霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(一)

インフォメーション
題名:(一) 著者:浅野和三郎
ページ:237
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142400c66
 八月下旬綾部から帰宅後早々、自分が真先きに着手したのは、辞職の手続を()むことであつた。
 自分が何より恐ろしかつたのは、父母兄弟その他の好意的故障が出ることであつた。『若しも之が為め折角の決心が鈍るやうでは大変だ。先づ辞職して、背水の陣を布いて置いて、それから一切を発表するのが無事だ。辞職だけは早いに限る』
 機関学校の校長、教頭と熟談の結果、生徒の学年の(をはり)まで勤務し、十二月から自由の身となることに決定した。『(あと)三月(みつき)の辛抱だ。先づ之で安心』と思つた時には肩の重荷が一時に降りた様な気がした。
 かかる(きは)に、苦情が家庭の内部から(おこ)りでもすれば、さぞ困るであらうが、(さいはひ)其点に就いては安心なものであつた。自分が和知川(わちがは)のほとりに家邸(やしき)を買つて置いたと発表した時は、妻も子供も雀躍(こをどり)して(よろこ)んだ程の大賛成。何の事はない、早く綾部に引越(ひきこ)したいと勇むばかりであつた。
 自分が最も懸念したのは、いかに之を郷里の老父母に発表すべきか、いかにして無用の心配を掛けずに済まし得るかといふ点であつた。兎も角も帰省することに決め、八月の末に新樹(しんじゆ)三郎(さぶらう)の二児を携へて常陸に帰つた。外へ出ては一家の主人公だが、父母の(もと)にかへれば矢張り子供だ。自分は数日滞在したが、その(かん)に於て出来る(だけ)大本の事を説明し、そしてそろそろと辞職の決心を打明けた。父も母も自分の決心の(ひるがへ)(がた)きを認めたものと見え、一言(ひとこと)の苦情も申出なかつたのはうれしかつた。ただいかにも普通の常識とはかけ離れた事柄なので、我子の前途を(おもんぱか)る色はありありと老父母の顔によまれた。
 滞在中には両三度母に鎮魂を施したが、霊の感応十分で、大本の理解を或る程度まで得させる事が出来た。叔母や従妹(いとこ)などもその際自分の鎮魂を受けたが、それが二年後に竜ケ崎支部を開き、常南(じやうなん)一帯に大本の(をしへ)()くの端緒を為したなどは、神の(つな)懸方(かけかた)のいかに人間の思索(しさく)想像の及ぶところでないかが判る。
 兎も角も今度の帰省で、自分の最も懸念した最大難関は通過した。『モウこれで大丈夫だ。心にかかる雲はない。縦令(たとひ)千万人(こゑ)を揃へて何と言はうと、(われ)はただ己が正しい道を辿ればよい。あらゆる私利私情を放擲(はうてき)して、国の為め、(きみ)の為め、日本国民の為めに大神様の(おほ)せ通りを実行するとせう』自分の決心はそれからは一段の鞏固(きようこ)を加へたのであつた。
 次ぎに自分が大急ぎで着手したのは、(すくな)くも五種か十種の新聞雑誌を征服しようといふ計画で、筆を執りて皇道大本の沿革教義等を略説せる文章を(さう)したのであるが、之を発表するといふ段取になつて、それが多大の困難事(こんなんじ)であることを発見した。()の種類の文字(もんじ)、例へば文学的作品でもあるなら、幾らでも歓迎して掲げて呉れるのだが、信仰問題となると、()れも(これ)門並(かどなみ)に敬遠するにはいささか呆れた。皇道大本は宗教ではない、(わが)古神道の復活である。人倫、道徳、政治、宗教、其他一切の大根源であると、自分では幾ら威張つても、(ひと)が承知して呉れない。神だの、信仰だのといふと単にそれ丈で毛嫌ひされて了つた。今日(こんにち)でも世人(せじん)(なほ)物質迷信に捕へられて居るが、大正五年に於ては一層それが(はげ)しかつた。で、自分の希望は十分の一にも達せず、(わづか)樗牛会(ちよぎうくわい)で発行して居た雑誌『人文(じんぶん)』に二回、基督教の機関誌たる『六合(りくがふ)雑誌』に一回発表したにとどまつた。
『こりア中々思ふやうに行かない。自分で機関雑誌を発行するより(ほか)(みち)はない』とその頃から自分は(はら)(うち)に決心した。
『人文』誌上に掲載されたなども(むし)ろ奇蹟に近かつた。樗牛会(ちよぎうくわい)畔柳(くろやなぎ)芥舟(かいしう)氏は、姑射(こや)氏から自分の大本信仰の話をきき、『人文』に載せるから告白やうのものを途らぬかと申送(まをしおく)つて来た。さてこそ『余が信仰の告白』と題せる一篇が十月一日号に載録されたのであつたが、それは全く姉崎(あねさき)嘲風(てうふう)氏の旅行の(たまもの)であつた。昔の日蓮なら幾らでも太鼓をたたくが、今の活きたる大本教祖の大獅子吼(だいししく)は危険であると思つて居る嘲風氏は、旅行先で之を発見して大々的抗議を申込んで来たさうで、無論同氏が在京したなら、拙稿は一言の(もと)に省かるる所であつた。自分から嘲風氏のやり(くち)を見れば、畳の上の水練、趙括(てうくわつ)の兵法、(くち)と筆との遊戯は(うま)いが実行はゼロと言ひたいが、嘲風氏から自分を見れば、素人の迷信家、邪道の鼓吹者(こすゐしゃ)位にしか映じまい。これはその後の同氏の言論文章でよく理解される。()ちらにも()と理窟はある。其優劣勝敗は今後(これ)を事実の上に(ちよう)して貰ふより(ほか)(みち)がない。嘲風氏は『人文』の次号に自分を攻撃し、自分は更に『人文』誌上で之を論駁(ろんばく)した。意見の相違は()むを得ぬとして、同氏が自己の主宰する雑誌の紙面を論敵に(かし)てくれた雅量に対しては、自分は今でも深く感謝して居る。一般世間の刊行物の(うち)で、兎も角も皇道大本紹介の文字を掲載した先頭第一の名誉を、雑誌『人文』が占有したなどは余程奇妙な現象ではあるまいか。
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