也の言霊に支配されつつあるからであります。

(九)(うへ)(あら)はるる言霊也。天地の間に人の()にて見る(あた)はざる火水(ひみづ)がある。(これ)火水(かみ)とも云ふ。(かみ)(とな)ふるは(たい)であつて、水火(いき)と唱ふるは(よう)である。故に陰陽と陰陽と()みて万物を産むのである。人の胎内に火水(ひみづ)あり、(これ)霊水火(たましひ)と云ふ。()(いき)ともいふ。(たましひ)と唱ふるは(たい)にして、(いき)と唱ふるは(よう)である。故に(いき)(いき)()みて(ものいひ)()()()みて人を産むのである。変性男子の御魂(みたま)は一名(いづ)御魂(みたま)と唱へ、火の(たい)にして、大本(おほもと)教祖の御神務である。変性女子の御魂(みたま)は一名(みづ)御魂(みたま)と唱へ、水の(たい)にして、大本(おほもと)教主の天職である。故に教祖を火となし、教主を水として、大神界の経綸(けいりん)が、秀妻(ほづま)の国の中心、地の高天原に(をこな)はれつつあるのである。真実(しんじつ)の火は象形(かたち)の無きもの、(これ)を火の(たい)と云ふのである。()の火が象形(かたち)()する時は、必ず火中(かちう)に水がある。故に良く燃える。(これ)を火の活用と云ふのである。大本(おほもと)の神々の経綸(しぐみ)が完成するのも、変性男子の火の中へ変性女子の水が()り込んで(たす)くるから、火の活用が上に高く(あら)はれ、ホノヲと成つて天をも(こが)(いきほひ)となるのである。()(まこと)の水には象形(かたち)無し。(これ)を火の(たい)と云ふ。()の水の象形(かたち)()する時には、必ず水中(すいちう)に火がある。故に良く流れ動いて水の活用を()ぐるのである。以上は火も水も共に(たい)と用とを略述して見ましたが、今度は火と水とに(つい)て、体用(たいよう)の区別を述べて見ようと思ふ。火、水と並び唱ふる時は、火は(たい)にして水を動かし、水は用にして火に動かさるものである。火は元来(ぐわんらい)動かずして(をと)無く、水は動いて音を発するのである。故に変性男子の火は動かず、音も成さないけれども、(その)火に動かされつつある。変性女子の水は大変に動けば動くほど音を為すものである。古典を(あん)ずるに、天照(あまてらす)大神(おほかみ)(火)と素盞嗚(すさのをの)(みこと)(水)との誓約(うけひ)()ち、火たる天照大神は、天之岩戸に深く隠れて少しも動き玉はず、水たる素盞嗚尊は火に動かされて、山川(やまかわ)草木(くさき)(ことごと)く動揺せしめ、天地(みな)震動したのも、水の御魂(みたま)の活用である。大本(おほもと)の変性男子即ち教祖様は、火の御用であつたから、明治二十五年から大正七年まで、前後二十七ヶ年の永い間、一室に閉じ(こも)り、大神に奉仕さるる(かたはら)昼夜(ちゆうや)(わか)たず、机に(むか)つて神諭の御用を(もつぱ)ら遊ばし、少しも(をもて)(あら)はれての活動は無かつたのも、火の(たい)の御役目であつたからであります。故に動かずして音も無く世間からの反対も、部下の中傷も何も無く、実に(をと)無しで、音無瀬(をとなせ)(がは)の上流に天下修斎(しうさい)神業(しんげう)根基(こんき)を築き()られたのである。(これ)に反して変性女子の教主の御魂(みたま)は、水の役で、教祖の火の力に動かされて、種々の活動を成し、従つて部下の教信徒より(あるひ)は笑はれ、(あるひ)(ののし)られ、(あるひ)は苦しめられして、種々(しゆじゆ)(をと)を立てて来たのも、御魂(みたま)の因縁の(しか)らしむる所であります。元来(ぐわんらい)火は(たい)にして水を動かすものであり、水は用にして火に動かさるるものである。火は動かずして(をと)無く、水は動いて音を成すは天地の真理である。総て動かざるは火の性質で、動くは水の本来の性質である。故に水の名を為すと(いへど)も動かざる時は火である。凝結(ぎようけつ)した水を()と云ふも()()である。(また)火の名を為すと(いへど)も動く時は水である。(たと)えて云へば、水気(みぎ)は水の名であり火垂(ひだり)は火の名である。(しか)(ども)右の手を(もつ)て左の手を打つ時は、右の水は火となり左の火は水となりて音を為すのである。()()は水で(かね)は火であるから、木を(もつ)て鐘を打つ時は、鐘は水となつて音を成し、鐘を(もつ)て木を打つ時は、木は元の水となつて音をなすのである。火水(ひみづ)体用(たいよう)活物(かつぶつ)にして、相対(あいたい)して動き、天地の水火(いき)(めぐ)る事(かく)の如く微妙なものであります。(もと)の火は()にして、元の水は(みづ)である。即ち(たい)から(いへ)ば、火は横にして()し、水は(たて)にして()つ。変性男子の火は、(たい)から見れば女体(によたい)であり、変性女子の水は(たい)から見れば男体(なんたい)である。(しか)るに水に火(くわ)はる時は火に(した)がつて横に流れ、火に水(くわは)る時は水の(たい)に同化して高く上に燃え上がり、上に(あら)はるるに至る。変性男子の火も変性女子の水に()りて、雲の上までホノヲと成りて(あら)はるると云ふ言霊の活用であります。言霊(ことたま)(がく)(たい)より言ふ時は、()にして(みづ)なり。故にカミと言ふ。(よう)より言ふ時は、()にして(みづ)である。故に()の十をシホともイキとも言ふ。│はミヅホの義である。十は瑞穂の中国(なかくに)標章(ひやうしよう)で、即ち神国(しんこく)日本(にほん)の意義であります。

(十)(てん)(こころ)也。天に()す御三体の大神が、大地の汚濁(をだく)洗滌(せんてき)し、払拭(ふしよく)し玉ふに(つい)て、二度目の天之岩戸開きの(だい)神楽(しんがく)施行(しかう)し玉ふ御神意を、(あまね)く天下に発表し給ひ、人心(じんしん)を清めて天国を地上に建設さるるてふ言霊である。大本(おほもと)の神諭は即ち天の心(つた)ふる貴重なる神示であります。故に()大本(おほもと)は天の心を心とし、天を相手として活動して()る所であるから、現代の如き俗悪なる人間社会に真解(しんかい)されないのも無理はないのである。それを人間(にんげん)(ごころ)を出して、大本(おほもと)()(かた)()うの()うのと批評したり反対したりするのは、(いま)大本(おほもと)言霊(ことたま)的使命を(かい)せざる、迂愚者(うぐづしや)狂動(きやうだう)であると言はねば成りませぬ。人間(にんげん)(ごころ)の抜けない人々は、到底(たうてい)大本(おほもと)の真相が(わか)らないから、(したが)つて反対するのでありますが、何程(なにほど)反対されても微駆(びく)とも(うごか)ない大本(おほもと)は、天の心を心として天下の為に全力を尽くして()るからであります。(しか)し我々の心の(ゆる)まない為に、種々(しゆじゆ)の敵を造つて警戒を与へ玉ふ、天の心かも知れませぬ。神諭にも(ちから)一杯敵対(てきた)御役(おやく)(こしら)えてあるから、(その)人は誠に御苦労な御役じや。霊魂(れいこん)の因縁で、善の役と悪の役とが拵えてあると出て()りますから、信従者も反対者も、天神(てんじん)地祇(ちぎ)御心(みこころ)(よつ)て、(しら)ずに神界善悪両面のそれぞれの御用を勤めさして頂いて()るので()ります。

(十一)()()()也。俗世界の新聞紙や雑誌で大本(おほもと)の教理を誤解し、又は売らん(かな)主義で種々の悪言を並べ、邪教とか妖教(えうけう)とか、誇大妄想狂の集団とか、教祖は田舎の(かみ)クズ(かひ)婆々(ばば)だとか、教主は手品師だとか、大正の天一坊(てんいちぼう)だとか、由井(ゆい)正雪(せうせつ)だとか、社会共産主義者だとか、所在(しよざい)悪罵(あくば)(ほしいまま)にして、大本(おほもと)(くつが)えさうとすればする(ほど)、世界の同情が大本(おほもと)へ集中し、思ひも寄らぬ助け船が(あら)はれて来るのは、照り込む義也の言霊の活用が在るからである。加之(しかのみならず)時期到来の(あかつき)には、天津(あまつ)()豊栄(とよさか)(のぼ)りに、大本(おほもと)の至誠至忠の真心(しんしん)が、大空(おほぞら)に高く輝き渡り、旭日(きよくじつ)強く大本(おほもと)に照り込み、一切万事が(あき)らかに世界に判るてふ言霊であります。

(十二)火の水に宿る也。火は天に()くし、水は地に()くす。天の大神が地の高天原なる霊地に天降(あまくだ)り玉ひて、(だい)神業(しんげう)を遂行し玉ふてふ言霊である。時期到来すれば、天の○○様も一時は下津(したつ)岩根(いわね)に天降り()して、五六七(みろく)の神政を成就し玉ふてふ言霊の活用がありますが、今は発表する時期ではありませぬから、省いて置きます。(また)変性男子の御魂(みたま)なる教祖様の威霊(いれい)が、(みづ)御魂(みたま)なる変性女子の水に宿り玉ひて、神示の経綸(けいりん)を助け玉ふてふ言霊であります。

(十三)(ほり)也。オホモト(みたま)の活用があるので、是非(ぜひ)是非(ぜひ)掘の必用(ひつえう)を感じ、大正三年の八月八日から、三千坪の面積に金竜池(きんりようち)後に「金竜海(きんりゅうかい)」に改名。を掘り、大八洲(おほやしま)水火(いき)(がう)して、五大(しう)(かた)どり、大小五箇の島を築き、各自に神社を建造し、天地経綸に参加し玉ふ生神(いきがみ)奉祀(ほうさい)「奉祀」に「ほうさい」というフリガナは底本通り。これは誤字であるが、「奉祀(ほうし)」が正しいのか「奉斎(ほうさい)」が正しいのか分からないので、底本通りにしておく。したのであります。神諭にも、出口直の屋敷には金の玉と黄金(わうごん)(かま)()けて()るから、(これ)を掘り出して三千世界の宝と致すぞよ。昔から世に(うづ)もれた一切の宝を掘り上げて、それぞれに目鼻を付ける世界の大本(おほもと)であるぞよ。と出て()るのも(ほり)也の言霊の活用が在るからであります。

(十四)()也。現時(げんじ)は蒸気船が出来て()るから、帆の必要を感ずる事は(はなは)(すく)なく成つたなれど、(いにしえ)は船に帆は最も必要の物であつた。理想の彼岸に(たつ)せんとせば、救世(きゆうせい)の船にも帆が必要である。大本(おほもと)四言(しげん)(ちゆう)に、()の帆の活用があるので常に神業(しんぎよう)が順風に帆を挙げた如く、着々と進行したのである。時に暴風に()ふた事も幾度(いくたび)となく()つたけれども、(その)暴風に()毎度(たびごと)大本(おほもと)の神業が急速力で進歩して来たのも、帆の言霊の活用に()るのであります。今後と(いへど)()()幾度(いくたび)となく、強風に吹き付けられる事が有るであろうが、何処(どこ)までも帆柱(ほばしら)神柱(しんちゆう))の折れない限りは、一層迅速に神業の進歩を見るべき言霊であるから、何事が出来(しゆつたい)しても心配は要りませぬ。(かつ)(また)帆は高く(あら)はれるもので在りますから、彼岸に近くに従ひ益々(ますます)世人(せじん)より、見上げらるる()うに、成るのであります。

(十五)(ちち)也。父系に属する変性男子の、(いづ)御魂(みたま)国常立(くにとこたちの)(みこと)(あら)はれ玉ひて、三千世界を審判(さには)し、教導(きようどう)し玉ふも父の霊也の言霊の活用であります。

(十六)太陽(たいよう)分明(あきらか)也。天に一つの太陽ありて、万界(ばんかい)(てら)し玉ひ、地に一つの帝王ありて、大地の顕界(けんかい)知食(しろしめ)す如く、宇宙の間に唯一の光明を放ちて、万物を(てら)(たす)くる霊地の存在するは惟神(かむながら)明分(めいぶん)である。(その)霊地が宇宙の中心にして、地上の中心日本(にほん)(こく)に存在し、日本(にほん)(こく)の中心たるアヤの高天原に存在するは、天照大神の知召(しろしめ)太陽()明分()(もと)づくのであります。

(十七)(こころ)(うつ)る也。古今東西の思想は、一切大本(おほもと)に映写し、(いづ)(みづ)二柱(ふたはしら)心鏡(しんきやう)に感ずるに()り、世界の人心(じんしん)の傾向の判明する霊地であるから、大本(おほもと)に写らぬ事は一つもないと云ふ言霊であります。(こと)(みづ)御魂(みたま)の心の鏡には、一々明瞭に(えい)じて来るので在ります。(げん)(いま)筆を採りつつある(わたくし)心眼(しんがん)に、大阪の支部の某氏の態度に、不公平な点があると云ふて、信者の人々が某氏に対して不平を(いだ)き、ゴテゴテ言ふて()れるのが写つて、執筆の邪魔に成るので、大変に困つて()るやうな次第であります。

(十八)(こふ)る也。神諭に今では世界の大本(おほもと)に成る結構な(とこ)が、余り粗末に致してあるから、(わか)らぬ人民が寄りてタカリて、色々と悪く申して()れども、大本(おほもと)経綸(しぐみ)天晴(あつぱ)(わか)りて来たら、如何(いか)なものでも恋しくなりて、(われ)(わし)もと申して()りて来て、勇んで御用を致すやうに成るぞよと、出て()所以(ゆえん)であります。

(十九)見止(みとむ)る也。世界一切の事は、何に()らず、綾部の大本(おほもと)の許しの無き事は、九分(くぶ)九厘(くりん)までは都合()く行くなれど、モウ一厘と云ふ(とこ)()(ひら)(かへ)りて、一も取らず二も取らず、行きも戻りも成らぬ事が出来(しゆつたい)するから、何事に()らず(この)大本(おほもと)へ参りて、艮の金神の見止(みと)めを(いただ)かねばならぬぞよと云ふ、神諭が(あら)はれて()所以(ゆえん)であります。

   (三) (モ)の言霊(ことたま)

(一)(もや)ふ也。モヤウは方舟(はこぶね)也。ノアナオとの方舟の中心は也。は言霊の大本(たいほん)である。国の内外を問はず地の遠近(えんきん)を論ぜず、至誠至忠の紳士淑女の(もや)(あつま)(きた)つて、大家族的団欒(だんらん)(たのし)みを(あじは)ひつつ、神業(しんげう)に参加し、()つ霊肉両方面の罪を(すく)はるてふ言霊の活用である。

(二)(かたま)る也。大地を造り固め()め、(さら)海月(くらげ)()(ただよ)える現代を修理固成して、天国楽土(らくど)神代(かみよ)()たらしむる為に、国常立(くにとこたち)(みこと)()大本(おほもと)に出現し給ふてふ、言霊の活用であります。

(三)(また)也。(もの)也。(また)再度(さいど)の意義である。大地の主宰神たりし国常立尊は、千座(ちくら)置戸(おきど)を負ひて、永年(えいねん)(かん)(うしとら)退隠(たいいん)され、地上の主権に離れ、悔しい残念を()(こら)え、克く忍びて、一陽来復(らいふく)春光(しゆんくわう)を待たせ給ひしに、天運(ここ)循環(じゆんくわん)(きた)つて、再び大地の主権者と(あら)はれ、二度目の世の建設を経綸(けいりん)し給ふ事となつたのは、即ち亦也の言霊の活用があるからであります。(また)(もの)也は、智者(ちしや)も、学者も、聖賢者も、愚者(ぐうしや)も、若者(じやくしや)も、老者(らうしや)も、幼者(えうしや)も、強者も、弱者も、富者(ふうしや)も、貧者も、軍人も、法律家も、官吏も、商人も、農業者も、政治家も、教育家も(をし)()べて信者と成り、(あい)()(あい)(しん)じて、(もつ)て一家の者の如く(むつ)び親しみ、大神(おほかみ)洪慈(きやうじ)大徳(だいとく)(よく)すべき、言霊の活用であります。

(四)(かさね)也。()む也。円満を(つかさど)る也。この活用は前段の(また)也、(もの)也の言霊の活用に近似(きんじ)して()るから、重複を避けて説明を省略して置きます。

(五)(した)(はたら)く也。敬神尊皇(そんのう)報国の至誠を(つく)し、君国(くんこく)の為に永年(えいねん)所在(あらゆる)辛酸(しんさん)()め、常に心身を消磨(せうま)しつつも、現代人の如く、栄誉の地位を望まず、依然として地平線下の活動を甘んじつつあるも、下に働く言霊の活用あるからである。総てモの言霊は(ことば)の下に()く活用される。けれども、いへども、なれども、(これ)も、()れも(とう)の如し。

(六)()芽出(めだし)也。神諭に三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。世の()の世の(もと)(はじま)りの御用であるぞよ。九ツ(はな)十曜(とよう)に咲くぞよ。世の中の一切の悪木(あしき)を切り捨てて、(あた)らしき神世(しんせい)の芽を出して、万古(まんご)末代(まつだい)栄えさすぞよ。芽出度(めでた)芽出度(めでた)芽出度(めでた)の花が咲くぞよと、(あら)はれて()るのは、世の芽出(めだし)也の言霊の活用を説かれたのであります。

(七)(てん)()也。宇宙一切、森羅万象を掌握するは、即ち天の(おん)()である。モの言霊の(さちは)大本(おほもと)は、宇宙一切を天津(あまつ)大神(おほかみ)の委任を受けて、(これ)を統御し整理して、神政を成就し、(これ)天神(てんじん)(おん)()に奉還するてふ言霊の活用であります。神諭に(この)世の者は艮の金神が出口(でぐち)の神と(あら)はれて、()(あづか)り申す経綸(しぐみ)であるから、(ほか)の者の自由にはならぬと出て()るのも、(てん)()也の言霊活用が在るからであります。神界の()経綸(しぐみ)(とほ)とき地面(ぢめん)を、個人の名義で所有し、管理するさえ()神慮(しんりよ)(かな)はぬ(ぐらい)であるから、取越(とりこし)苦労をして(あと)(とり)(かへ)しの成らぬ事を仕出来(しでか)しては成りませぬ。何事も(てん)即ち神の(おん)()(うち)()るので、神様が人間を使(つか)ふて、経綸(けいりん)を成さるのであるから、()仕組(しぐみ)地所(ちしよ)を人民の自由にする()うな事では、到底大御心(おおみこころ)(かな)はぬから物事成就しませむ。神界の仕組の判らぬ人は、余り先の事を思ひ過ごして、(われ)(わが)()(こと)(むづ)(しく)するものである。人の手に()らず、何事も天の(おん)()に任すのが、艮の金神様の今度の世の建替(たてかへ)の仕組であります。

(八)(かづ)()(かづ)()()也。()の言霊の活用は、億兆無数の蒼生(さうせい)霊魂(れいこん)(より)(あつま)つて、種々(しゆじゆ)の事業を成す事である。神諭に、三千世界の神と人民、守護神が()りて来て、三千世界に(ほか)には無い結構なことを致して、天地へ御目(おめ)()けるぞよと出て()ります。故にこの大本(おほもと)へは因縁の御魂(みたま)が数え切れぬ(ほど)、沢山に(あつま)りて来て、世界一切の事を眼鼻を付けるてふ言霊の活用が有るのであります。()た神界の()経綸(けいりん)も世界一切の事であるから、数々の活動方面があつて、八百万の神々が()()()(はたら)きに成つて居られるが、現実に大本(おほもと)の人々の神示に(した)がつて、御用を勤める事も、沢山にありますから、人数(にんず)も多く要りますし、費用も(した)がつて(かさ)むと云ふ事になりますから、()()ふ無限的の事業を為すには、何程(なにほど)金力(きんりよく)や学力があつても、現今の如き少数の幹部の人々の力のみでは、大海の一滴に等しき活動より出来ぬのでありますから、神の(つな)(かか)つた因縁(いんねん)身魂(みたま)は、()()れの御陰(おかげ)(いただ)いて、()(だい)神業(しんげう)を助けて頂かねば成りませぬ。神諭に、因縁の身魂は世界に何程(なにほど)でも(こし)らえてあるから、一々大本(おほもと)へ神が(つな)をかけて(ひき)()して、因縁相応の御用を致さすぞよと出て()りますから、労力なり、物質なり、筆なり、(くち)なりで、()の千載一遇の(だい)神業(しんげう)心身(しんしん)(ささ)げ、(もつ)日本(にほん)神国(しんこく)神民(しんみん)たる本分を(つく)さねば成らぬので在ります。

 ()(かく)の言霊には、(かづ)()(かづ)(なり)也の活用があるから、同じ大本(おほもと)修斎会(しうさいかい)の支部や会合所の中にも、太霊道(たいれいだう)や精神療法家の()うな事を専務に施行(しかう)して、肝心の神意(しんい)を忘れて()られる(かた)()るさうであるが、(これ)も過渡時代の産物で、数々(かづかづ)()(かた)になるのも()むを得ないのであります。(しか)可成(なるべく)一日片時(かたとき)も早く大神(おほかみ)様の真意を了解し、個人の病気直しのみに(こころ)(らう)せず、モツトモツト偉大なる神業に、統一的に従事され()きものであります。

(九)伸縮(のびちぢみ)()る也。神諭に、三千世界の立替(たてかへ)立直(たてなを)しと云ふ()うな、大謨(たいもう)経綸(しぐみ)であるから、神の申した事でも、チツトは伸びる事もあり、思ふたよりも速く出来(あが)る事もあるから、チツト(ぐらい)日時(ひにち)が伸びたと申して、御陰(おかげ)(をと)す人民は、信心が足らぬのであるぞよ。何事も神の申すやうに致して、時節を待ちて下され。毛筋(けすじ)横巾(よこはば)ほども事実に(をい)て間違いは無いぞよ。(この)大本(おほもと)は神界から引掛(ひつかけ)(もど)しの仕組(しぐみ)が致して在るから、何程(なにほど)智慧(ちえ)ありても学力(がくりよく)ありても、人民(じんみん)(りき)では見当(けんとう)が取れん仕組じやと、(あら)はれて在るのも、の言霊の伸縮(しんしゆく)自在なる活用であります。大本(おほもと)の事業は常に惟神(かんながら)()(かた)でありますから、意外(いぐわい)迅速(びんそく)フリガナ「びんそく」は底本通り。に物が片付いたり、(また)意外(いぐわい)に渋滞する事も、今迄(いままで)幾度(いくど)()つたのも、()の言霊の活用に()るのであります。伸縮(しんしゆく)自在の有る言霊であるから、修斎会のみの活動でも()かぬ神界の経綸(けいりん)がありますから、教主たる(わたくし)として、専断的に(こと)を決行し、会長(その)()の役員に小言(こごと)を頂戴する事も有りますが、(もと)より覚悟の前であります。神諭にも、今度の仕組は三千年余りての神秘的事業の戸が(ひら)くのであるから、一通(ひととほ)りや二通(ふたとほ)りや三通(みとほ)りや五通(いつとほ)りでは、物事成就致さぬから、小さい心を出さずに、変性女子の()()うに()して置いて下されよ。神が日々(にちにち)守護いたして()るから、別条(べつぜう)は無いぞよと出て居りますから、一々人間界の規則に()つて(りつ)しられると、実に困る事が沢山あるのであります。

(十)()ひに凝固而(かたまつて)(もの)()る也。神諭に、谷々(たにだに)小川(こがは)の水も大河(おほかは)へ、(すへ)で一つに()仕組(しぐみ)と出て居りますが、綾部の大元(おほもと)には川に因縁ある(みづ)御魂(みたま)が出現して、三千世界の泥水(どろみづ)を清めるのであるから、今度の神政成就に(つい)ては、(みづ)御魂(みたま)大河(おほかは)へ、一つに(まと)めて(しま)はねば成らぬのであります。()本田先生の門弟に長沢氏あり。(これ)も水に言霊上(えん)あり。大石凝(おほいしこり)先生の名()た、(つい)凝固して物を成す也に意義あり。(その)遺弟(いてい)なる○○、○○○にも水に因縁あり。諸々(しよしよ)小川(こがは)を集めて和知(いすず)大河(おほかは)を成し、由良川(よるだん)の洗礼を(ほどこ)すてふ言霊の活用であります。神諭にも、今度の二度目の世の立替立直しは、日本(にほん)(こく)(ぢう)に因縁の身魂(みたま)配置(まぐばり)てあるから、()れを変性女子が調べて、経綸(しぐみ)の御用を致せよと出て居りますから、(いやし)くも教祖の()筆先(ふでさき)(あら)はれた()神示(しんじ)に近き教理は、(これ)小川(こがは)の水として、大本(おほもと)の清流に朝宗(ちやうしう)朝宗(ちょうそう)とは「①諸侯が天子にお目にかかること。②多くの川が海に集まつて流れこむ。」〔漢字源〕すべく、努力をして来たのであります。故に駿河へも走り、東京へも行き、美濃へも、尾張へも駆け、神政成就の為に奔走(ほんさう)しましたので在ります。世界に立替立直しを(とな)へて()る所は、一切(うしとら)金神(こんじん)様の()経綸(けいりん)の発祥であるから、天の岩戸開きに(つい)て必要な教理や説明は、自由に(これ)神明(しんめい)の代表たるものの採用し、()つ応用すべき特権があるとおもふ。中には神界の深き経綸(けいりん)(わか)らぬ人が(あらは)れて、我々の惟神(いしん)的行動を罪悪視し、(もつ)て反対の口実とするものが出来て来るのであります。神諭にも、東京で経綸(しぐみ)をするが美濃(みの)尾張(をはり)大和(やまと)玉芝(たましば)国々へ、神の柱を配り岡山と、出て()るのを曲解して、出口王仁(わに)()(をは)りだと言ふて居る人もあるらしい。大本(おほもと)の神諭は、途中から輸入したものの()うに言つたり、思つたりして居る人も在りますが、細工は流々(りうりう)仕上げを見て(もらは)むと(わか)らむぞよと出てあるから、疑ふ人は疑ひ、反対する人は極力反対しても、大本(おほもと)経綸(しぐみ)には少しも差支(さしつか)へは無い。色々と海月(くらげ)()(ただよ)ふて、(つひ)凝固而物と成也の言霊の活用が在るから、(これ)も天地自然の神界の思召(おぼしめし)()るのである。明治二十五年からの神諭に、出口王仁三郎は世界の新聞や書物を調べて、(これ)を一つに(まと)めて、世界を救ふ変性女子の御魂(みたま)であるから、(つら)御役(おやく)と出て()るのであります。故に小心(せうしん)な教信徒は、今春以来の神諭に在る如く、内外(ないぐわい)の人々から(うたが)はれ、(ののし)られたり、反対されたりする運命の役に在る変性女子の身魂(みたま)愛想(あいそ)をつかして、逃げて行く者が出て来るので在ります。明治維新に際しても、世界の智識をあつめて、(もつ)皇基(くわうき)を守り、国礎(こくそ)(さだ)められた如くに、我々も神の御意志に反せない限りは、の言霊の活用を頼んで、(かづ)()せ、(かづ)を成すてふ大活動を()()るのであります。元来大本(おほもと)の教祖に()つて(あら)はれたのは、二十七年間の世の立替立直しの神諭(ばか)りであります。(その)()鎮魂(ちんこん)帰神(きしん)(ほう)言霊学(げんれいがく)も古典の解釈も、(わたくし)参綾(さんりよう)と同時に綾部の大本(おほもと)(をしへ)に同化されたのであります。(しか)(これ)(みな)艮の金神(おほ)国常立(くにとこたちの)(みこと)様の()経綸(けいりん)であります。(また)(わたくし)が国々の因縁ある賢哲を尋ねて一種の大観念を築き上げ、(これ)を社会へ発表する事にしたのも、艮の金神様の(むかし)からの()経綸(けいりん)であります。世界の事は何に()らず、一切万事大本(おほもと)へ集めるぞよ。世界に(かわ)つた事や、大きな事や、種々(しゆじゆ)の事の出来るのは、(みな)艮の金神の仕組(しぐみ)じやと出て居りますから、吾々の意見と一致した教理は、自分の者として差支(さしつか)えない。神諭を十分に解釈すれば当然の行動であります。(この)大本(おほもと)は普通の人間では、神の深い経綸(しぐみ)(わか)らぬぞよと出て()るのは、(ここ)()の事であります。神界の深遠なる()経綸(けいりん)を知らずに、浅心(せんしん)薄慮(はくりよ)の○○○○派とか、何とか云ふものが(あらは)れて、神霊界の読者名簿を写し、一々読者に吾々の行動を非難した書面を(をくつ)て、一生懸命に反対して()る人々でも、(つひ)には神界の深き仕組(しぐみ)(わか)つて来て、言霊の活用に左右され、(もと)の大橋へ帰つて来るやうに成るのであります。

(十一)本元(ほんげん)也。モト(かへ)也。世の大本(おほもと)の意である。(すべ)て名は(じつ)(しゆ)でありますから、大本(おほもと)の言霊活用して凡ての本元(ほんげん)と成るのであります。大本(おほもと)の名は人民の所名(しよめい)では無い、艮の金神様の御神示に()るのである。故に何事も皆この大本(おほもと)根基(こんき)()さねば、万事が完成しないのである。静岡の長沢(ながざわ)氏の神社経営に(つい)ても、(その)根本(こんぽん)たる敷地は、大本(おほもと)から(こし)らえたのであり、○○○○の前身なる皇風(くわうふう)宣揚会(せんやうかい)基根金(きほんきん)「基根金」にフリガナ「きほんきん」は底本通り。も、(あさ)○氏を通じて大本(おほもと)から出資したのである。総て本元(ほんげん)(れい)あるを(もつ)て、(その)()種々(しゆじゆ)の事業を営んで()る人々が、大本(おほもと)の保護の(もと)に成功して()るのであります。()(かく)も神界経綸の大本(おほもと)で、天神地祇の神集(かむつど)ひに(つど)ひ、神議(かむはか)りに(はか)り玉ひて、顕幽(けんゆう)一切の事物を(さだ)め、(これ)宇内(うない)施行(しかう)し玉ふ()神慮(しんりよ)より、大本(おほもと)の名称を()せられたのであります。現今の大本(おほもと)を見れば、一から十(まで)(みな)このオホモトの四言霊(ことたま)の活用を実証して居ります。変性女子の御魂(みたま)大化物(おほばけもの)(あら)はし、世界の(さら)しものに致すぞよと出て居りますから、(いづ)れ大化物の(ばけ)の皮を(むかれ)る時が出て来るので在りませう。(しか)しこの大化物は何程(なにほど)むかれても極めて平気の平左(へいざ)で居ります。()んな大謨(たいもう)な御用が、一人や二人の力で出来る(はず)はないから、悪く方々(ほうぼう)から言はれて、段々に大きく成らねば、最後の(とど)めは刺せぬのであります。本元(ほんげん)也の言霊活用が(あら)はれて、大化物の弥々(いよいよ)面白き時期が到来して来ました。(しか)し世間一般の人々から色々と攻められ、()ケの皮を()がれて、本元(もと)也の蚯蚓斬(みみづきり)(かへる)飛ばしに成るかも知れません。旧七月十二日も無事であつたと思ふて()ると、教祖の神諭に出てある通り、悪の鏡の御用を勤める大化物の変性女子の()(かた)現世(げんせい)体主(たいしゆ)霊従(れいじう)の写つた行動に、(きも)の小さい、尻の細い英雄豪傑(ごうけつ)がアフンとして、(あい)た口が塞がらん()うに成るぞよと云ふ、神諭(その)ままの事が実現して来ました。反対者の中には、大八洲(おほやしま)(ごう)は出口の(さく)でないと云つて、鬼の首でも取つた様に思ふて、反対の(たね)()()るが、巻頭にも出して()る通り大石凝(おほいしこり)(をう)(あらは)した天地萌抜の巻から抜粋したり、又は訂正したりしたものだ。○○氏の神典(しんてん)から借用したものだと云ふ人があるが、その神典釈義(しやくぎ)矢張(やは)先師(せんし)(あらは)された天地(てんち)萌抜(はえぬき)(まき)から出たものである。()すれば(たと)え神典釈義から出しても、矢張(やはり)大石凝(おほいしこり)(わう)の著作を、○○氏が借用したものである。(いわ)んや同じ師説(しせつ)を学んだものの、意義の一致するは当然である。(また)出版の遅速(ちそく)と著作の遅速に()つて真偽の(わか)るべき(はづ)が無いのである。大本(おほもと)の神諭の上から見れば、大石凝(おほいしこり)(わう)矢張(やは)り艮の金神の仕組(しぐみ)で、世の立替の前駆(ぜんく)と成つて()(いで)ましに成つたのである。大本(おほもと)経綸(けいりん)の深くして、広く(だい)なるを知らぬ信者は、(これ)からは色々の誘惑にかかる恐れが無いとも言ひ(かね)る。人の中傷的言筆(げんぴつ)に迷はず、何事も神の(をしへ)に任して、腹帯(はらをび)(しめ)て居つて貰ひたい。(しか)る時は信仰と至誠の凝固(ぎようこ)(りよく)で、立派な物に成ると云ふ言霊の活用ある大本(おほもと)(きやう)であります。(しか)し東京でも駿河でも尾張でも何処(どこ)でも、八九()の神界の仕組(しぐみ)(わかつ)()るが、肝心(かんじん)一分(いちぶ)(ところ)が誰にも(わか)つて()らぬから、一旦迷ふた人も、反対して()る人も、肝心の(とど)めの(さい)には、本元(ほんげん)の言霊活用ある綾部の大本(おほもと)へ、頭を(めぐ)らし帰つて来ると云ふ、神諭は動かすべからざる生証文(いきしようもん)であります。

(十二)(つち)上面(うはつら)也。(わたくし)()んなことを書くと、読者諸氏は不思議に思はれるであらう。神様に奉仕して()大本(おほもと)の教主と云へば、可成(かなり)神聖な役目であるにも(かか)はらず、傍若(ぼうじやく)無人(むじん)の言葉を(ろう)する、人格の卑劣、(しん)唾棄(だき)するべきものと怪しみ、()(いや)しまれるかも知れませぬ。(いな)()まつて諸氏に愛想を(つか)されませう。大化物(おほばけもの)かと思つたら、天下一品、古今無双の大馬鹿物だと言はれるで()ろう。()れも(わたくし)は百も承知(しやうち)千も合点して()るのである。(しか)大本(おほもと)にはの活用、(つち)上面(うはつら)の言霊が(さちは)ひ玉ふに()つて、上面(うはつら)から見れば実に(みぐ)るしいでせう。(しか)(つち)上面(うはつら)と云ふものは、色々の汚穢物(をわいぶつ)()みて()りますが、(これ)を三尺(ばか)り掘つて見ると、自然の真土(しんど)(あら)はれて来る。(この)土こそは(しん)()つくしいもので、森羅万象を()せて(をも)しとせぬ、金剛力(こんごうりよく)を保有して居りますが、(この)真土(しんど)は余り綺麗(きれい)過ぎて、総ての物を生成(せいせい)補育(ほいく)するに適せない。上面(うはつら)の土は幾ら汚なくても、万物を生育する(ちから)を持つて居ります()うに、(わたくし)()(かた)何時(いつ)上面(うはつら)(つち)である。四方八方からの肥料を吸収して、(しか)して万物を生育するのが変性女子の天職である。教祖の神諭にも(みづ)御魂(みたま)の使命が(あきら)かに出て居りますから、読者は既に御承知の事と察しますから、(ここ)には省いて置きます。人間の最上最大の欲望は善の()である事は、真道(しんだう)問答の明文(めいぶん)で御承知の通りであります。(その)人生の最大目的を(すて)て、神様の命に従がひ、天下国家の為に、所有(あらゆる)悪の名を負ふ事を甘んじて、千座(ちくら)置戸(おきど)や十字架に近づいて()るのであります。(すべ)大本(おほもと)仕組(しぐみ)は、神勅(しんちよく)を実現実行する大地の中枢であり、言霊の活用に従はねば、二度目の天の岩戸は(ひら)く事が出来ぬ仕組(しぐみ)であるから、(わたくし)は天からの命と信じて、()の不利益な役目を甘んじて居ります。(しか)(その)(かは)りに、浅野会長以下の役員信者の方々(かたがた)は、実に至善、至美、至忠、至愛の善者(ぜんしや)(ばか)りでありますから、修斎会の幹部なり、()た教祖の御威徳なり、二代三代の御世継(およつぎ)言行(げんこう)を信じて下さつても、決して別条は有りませぬ。(わたくし)(どう)しても、埃溜(ごみため)(つま)らむ役目を、天賦(てんぷ)的に命じられて居りますが、(しか)(これ)でも神界の御用と確信して、日々(にちにち)(いさ)んで(くら)さして(いただ)いて()るのであります。

(十三)(みず)()也。水は方円(ほうゑん)の形に(したが)ふは、自然の道である。極めて従順にして、融通の利くものは水の(せう)である。()大本(おほもと)には水の()(くらい)する変性(へんぜう)女子(によし)御魂(みたま)が神界から(あら)はして、色々の御用が()してあります。四(こん)の性能から言へば、(いづ)御魂(みたま)変性(へんぜう)男子(なんし)は火の役であり、(みづ)御魂(みたま)は水の役で、天地万物に(うるほ)ひを与えて、()(これ)を生育せしむるものである。()た四(こん)経緯(けいい)ありて、荒魂(あらみたま)和魂(にぎみたま)(たて)即ち(いづ)(みたま)と云ひ、奇魂(くしみたま)幸魂(さちみたま)(よこ)即ち(みづ)(みたま)と云ふ。(しかし)(いづ)(みたま)は本田先生の真道(しんだう)問答にも在る通り一々万々、確固(かつこ)不易(ふゑき)にして、(みづ)(みたま)操縦(さうじう)与奪(よだつ)其権(そのけん)有我(われにあり)と示されたる如く、教祖と(わたくし)との霊魂(れいこん)の使命は、正反対の活動を致すのが御魂(みたま)の使命であります。()れで大抵の人々は、教祖様の厳直(げんちよく)にして犯すべからざる言行(げんこう)を感心して、尊敬を払はれますが、(これ)に反して、(わたくし)言行(げんこう)は、十人が九人()で批難をされます。()れは何人(なにびと)が見ても当然の次第であります。(しか)し火(ばか)りでは天地万物の安息は出来ぬのと同様に、大本(おほもと)(きやう)にも火と水との役が必要であります。火と水と合体して、(ここ)に神の(たい)が成り、火水(いき)となつて生神(いきがみ)の活動を(まつた)ふするのであります。(みち)大原(たいげん)にも、天主(てんしゆ)一物(いちぶつ)を創造す、(ことごと)力徳(りよくとく)()る。故に善悪(あい)混じ、美醜(びしう)(たがひ)(まじは)るとある如く、何事も善(ばか)りでは物事は成就せぬのである。論性(ろんせい)題号(だいごう)にも、霊魂(れいこん)より言へば善也、(たい)より言へば悪也、(ちから)より言へば善悪混交(こんこう)也と示されてある()うに、一種の勢力を造るに(つい)ては、(れい)(たい)と合致した実力の必要を感ぜざるを得ぬのである。そうして(わたくし)は体系であつて、体主霊従に近いのであるから、神界の経綸(けいりん)を表面から浅く見たり考へたりして居る、清き友からも手を切られたり、鬼にも(ほとけ)にも一旦は見放される事が出来て参りませう。()れども(わたくし)は少しも恐れも(なげ)きもせぬ、自分の使命だと感じて()るからである。大海の水は低きに()て深く広く際限(さいげん)なくして、(その)(そこ)を見る事が出来ぬやうに、大化物の正体も中々(なかなか)容易に()からぬかも知れませむ。()かし(わたくし)が神界に(おい)て不必用であり、()経綸(しぐみ)の邪魔に成るものなら、何時(いつ)神界から召捕(めしとり)遊ばしても構ひませぬ。天下万民の為になら、如何(いか)(やう)の運命に(をちい)るも、(あへ)()せない覚悟は、二十年以前に心中(しんちう)に既に固まつて()るので在ります。(わたくし)は元来(がく)無く、(しき)無く、徳も無く、(くらい)も無い、一介(いつかい)蛮骨(ばんこつ)でありますから、只々神命(しんめい)(した)がつて、実行方面に心力(しんりよく)(つく)して()(つも)りである。(しか)し昔から学者の取つた天下無しと云ふ事がある。豊臣氏でも徳川氏でも織田氏でも、(みな)余り学者では(なか)つたと思ふ。故に(わたくし)は全力を挙げて、五六七(みろく)神世(しんせい)の完成を期待し、世界と共に安楽な世の()るのを楽しみ、微力(びりよく)の限りを尽しつつ在るので有ります。オホモトの四(げん)の活用に()つて、()んな(つま)らん役割の貧乏クジを()かされたのも、身魂(みたま)の因縁で、如何(いかん)ともする事が出来ないのであります。

(十四)分子(ぶんし)(せい)也。分子(ぶんし)(ここ)で云ふのは、上帝の分霊(ぶんれい)地主神(ちしゆしん)分体(ぶんたい)()けて、(うま)れたる人の事であります。分子の精(ばか)り、所謂(いはゆる)神界の御心(みこころ)(かな)ひし真人(しんじん)神業(しんげう)を助け(まつ)るてふ言霊の活用である。誠の神慮に叶へば如何(いか)なる大事業を(はじ)むるも、少しも心配せずに、(はこ)()した如くに行くが、(これ)に反して、神界の事を(をも)(すご)し、()を出さば大変なる困難の()るてふ言霊でありますから、大本(おほもと)は一々神慮を(うか)がつて事を()さねば、ドンナ智者の考へも、(かへ)つて神界経綸の邪魔に成りますから、大本(おほもと)幹部の役員は、十分の注意を払つて(いた)だきたいのであり()す。の言霊の活用は、未だ未だ限り知られぬ(ほど)ありますけれども、余り永く成りますから、後日の説明に譲つて置きます。

   (四) (ト)の言霊(ことたま)

(一)(をとこ)也。男々(をを)しく(たく)ましく、勇壮活発なる言霊である。男は手力雄(たぢからを)の活動である。(ゆへ)大本(おほもと)教祖は、肉体は婦人なれど、実に雄々(をを)しき変性(へんぜう)男子(なんし)の霊性を具備して出現された。()た二代出口澄子のこと。男性(なんせい)(てき)の霊性を具備し、(こと)に第三代の直霊(なをひ)(じやう)出口直日のこと。は全く先天的の男性である。二度目の(あま)()岩戸(いわと)(びらき)神業(しんげう)は、(どう)しても男性的霊性を具備せる手力雄(たぢからを)神力(しんりき)で無くてはならぬ。故に()大本(おほもと)(たち)()る人士は、(いづ)れも進取(しんしゆ)的の気性に富み、至清(しせい)至潔(しけつ)の行動を取るてふ言霊の活用であります。

(二)(とどめ)也。(うしとら)金神(こんじん)(おほ)国常立(くにとこたちの)(みこと)の出現して、神政を樹立し、三千世界の(とどめ)を刺すてふ言霊の活用で在るので在ります。神諭に世界の事は何事も艮の金神の(ゆる)しなくては、九分九厘の(とこ)()へりて(しも)ふから、神の力で無ければ、人間の力では到底物事の(とど)めは刺せんぞよと出て在るのも、(とどめ)也の言霊の活用であります。

(三)(とどろく)也。雷鳴(らいめい)(つひ)宇内(うない)(とどろ)くてふ言霊の活用である。国祖(こくそ)数千年の(だい)経綸(けいりん)完成の(あかつき)を語るものである。(しか)し何と言つても世界に二つとない、神界の大経綸を完成する、()高天原(たかあまはら)であるから、二度目の天之岩戸開きに(つい)ては、体主(たいしゆ)霊従(れいじう)方面の大々的活動も(くる)べきは当然で、()素盞嗚(すさのをの)(みこと)が一時の活動の為に、山川(さんせん)草木(さうもく)(みな)動揺し天地震動せし如く、大々的変動あるべき言霊の活用であります。()(ども)今回の御経綸は、数千年間の永き神界の経綸(けいりん)でありますから、大本(おほもと)の役員信徒は、至誠一貫、神諭の精神を呑み込み、至誠的活動を続けてさへ()れば、仮令(たとへ)天柱(てんちう)裂け、地軸(ちぢく)()だくるの大変事(きた)るとも少しも()それず、悠々(ゆうゆう)として天下修斎の神業に参加し、芳名(ほうめい)千載(せんざい)万秋(ばんしう)(とどろ)かすべき活用ある、言霊が(そな)はつて()る、世界の大本(おほもと)であります。

(四)(とくる)也。神諭に世界の事は何なりと(とふ)て下され、何一つ知らん事の無い、世の(もと)生神(いきがみ)が、出口(でぐち)(なを)後見(こうけん)を致して、ドンナ事でも説いて聞かせる、世界の大本(おほもと)であると示されたる如く、宇宙一切の事、世の太初(たいしよ)の事から世の行先(ゆくさき)の事の解決を(あた)ふるてふ言霊の活用であります。八咫鏡(やあたかがみ)明鏡(めいきやう)八方に光り輝き、天地万物を()らし(あき)らむる、霊地の言霊であります。

(五)(もとひ)也。大地の基礎を固め、神政成就の根基(こんき)を開く、国の太祖(たいそ)(おほ)国常立(くにとこたちの)大神(おほかみ)は、昔の世の(もと)からの因縁の身魂(みたま)(あら)はして、今度の御用に()使(つか)ひ遊ばすと云ふ事は、二十七年間の神諭に幾度(いくど)と無く(あら)はれて()るのでありますから、昔の神代(かみよ)の基礎を固めた、因縁の身魂(みたま)()かりを、世界の大本(おほもと)()高天原(たかあまはら)(ひき)よせて、五六七(みろく)神代(かみよ)の基礎を()(さだ)め遊ばすてふ言霊の活用であります。故に(わたくし)は何事も綾部に(もとゐ)が神界から築かれてある事を、深く信じて居ります。(つい)ては何事も皆、出口の名に()りて完成する事も、神諭に()つて確信して居ります。故に世界から数千万の強敵が(あら)はれて来て、(わたくし)なり大本(おほもと)(きよう)へ攻め寄せ()るとも、(みな)神界の御経綸の一部分の実現せしものと感じ、神示の確固(かくこ)不易(ふえき)、動かす()からざる大権利を、衷心(つうしん)より感歎して()まぬ次第であります。変性女子の千変万化の行動に()いて、種々(しゆじゆ)の批評を試み、(かつ)(また)新聞雑誌(とう)にて、何程(なにほど)の迫害を持ち込み()るとも、変性男子の一々万々確固不易の神教(しんきやう)根基(こんき)は、微駆(びくつ)とも動かぬのであります。綾部の大本(おほもと)は神諭にも出て在る通り、月の形の御簾(みす)の内、日に日に代はる、引掛(ひつかけ)(もど)しの経綸(しぐみ)であるから、体主霊従の鼻高(はなだか)は、引掛(ひつかけ)(もど)した時に結構な御陰(おかげ)(をと)すものが出来るから、大本(おほもと)は筆先を(もと)として開く(ところ)であるから、(よそ)(をしへ)は混ぜられんと出て居りますから、(よそ)からの教理は、緯糸(よこいと)として参考として、()る期間は、(わたくし)も応用して来たので在ります。(しか)宇宙(うちう)の真理は、宇宙(うちう)に一つより無いのであるから、誠の(をしへ)は、世の元の誠の神の御心(みこころ)(もと)づくもので在ります。(わたくし)()んと言はれても、世界中から反対されても、例之(たとへ)生命(いのち)を取られても、(わたくし)の行動が結局世界を救ひ導く、神的(しんてき)行動となるものと信じて()る以上は、少しも痛痒(つうやう)を感じないのである。()()ふ事を書くと亦々(またまた)反対者側から減らず(ぐち)をたたくとか、負け(をし)みを言ふとか、強情だとか、横着者だとか、色々と評されるであらう。(しか)し左様な(せう)問題に、仮令(たとへ)一時間でも一分間でも精神を使ふやふな小さい魂性(こんぜう)では、到底今回の大任を(はた)す事は、夢にも及ばぬので在る。今春以来の神諭にも、(わたくし)今日(こんにち)の面白い境遇が示諭(じゆ)されてあり、()(また)節分が過ぎたら、大本(おほもと)の内部の立替(たてかへ)(はじめ)ると、神示があれば寸分(すんぶん)(たがは)ず、諸氏御承知の通り、(その)(すじ)の調査と各新聞紙の攻撃的行動が在つて、大本(おほもと)の内部の立替が完成しました。世界の立替、即ち改造問題は、天下を風靡(ふうび)するやうに成つたのであります。()た神諭に、今年(こんねん)の旧七月十二日から、世の立直し、神と(がく)との(ちから)(くら)べの(はじま)りで、大本(おほもと)の中が大変(おほがは)りする事も示されたが、(これ)(また)神諭の示す通りに成つて居ります。故に(わたくし)大本(おほもと)根基(こんき)たる神諭の確実不動なるを、(さう)一層(いつさう)深く感激し敬服する次第であります。今後の大本(おほもと)(よこ)(わたくし)の御用は漸次(ぜんじ)必要が無くなり、(ただ)一筋(ひとすじ)に教祖様の神諭や、裏の神諭一点張りの御用を()して(いただ)く時節が到来しまして、神の()仕組(しぐみ)の完成が日夜(にちや)に接近しつつあるを(よろ)ぶ次第であります。世界の立派な賢明な智者、学者の総攻撃が何程(なにほど)襲来しても、唯々(ただただ)天職の使命を実行しつつ、自信(じしん)(りよく)を有する(わたくし)には、()()く声(ぐら)いより感じない。夏の最中(さいちう)に四角な蚊帳(かや)()つて、()正中(せいちう)安臥(あんぐわ)しながら、帳外(ちようぐわい)蚊群(ぶんぐん)の泣く声を聞きつつ、団扇(うちわ)を使つて浄瑠璃(じやうるり)でも(うな)つて()(やう)心持(こころもち)である。古語(こご)にも喬木(けうもく)は強き風に()()たると云ふ事がある。善の名にもせよ悪の名にもせよ、ソンナ事には懸念しない。神諭にも悪く言はれて良くなる経綸(しぐみ)とあるから、(わたくし)はいよいよ変性女子の天職の発揮されたる事を満足に思ふのであります。(また)(わたくし)退隠(たいいん)さして、大本(おほもと)の根本的大革正を実行せうと云ふ、ヱライ御方(おかた)(あら)はれて来るが、()うなれば実に我々は気楽でよいが、神界から(ゆるし)て下さらぬので、(どう)致方(いたしかた)がありませむ。大本(おほもと)の幹部の役員をオダテ上げて、大本(おほもと)乗取(のつと)りの妙策を講ずる者も出て来るのは、神界所定の事実であります。()()ふ人に限つて(しん)の確信がないから、(ほら)(とうげ)()め込むものである。大本(おほもと)は行く行くは宗教にする心算(つもり)であるとか、()んとか云ふて、神の御心(みこころ)を知らぬ連中が、攻撃をする事も出来て来るなれど、也の言霊の活用は如何(いかん)ともする事が出来ぬのである。教祖の神諭は人作(じんさく)だとか、文章が卑近(ひきん)なから、(とほと)い神の(をしへ)で無いとか、天理教祖を守護して居た狐で、十七番目の伝九郎(でんくろう)だとか、本田(ほんだ)親徳(しんとく)フリガナの「しんとく」は底本通り。神憑(かんがかり)して言ふたとか、色々と草の片葉(かきは)まで言問(ことと)ひして神界予告の通りに、邪魔者が(あら)はれて来て()るが、何程(なにほど)理屈を言ふて、一生懸命に反対した所で、結局は矢張り大本(おほもと)の大橋へ後戻りするより他に道は無いのである。世界一切の事は、艮の金神様の永久(えいきう)()仕組(しぐみ)であるから、一時悪霊(あくれい)(たぶ)らかされても(つひ)には道が無くなるから、()(もと)立帰(たちかへ)らねば成らぬのは、基也の言霊の活用である。

(六)(ひと)也。神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の司宰者である。故にの言霊あり。経綸(けいりん)主宰(しゆさい)即ち(とどめ)の義である。霊主体従の行動を()すものを、ヒト霊主(れいしゆ))と()ひ、体主霊従の行動を為すものをニウ(いる))と曰ふのである。人は即ち字形(じけい)より曰ふも、(ひだり)()(れい)也)が(あら)はれ、(みぎ)(みづ)(たい)也)が下位(かい)()る。(これ)に反して(にう)は右が先に(あら)はれ、左が下位にある。故に日本人の(ことば)にてヒトと曰へども、体主霊従の外国人は(これ)を、ニース又はニユスと曰ふ。ニユス霊反(たまかへ)しは即ちニユである。この大本(おほもと)には変性男子のと、変性女子のとが出現して、日本と外国との実地の(かた)をして見せてあるので在ります。故に(ひと)(いる)とをアヤなす時は(あや)となり、十二となるから、大正八年の一月号の神霊界には、七月即ち(文月(ふみづき))の十二日から、神界の御用が(かわ)りて、()大本(おほもと)にもいよいよ霊主体従のの御用と(かわ)つて来たのであります。今迄は変性女子の役は、(いやしく)()大本(おほもと)(をしへ)に幾分でも適当した論説は、悉皆(しつかい)(これ)を一つに(まと)めて、大本(おほもと)へ輸入したのは、即ち体主霊従((にう))の言霊の活用であつたのであります。()大本(おほもと)(をしへ)に、一旦信したものも、の守護神になると、一つの目的を(たて)て、利己的の行動に()づる者が(あら)はれて来て、大本(おほもと)の深遠なる経綸(けいりん)を、知らぬ入道者が、(ちから)一杯反対をして、大本(おほもと)(きづ))を付けるものが沢山に(あら)はれる言霊であります。盤古(ばんこ)悪霊(あくれい)が肉体を駆使して、大本(おほもと)(きやう)の教祖も教主も、金毛(きんもう)九尾(きうび)じゃ()(あし)じゃと隠口(かげぐち)をたたひて、(しん)神人(しんじん)まで(まよは)せに(かか)る事もある。今度は○の御魂(みたま)や○の御魂(みたま)までが○○を(くわ)えんとするなれど、九分九厘で()(ひら)がかえりて、谷底へ落ちて苦しむ者も、(あら)はれるてふ言霊でありますが、(これ)が暗黒の世界の現状が、大本(おほもと)へ映写して()るので在ります。(この)七月十二日以後になると、(まこと)と誠のとが明白に判りて来て、神と人との共同の(だい)神業(しんげう)(おこな)はれる、人也の尊い言霊の活用があるのであります。

(七)(のぼる)也。旭日(きよくじつ)昇天(しやうてん)(いきほひ)ある、言霊の活用である。神諭に(あけ)(からす)に近よりて、日出(ひので)の守護となるから、()大本(おほもと)日々(にちにち)結構になりて、艮の金神の威勢が天までも届くぞよと、出てある所以(ゆえん)であります。()た神諭に昇る御魂(みたま)と、(くだ)御魂(みたま)との立替で、一旦は混雑に成るぞよと出て居ります。大本(おほもと)(をしへ)を守り、霊主体従の行動をするものは昇り、()た神の(をしへ)を聞かずに、体主霊従の行動をする者は、地獄のドン底へ(おちい)ると云ふ言霊の活用である大本(おほもと)でありますから、身魂(みたま)も研かずに、(わが)()の昇る事(ばか)り考へて()ると、地獄の底へ()とされて、万劫(ばんご)末代(まつだい)苦しまねば成らぬ様に成るのであります。

(八)万物の(たね)(つかさど)つて、一より百千の(すう)をなす也。一とは()也、(れい)也、()也、(ほし)也。即ち天授(てんじゆ)日本魂(やまとだましい)なり。この日本魂(やまとだましい)の一つの種を元にして、三千世界の御魂(みたま)日本魂(やまとだましい)()ぢ直す、大神の経綸場所であります。大本(おほもと)太初(たいしよ)、即ち教祖開教の時は、教祖様が(ただ)一人(いちにん)相談相手も無く、大神様の御命令を遵奉(じゆんぽう)して、種々(しゆじゆ)艱苦(かんく)()めつつ、日本魂(やまとだましい)の種を(やしな)ふて居られたのが、今日(こんにち)に至り、数万の帰依者(きえしや)(あつま)り、日本魂(やまとだましい)の人士が追々(をいをい)(あら)はれて来たのも、一より百千の(すう)を成す也の言霊の活用であります。()た一切万物の種を(つかさど)る言霊あれば、世界一切の事物は、()大本(おほもと)でなければ、因縁が判らぬのであります。

(九)(とを)也。十は()()二息(にそく)(がう)して神と成るのである。(また)左右十(ゆび)の活用で霊体(れいたい)合一の言霊である。皇道大本(おほもと)神旗(しんき)十曜(とよう)である。十は円満(ゑんまん)具足(ぐそく)完成の意義である。キリスト教は十字架を標章とし、仏教家は十字を化して(ともゑ)となし、法華(ほつけ)(しう)は十字の(さき)(わり)て標章となすも、(みな)完全無欠の意を(ひやう)したものである。(わたくし)(ここ)大本(おほもと)十曜(とよう)神紋(しんもん)(つい)て少しく書いて見ようと思ふのであるが(そもそ)も十曜の神紋に(つい)ては、種々(しゆじゆ)の意味が包まれて在つて一々(これ)を説明せむとすれば、到底百頁や二百頁では充分に徹底的に説く事は出来ませぬから、十曜の紋のことは後日に譲ります。

(十)()く産み出す也。高皇(たかみ)産霊(むすび)(をとこ)神皇(かむみ)産霊(むすび)(をんな))の火水(かみ)の言霊活用に()り、経緯(けいい)の二霊顕現して、万物一切を(うみ)()す意義あれば、の言霊を活用してオホモの名を付け、天地経綸の神業を完成し玉ふ神意であります。

(十一)(むす)(とほ)()る也。因縁の糸に()身魂(みたま)(ひき)()けられ、一つに成つて世界万民の為に心身を投ずる至誠が天地に貫徹して、大神(おほかみ)神慮(しんりよ)(かな)ひ、君国(くんこく)に報ずる円満具足の行動を成すてふ言霊の活用であります。

(十二)(みな)(をさま)る也。神諭に、昔の元の生神(いきがみ)が、竜宮館(りゆうぐうやかた)()高天原(たかあまはら)(あら)はれて、三千世界を一つに丸めて、日本(にほん)神国(しんこく)の一つの王で、何時(いつ)までも天下泰平に治めるぞよと出て居りますのも、皆治る也の活用であります。

(十三)(むす)びの(つかさ)也。処々(ところどころ)方々(ほうぼう)(をしへ)射場(ゐば)が建てられ、誠の人が(あつ)まつて、神仏(しんぶつ)慈徳(じとく)拝受(はいじゆ)し、(かつ)(また)神理を研究する団体がある。()の各種の団体を、時節が到来して(これ)を統一し、(これ)を主宰する言霊の活用である。

(十四)(かたち)本源(ほんげん)也。神諭に三千世界の一切の出来事は、()大本(おほもと)の中で、神から形をして見せるから、世界を見ないでも、大本(おほもと)の中に在りた事を気を付けて見て、腹の中へ入れて置きさえすれば、世界の事が手に採る如く明白(ありやか)に判る、世界の大本(おほもと)であるぞよと(あら)はれて在るのも、(かたち)本源(ほんげん)也の言霊の活用であります。

(十五)八咫(やあた)(はし)る也。八方を(あきらか)に知らすと言ふ意義である。神諭に今度の二度目の天之岩戸開きに()いて、綾部の産土(うぶすな)(さま)に御苦労になりて、八方の神々様へ()披露(ひろう)が致してあるから、()の事が天晴(あつぱ)れ世界へ判りて来ると、(いづ)れの神様も()(いち)と、丹波の綾部じや大本(おほもと)じやと申して、今度の御用を()手伝(てつだい)遊ばす為に、皆お()し遊ばす()うに成る、尊い霊地であるぞよと(あら)はれて在るのも、八咫(やあた)に走る也の言霊の活用で在ります。

(十六)世の(くらい)也。世界の最勝妙(さいしようみやう)中心の地にして、宇宙の権威たる神霊の、神集(かむつど)ひに(つど)ひ給ひて神律(しんりつ)を議定し、神都(しんと)を開き、世界万民を(やす)きに導き玉ふ言霊の活用であります。神諭にも綾部の大本(おほもと)は地の高天原であるから、三千世界の事は(みな)判る結構な(とこ)であるぞよ。(この)大本(おほもと)は世界の(かがみ)の出る、(ほか)に無ひ尊ひ(ところ)であるぞよ。世界中の結構な身魂(みたま)は、(みな)(ここ)へ出て来て御用を致す()うに成るぞよとあるは、世の(くらい)也の言霊の活用であります。

 以上オホモト四(げん)の言霊の活用に(つい)略解(りやくくわい)(ほどこ)しましたが、読者の中には、(わたくし)の解説を(もつ)て、大本(おほもと)の尊き事を知らさん()め、殊更(ことさら)牽強(けんきやう)付会(ふかい)せし者と見做(みな)される方々(かたがた)も有るかも知れませぬが、決して根拠無き解説では在りませむ。杉庵(すぎいほ)思軒(しけん)先生の水穂伝(みづほでん)や、中村(なかむら)孝道(こうだう)先生の真寸美(ますみの)(かがみ)などの言霊を根拠とし、(かつ)(また)(わたくし)が廿余年間実地に(つい)ての研究の(むすび)であります。(こと)に教祖様の()直話(じきわ)なり()筆先(ふでさき)なり、(その)()の事柄(とう)を総合して、断案を()だしたもので在ります。(いづ)れ未熟(きは)まる(わたくし)の研究上の解釈で在りますから、不完全な穴だらけで在る事は、(わたくし)自身としても()く感じて居りますから、賢哲諸彦(しよひこ)()添削(てんさく)を願へば、実に望外(ぼうぐわい)の幸福で在ります。
 オホモト霊返(たまかへ)の一(げん)()する。を更に解説すれば、オの言霊は天神地祇の昇降(せうこう)(あそば)さるる(あま)浮橋(うきはし)ともなり、(あま)橋立(はしだて)ともなるのである。祭官(さいかん)祓戸(はらいど)四柱(よはしら)の神、又は特に奉仕の神霊を送迎する時に、オオオオと高唱(こうせう)するのは、神界と現界との大橋を、言霊に()りて()する神事(しんじ)であります。(ゆへ)降神(こうしん)行事(げうじ)の時には、侍者(じしや)が最初は細く、漸次(ぜんじ)に太く、オオオオと奉唱するは、天上より漸次(ぜんじ)地上に近づき(くだ)らせ玉ふ意味であり、()昇神(しやうしん)行事には(これ)に反して、最初は太く、漸次(ぜんじ)声を細く奉唱するは、神霊の(てん)に帰り玉ふに()き、地上を遠ざかり玉ふが故に細く(きこ)ゆる意義であります。近くに()友人(ゆうじん)()た家族に対して、オオイと大声を発して招いたり、()た招かれて、オオオと答ふるは、凡俗(ぼんぞく)より見れば、実に失敬な、粗雑な言辞(げんじ)の如くに聞こえ、()普通(ふつう)(ひと)からは()(をも)はれますが、実際は神国(しんこく)自然の言霊の妙用で、神様(あつか)ひにした、非常なる敬語であります。故に人を呼ぶに、オオイ、オオの(ことば)贈答(ざうたう)は、(かへ)つて使用すると恐れ多い(くらい)で、少しも不敬とか粗雑と云ふ意義にはならぬのであります。可成(なるべき)は人間社会の呼応(こおう)には、モシモシとハイハイとが、適当した言葉でありますから、(あま)()浮橋(うきはし)神事(しんじ)(たづさ)はる時の(ほか)は、(もち)ゐない方が穏当(をんとう)であります。
 (かしこ)くも大嘗祭(だいぜうさい)の御時に用ゐらるる鎮魂祭(ちんこんさい)の八(しゆ)秘歌(ひか)も、一首一首に、オオオオと言ふ言葉が在ります。如何(いか)の言霊の至尊、至貴、至重(しちやう)なるかは、()に発表し(まつ)る、八首の神秘歌(しんぴか)()つて、(うか)がひ(まつ)る事が出来るのであります。

(一)アチメ オオオオ アメツチニ キユラカスハ サユラカス カミハカモ カミコソハ キネキコウ キユラカス
(二)アチメ オオオオ イソノカミ フルノヤシロノ タチモカトネカフソノコニ ソノタテマツル
(三)アチメ オオオ サツヲラガ モタキノマユミ オクヤマニ ミカリスラシモ ユミノハスユミ
(四)アチメ オオオ ノボリマス トヨヒルメガ ミタマホス モトハカナホコ スヱハキホコ
(五)アチメ オオオ ミワヤマニ アリタテル チカサヲ イマサカエテハ イツカサカエム
(六)アチメ オオオ ワキモコガ アナシノヤマノヤマヒトト ヒトモミルカニ ミヤマカツラセヨ
(七)アチメ オオオ タマハコニ ユウトリシデテ タマチトラセヨ ミタマカリ タマカリマカリ マシシカミハ イマソキマセル
(八)アチメ オオオ ミタマカリ イニマシシカミハ イマゾキマセル タマハコモチテ サリタルミタマ タマカヤシスヤナ

 次に ヒフミヨイムナヤコト の数歌(かづうた)を十回(とな)へらるるのであります。以上の神秘歌(しんぴか)なり数歌(かづうた)を拝読しましても、オ也、ト也の言霊の活用が(そな)はつて在る、オホモトの天賦の使命が(わか)るので在ります。

 杉庵(すぎいほ)思軒(しけん)水穂伝(みづほでん)(あら)はれた言霊学(ことたまがく)は、火水(かすい)(たい)を説き、中村(なかむら)孝道(こうだう)真寸美(ますみの)(かがみ)は、火水(かすい)(よう)を説いたもので在りますから、水穂伝の所説を大本(にほん)言霊学(ことたまがく)と称し、真寸美鏡の所説を日本(にほん)言霊学(ことたまがく)と称して、(わたくし)体用(たいよう)両面に区別しました。(しか)(わたくし)永年(えいねん)研究の結果、双方(とも)実地に(つい)て応用するに(あた)り、余程(よほど)不備の点を感じましたから、二十余年間、学理の如何(いかん)に関せず、実用に適する説を採つて来たのであります。大本(おほもと)言霊閣(ことたまかく)に安置する天津(あまつ)金木(かなぎ)大石凝(おおいしこり)(わう)一派の運用法とは、余程(かわ)つた点があります。如何(いかん)となれば、人間の説を根底(こんきよ)フリガナ「こんきよ」は底本通り。として立てた教理と、神界直授(ちよくじゆ)の真理とは、(すべ)ての点に(をい)て、深遠(しんえん)浅近(せんきん)の区別があるからであります。

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