K海軍機関大佐は立派な体格の持主であり、又呑気な頭脳の所有者である。食つて、飲んで、寝て、起て、家庭の善良な主人公として、又公務の忠実な奉公人として、神だの霊だのには一生涯触れずに日を暮すべき人柄であらうと誰しも考へるのであるが、此人が明照教の信者であるから世の中は不思議である。一体海軍部内には妙に日蓮を担いで見たり、明照教に走つて見たりしたがる連中がある。よくよく事情を査べて見ると、主に平生の無邪気と無頓着とが然らしむるので、上陸中の暇つぶしに、球突きをやり、料理屋へ通ふのと同一動機で、誰かの口から風評でも聴くと、
『面白い、行つて見よう』
位のお手軽主義で早速出蒐けるのが通例である。従つて入るのも迅いが、離れるのも又迅い。畏ろしく諦めが善い。姉崎君などは、此等の連中を捕へて迷信遍歴者だなどと悪口する。一面に於て全く無理もない。尤も此等の人々が迷信遍歴者なら、姉崎博士などは宗教仲買人といふ所かも知れない。即かず離れず、可い加減の効果を並べ、御自身一つも懐を痛めずにしこたま口銭をせしめる……。
ある晩K君がヒヨツクリ尋ねて来た。大本教の話を聞きに来たといふ。自分は同君の平生を知つて居るから、格別熱誠を以て説明する気にもなれず、軽くあしらつて居ると、やがて鎮魂を一遍やつて呉れといふ。
『やりませう。まア坐つて御覧なさい』
坐つて五分と経たぬ中に憑依物が発動した。自分の審神では立派に野狐だ。ウンと一つ睨みつけて、霊の縄で縛つてやると、苦しがつて、唸りつづけに唸りながら前へのめつた。
何々教とか、何々大師とか、看板だけは立派だが、一度照魔鏡にかけてやると、大概其内容は台なしで、狐か、狸か、天狗位のものが人間の肉眼をくらまして嘘八百を並べて居るのが百中の九十九以上を占める。かかる迷信の弊害は実に大きいが、しかし科学者などが霊魂を無視しつつ、実は自分自身の肉体に悪霊が巣をくつて居るのを御存じないのも、余り褒められたことでない。
自分は三十分間ほどK大佐の憑霊を縛つたまま散々苛めた上で『許す!』と言つてやると、同氏は充血した赭顔を擡げた。
『いかがでした? 些し苦しかつたでせう』
『ナニ格別苦しくもなかつたですが、ただ、私の脇の下の所で、モジヤモジヤした柔かい毛がさはりました。一体あれは何でせう?』
『狐ですよ。肉体のある狐がついて居るのです。魔性のものだから姿は見えませんが、貴下の懐中か袂の中を捜して御覧なさい。必然脱けた狐の毛が付いて居ますから……』
袂を捜して見ると果してその通りであつた。これには呑気者の大佐も幾分厭な顔をして、ソコソコ辞し去つたが、それきり自分の所に寄り付かないから、其後の事は知らない。多分まだその野狐と御同棲中ではないかと思はれる。
I少将は温厚篤実を以て部内に重んぜられて居る人だが、信仰上からは矢張り迷信遍歴者中のチヤキチヤキで、何でも囓り、何でも行つて見る。日蓮宗も結構、法運術も賛成、大本も面白いが、明照教も悪くはないといふ具合で、中心もなければ統一もない。一視同仁、無差別混淆、毛頭毛嫌ひをせぬ点はその特長だが、同時に依りない事も亦夥しい。この人が亦よく自分に鎮魂を求めに来た。
一二回やつて居る中に訳なく発動して、言葉を切り出した。
『何誰です、御名を伺ひます』
自分が質問すると、しばらく躊躇して居たが、両三度促されて終に名乗り出した。
『乃……乃木大将だ』
之をきいた時自分は殆んど吹き出すほど可笑かつた。自分にはこの人に憑いて居るのが野狐であることが、最初から判つて居る。『戯談ぢやない、ノギさんではなくノギツネさんの癖に』と思つたが、さあらぬ体にて、しばらくからかつた。
『乃木大将には什麼して此肉体にお憑りなされたのです?』
『平生I少将は私を崇拝する感心な男ぢやから時々守護してやる……』
ノギさん中々甘いことを言ひ居ると自分は思つた。実際I少将は乃木大将の崇拝者で、石版刷の大将の軸物などを壁間にかけ、書斎の本箱には大将に関するあらゆる書物を取揃へてある。憑依物を看破する事の出来ぬ心理学者などが、かかる場合に潜在意識の発動だなどとコヂつけるのである。少将自身に乃木崇拝といふ潜在観念があることは事実だ。しかし其観念を利用するのは、憑依して居る狐の所業であるのだ。
『乃木大将にお尋ねしますが』を自分は態ととぼけて、『お幾歳の時にお亡なりでしたか』
『さうね』と小首を傾けて、『多分六十一ぢやつたと思ふが……』
『夫人は?』
『あれは多分四十七歳位ぢやつた』
『四十七歳? 確にさうですか』と畳みかけるとノギさんが大分惶てて、
『イヤイヤ五十三ぢやつたかナ……。イヤ五十七かも知れん……』と早くもしどろもどろだ。