宗匠にいとまを告げて立ち出づる門辺を村上信夫氏に会ふ
信夫氏は穴太牧場を主宰する人にて宗匠の実弟なりけり
信夫氏は先づ待ち給へとわが袖を引きて離さず暫しを語らふ
穴太寺修繕のため勧進帳たづさへ村村たづねゐたりき
喜楽さん神様なんかやめにして事業をやれと勧むる信夫氏
精乳館の同僚
四年前精乳館に働きし村上信夫は同僚なりけり
浪速へは行かず穴太へかへれよと信夫氏しきりに勧めてやまず
和歌冠句川柳などの話して又半日をつひやしにけり
浪速路に下らむ決心強けれど友の言葉を反くにしのびず
信夫氏を伴ひ灰田を後にして再び故郷の山に近づく
村上とともに精乳館に入り肥えふとりたる牧牛をみる
上田長吉
古き友上田長吉訪ひ来り百姓せよとしきりに勧むる
なまくらな神様商売やめにして働け立派に食へると彼言ふ
喜楽『食ふだけの事なら犬でもやつてゐる俺には一つの望みがあるのだ』
神様でまうかりますかと長吉が食ふ事ばかり案じるをかしさ
銭まうけしようと思へばいくらでも出来るがみ国が大事と答える
喜楽さんはお国が大事とえらい事おつしやりますると長吉が笑ふ
世間話
故郷に帰りてみればわからずやここにも沢山ごろつきてをり
言の葉の通はぬ国に行きしごとき心地せりけり友と語りて
わが言葉利慾にあさる長吉の耳には入らずもどかしみけり
百姓に道をかたるも詮なしと世間話にほこを向けたり
世間話すれば長吉よろこびて膝にじり寄せ笑顔にむかうる
斎藤久太郎
長吉と語るをりしも古き友の斎藤久太郎入り来りたり
斎藤は田舎に珍しき識者にてわが宣る言葉にいちいちうなづく
日進月歩明治のみ代に生れながら田舎にはつるは惜しと彼言ふ
両親がなければわれも家出してみ国のために働かむと言ふ
両人の話をききて信夫氏はえらい豪傑できたと笑ふ
斎藤は穴太を飛び出し四年後に鉄道吏員と任けられにけり
長吉はその後田舎にくすぼりてやせこけながら百姓つづくる