八月下旬綾部から帰宅後早々、自分が真先きに着手したのは、辞職の手続を履むことであつた。
自分が何より恐ろしかつたのは、父母兄弟その他の好意的故障が出ることであつた。『若しも之が為め折角の決心が鈍るやうでは大変だ。先づ辞職して、背水の陣を布いて置いて、それから一切を発表するのが無事だ。辞職だけは早いに限る』
機関学校の校長、教頭と熟談の結果、生徒の学年の終まで勤務し、十二月から自由の身となることに決定した。『後三月の辛抱だ。先づ之で安心』と思つた時には肩の重荷が一時に降りた様な気がした。
かかる際に、苦情が家庭の内部から起りでもすれば、さぞ困るであらうが、幸其点に就いては安心なものであつた。自分が和知川のほとりに家邸を買つて置いたと発表した時は、妻も子供も雀躍して歓んだ程の大賛成。何の事はない、早く綾部に引越したいと勇むばかりであつた。
自分が最も懸念したのは、いかに之を郷里の老父母に発表すべきか、いかにして無用の心配を掛けずに済まし得るかといふ点であつた。兎も角も帰省することに決め、八月の末に新樹、三郎の二児を携へて常陸に帰つた。外へ出ては一家の主人公だが、父母の許にかへれば矢張り子供だ。自分は数日滞在したが、その間に於て出来る丈大本の事を説明し、そしてそろそろと辞職の決心を打明けた。父も母も自分の決心の翻し難きを認めたものと見え、一言の苦情も申出なかつたのはうれしかつた。ただいかにも普通の常識とはかけ離れた事柄なので、我子の前途を慮る色はありありと老父母の顔によまれた。
滞在中には両三度母に鎮魂を施したが、霊の感応十分で、大本の理解を或る程度まで得させる事が出来た。叔母や従妹などもその際自分の鎮魂を受けたが、それが二年後に竜ケ崎支部を開き、常南一帯に大本の教を布くの端緒を為したなどは、神の綱の懸方のいかに人間の思索想像の及ぶところでないかが判る。
兎も角も今度の帰省で、自分の最も懸念した最大難関は通過した。『モウこれで大丈夫だ。心にかかる雲はない。縦令千万人声を揃へて何と言はうと、吾はただ己が正しい道を辿ればよい。あらゆる私利私情を放擲して、国の為め、君の為め、日本国民の為めに大神様の仰せ通りを実行するとせう』自分の決心はそれからは一段の鞏固を加へたのであつた。
次ぎに自分が大急ぎで着手したのは、少くも五種か十種の新聞雑誌を征服しようといふ計画で、筆を執りて皇道大本の沿革教義等を略説せる文章を草したのであるが、之を発表するといふ段取になつて、それが多大の困難事であることを発見した。他の種類の文字、例へば文学的作品でもあるなら、幾らでも歓迎して掲げて呉れるのだが、信仰問題となると、何れも此も門並に敬遠するにはいささか呆れた。皇道大本は宗教ではない、我古神道の復活である。人倫、道徳、政治、宗教、其他一切の大根源であると、自分では幾ら威張つても、他が承知して呉れない。神だの、信仰だのといふと単にそれ丈で毛嫌ひされて了つた。今日でも世人は尚物質迷信に捕へられて居るが、大正五年に於ては一層それが猛しかつた。で、自分の希望は十分の一にも達せず、僅に樗牛会で発行して居た雑誌『人文』に二回、基督教の機関誌たる『六合雑誌』に一回発表したにとどまつた。
『こりア中々思ふやうに行かない。自分で機関雑誌を発行するより外に途はない』とその頃から自分は肚の中に決心した。
『人文』誌上に掲載されたなども寧ろ奇蹟に近かつた。樗牛会の畔柳芥舟氏は、姑射氏から自分の大本信仰の話をきき、『人文』に載せるから告白やうのものを途らぬかと申送つて来た。さてこそ『余が信仰の告白』と題せる一篇が十月一日号に載録されたのであつたが、それは全く姉崎嘲風氏の旅行の賜であつた。昔の日蓮なら幾らでも太鼓をたたくが、今の活きたる大本教祖の大獅子吼は危険であると思つて居る嘲風氏は、旅行先で之を発見して大々的抗議を申込んで来たさうで、無論同氏が在京したなら、拙稿は一言の下に省かるる所であつた。自分から嘲風氏のやり口を見れば、畳の上の水練、趙括の兵法、口と筆との遊戯は甘いが実行はゼロと言ひたいが、嘲風氏から自分を見れば、素人の迷信家、邪道の鼓吹者位にしか映じまい。これはその後の同氏の言論文章でよく理解される。何ちらにも一と理窟はある。其優劣勝敗は今後之を事実の上に徴して貰ふより外に途がない。嘲風氏は『人文』の次号に自分を攻撃し、自分は更に『人文』誌上で之を論駁した。意見の相違は止むを得ぬとして、同氏が自己の主宰する雑誌の紙面を論敵に貸てくれた雅量に対しては、自分は今でも深く感謝して居る。一般世間の刊行物の中で、兎も角も皇道大本紹介の文字を掲載した先頭第一の名誉を、雑誌『人文』が占有したなどは余程奇妙な現象ではあるまいか。