大正五年の九月から十一月末日迄の三月の出勤、世の中に何が苦しいと言うて、この三箇月間の出勤の苦痛に比ぶれば到底比べものにならぬとまで感じられた。肉体は三浦半島に残つて居るが、霊魂は常に丹波の空に飛び勝ちで、一切の興味が自分の職務から脱けて了つた。朝起きると直に考へる。
『今日も洋服を着て、そして教場へ出て英語の教科書を講釈し、英語の手紙を教へねばならぬか』と思つた丈けでウンザリして気が滅入つた。
『しかしこれも職務だ。足掛十七年の仕事の後始末をつけるのだ。三箇月の辛抱だ。厭でも厭でなくても、尽す丈けの義務は尽さればならぬ。』
自己の心に鞭を加へつつ、我慢して一日も欠かさず出勤したが、其三箇月の長かつたこと、殆ど前の十七年よりも長いかと感ぜらるる程であつた。いかに努力しても、元の如く喫煙室に陣取つて、同僚諸氏と食後の浮世話に耽るなどの余裕は全く亡せて了つた。同僚の大部は皆霊魂だの、神霊だのといふ事に興味あるものはなく、又五年も先きの世の立替などを心配するよりは、次の日曜を如何に面白く暮すべきかを心配して居る呑気な眼前主義の人が多かつた。従来自分も其の仲間、寧ろ其チャンピオンであつたのに、変れば変るものだと、自分で自分が可笑しくもあつた。
閑さへあれば自分はただ霊学上の疑問を解かうと試みたり、又大正五年、十年頃の前途のことを想像したりして考へ込んで居た。又随分何糞ツといふ負じ魂もムラムラと腹の底から湧いて出た。
『今こそ誰も自分を相手にする者がないが、まア見て居れ。自分の執りつつある態度方針は万が一にも間違つては居らぬ。神はあるからあるのだ。世人の想像するやうに決して主観的産物ではない。立派な客観的実在だ。
『従来の宗教家だの、哲学者だのといふものは、何といふ下らぬ杓子定規を振りまはして、独りよがりの憶説を唱へて居たものだらう。一神論だの、多神論だの、汎神論だのと、勝手放題に自分の畠を決めて、無理に一切を自分の畠に入れて了はうとする。莫迦々々しい話だ。全一大祖神である所の宇宙の内部に陰陽二元の剖判も起らず、混沌として無活動の状態にあつては、無論神は一柱しかおりはせぬ。一神論は嘘ではない。しかし乍ら、既に二元の剖判が起り、宇宙の内部に活動が始まつた結果は日月星辰其他万有の発声となる。万有は宇宙の細胞ではないか。根元の宇宙が活神である以上、其細胞も無論活神であらねばならぬ。この意義に於ては多神論といふのも嘘ではない。一神論と多神論とは両立するものであるのに、それを一方だけが真理であるやうに思ふ奴どもは余程ドウかして居る。
『それに何の人間も何の人間も、自己の感覚を標準としたがるとは、何といふ幼稚なことだらう。肉眼に見えぬから無いと思ふなどは、苟くも学者と名のつくもののやるべき事ではない。肉眼などはホンの安物の眼鏡のやうなものだ。望遠鏡や顕微鏡を借りてさへ、無と思つたものが有となる。まして霊的修業練磨の結果は、人間の肉の五感の外に、別に霊の五感が新に加はつて来る。五感と五感と総計十感となる。自分はまだ十感は無いがそれでも人の霊魂だの、竜体の活神だのの存在を体験して居る。何も判らぬ大馬鹿者が衆を依んで何と言はうが、結局は自分が勝つに決つて居る。
『今日こそ世間一般の人達は、この先き什うなるも知らず、膠州湾、輸出額が殖えて金が儲かるのと、有頂天になつて騒いで居るが、今後三年と経ち五年と経つた時に泣面をして依みに来ぬことだ。大本神諭の警告には決して間違ひがない。それはモウ自分が心血を濺いで調査した所で明かだ。一枚も神諭を読みもせぬくせに、嘘だの本当だのといふ資格が何処にあつてたまるものか。』
『今の世界の人類の堕落腐敗はモウ極端になつて居る。口頭だけ立派なことをぬかして、まるで野獣の振舞ひをし、その癖自分の事を、全然棚に上げておき、神から改心せねば罰すると言はれると、大本教の神は威嚇的だから邪神だなどとヘラズ口を叩く。大本神諭の根本的大立替が来て、何も彼もたたきつぶし、善と悪との選り別けをせぬことには、斯んな腐つた世の中が什うなるものか。』
『ああいやだいやだ、教師生活などは一時も早く切りあげて、早く綾部へ行つて修行をして、そして早く世界の人類に警告を与へて改心の手がかりをつけてやりたい……』
自分は出勤中でも、すこしの余暇を見つけては、斯んな考へにのみ耽つて居るのであつた。