I少将の憑霊は詰問の結果訳なく往生してその正体を白状して了つた。狐の中でもこの種のものは甚だお手柔かなもので、審神者の一喝に逢つて忽ち尻尾を露はして了ふのであつたが、シタタカものの狐にでも成ると、中々陰険で老獪で、審神者を手古摺らせる事夥しい。自分も十月の半頃に一度酷い奴に出会した。
ある日M大佐の夫人が、其姉といふ人を伴れて訪問した。其人は日本橋のさる実業家の妻君で、年齢は三十八九位の年増盛りであつた。兎に角鎮魂して貰ひたいといふので、自分は二人を一緒に並べて坐らせた。
神笛を吹き鳴らして居る中に、早くも姉さんの方の態度が妙に変り始めた。鎮魂前の様子は上品で温雅で、あつぱれ淑女の典型と云うてもよい位であつたのに、何時の間にかそれが甚だ野卑な、蓮ツ葉な、行儀の悪い女に化けて来た。キチンと坐つて居たのが次第に腰を崩し、組んだ両手を左右に離して、ヒラリヒラリと舞踏のやうな事を始めた。例へば蝋人形が熱に当つて熔け出したといふ状態で、何時何所が境界といふこと無しに、とても同一の人とは受取れぬ位に変つて了つた。顔までが、唇が歪み、眉根に賎しい皺が寄り、その他すべてが悪化して、一目見てぞツとするばかりになつた。
自分は呆気に取られて、覚えず眼を睜つた。何処ともなく冷たい風が背中を襲うて、ゾクゾク悪気を感ぜしめる。
『こりア随分厭な奴だ』
と肚に思つたが、兎も角も質問をして見る。
『何誰か?』
暫時その両手がヒラヒラと舞ひつづけるばかり、まるで人を莫迦にした様子が見える。
『何誰か? 早く名乗るやうに』
二三回促すと言葉を切り出したが、いかにも軽い砕けた調子だ。
『実はわたしは本所なの。本所の女つ行者に萢いて居る之なの』と言つて、指で狐の形を作つて見せた。
『狐さんだネ、あなたは、何時からこの肉体についたのかい?』
『ツイ今年の春憑いたばかりさ』
『何の為めに憑いたのかネ』と自分も成るべく煽てるやうに、軽い句調で質問をつづけた。
『判つて居るぢやないの、このセチ辛い世の中に、他に目算があつて耐るものですかネ。ただこれが欲しいばかりさ』今度は指で輪を作つて見せた。
『フム金銭か。欲ばりだネ。甘く目的を達したかナ?』
『ところが旦那駄目でしたよ。すつかり失策つて了つて、数々骨を折つて漸く捲きあげたお金額が、たつた五円の祈祷料ぢや遣り切れはしません。斯う見えてもこの女は中々堅造で、キユーツと財布の口を緊めて居るのですからネ、私すつかり見立違をやつて了つたの……』
ペラペラ際限もなく喋り出した。ものの一時間もやつて居る中に、段々前後の事情が自分にも明瞭になつて来た。
夫人は若い時分には中々の美人で、盛装して外出でもすると可なり人目を惹いたらしい。今から二十年も前に、両国の中村楼に琴のお温習があつた時、夫人はそれに出席したさうである。
『斯んなしろものをひツかけるとお金になりさうだ』
斯う目星をつけたのは、その場に居合せた本所の女行者の某であつたが、その時は単にそのままに済んで了ひ、知らず識らずの中に長いが歳月が経過したが、今年の春、夫人は人には余り漏らされぬ病気に罹り、人から聞て偶然右の女行者の許へ祈祷を頼みに行つた。
『占めた! 永い間覘つて居たが、今度漸く目的を達したのはまア嬉しいことだ』
と女行者は思つた。女行者に憑依して居るのは狐の霊である。気のきいた憑霊は常に当人の胸中を察して、其目的を遂げさすべく活動を開始する。かくて其瞬間に夫人に憑依したのが此狐であつた。
鎮魂中夫人の態度用語がいかにも下品で、淪落の魔性の女らしい趣が見えたのは誤り、右の女行者の前身が、田舎まはりの酌婦であつたからで、酌帰じみた様子がそツくり夫人に感染つて居たのである。
『本当に今度は当が外れて了つた』と狐は悄げ切て『このままぢツと憑いて居ても甘い汁を吸へさうもなし、さればと言つてポツツリ五円のお土産で、おめおめと帰つて行くも器量が無さ過ぎるし、什麼して可いか判りアしない……』
『お前も随分目先きが見えな過ぎるぢやないか。斯んな堅気の人から金子を絞らうと思ふなどは、随分見当外れ過ぎるといふものだネ』
『全くさうですよ。わたしも余程ヌケて居ますね』
『お負に此人はモウ大本の信者になりかけて居るからネ。大本の神さんの畏い事は知て居るだらう』
『そりや知らなくツて什麼しませう!』とだらしがないながらも幾分真面目になつて、『艮の金神さまは畏い神さんです。神官さんでも、行者さんでも、但しはお寺の坊さんでも、わたしどもは些つとも畏くはないですが、ただ綾部の神さんに睨まれると、おたまりこぼしがありはしない。本当に彼様なイケ好かない、薄気味のわるい所ツたらありアしない』
『全く悪霊から見ればさうだらう。お気の毒さまだ』と自分は空嘯いて冷笑してやつた。
先刻からの問答にM大佐の夫人は、鎮魂どころでなく、夙うに席を立つて、室の隅の方へ行つて、薄気味悪さうに傍聴して居た。