一方に於て出勤のつらさはあつたが、他方に於ては、これしきの苦痛を償うて余りある、愉快と満足とが与へられて居た。それは自宅へかへると、大本の共鳴者が自分の周囲に集まりつつあることであつた。何うも苦楽は常に相伴ふもので、苦は楽の種、楽は苦の種、一方が大きい丈けそれだけ他方も亦大きく、形と影と相伴ふが如く、表と裏と引き離すことの出来ぬが如きものであるらしい。
午後三時退庁の時刻を待つて、自分は単身で役所を引揚て来る。白浜から山王町に抜けて、諏訪神社の傍の坂路伝ひに忠魂祠堂の山道にかかる。この十幾年間殆ど毎日通ひ慣れた山道も、いよいよ近くお別れかと思ふと、何となく懐かしみが湧いて来て、幾度か筇をとどめて、新なる気分で四辺の風光を見まはすのであつた。頂き近くコンモリと樹木の茂つた武山、なだらかに群丘の上に聳ゆる大楠山、海を越えて薄くかすめる鋸山、覚えず凝乎と四五分間も見つめたまま、立ち去りあへぬ事もあつた。
帰つて洋服を脱ぎすてて、幾らかゆツたりした気分になつて、書斎に坐る間もなく、大抵誰かが尋ねて来る。話の題目はきまり切つて神様の事、教祖の事、霊魂の事、立替立直しの事等で、そして最後は必ず鎮魂の実修をやる。晩餐後が又その通り、殆ど一と晩としてこの種の来訪者なしに済むといふ事がなかつた。
来訪者の種類は土地の関係上、何うしても海軍将校及び其家族が多かつた。男も来れば又屢々女も来る。三箇月間に鎮魂した人数は、五十人か百人位には上つたらうと思ふ。一々記憶に残つて居らぬが、しかし印象の深かつたもの丈はドウしても忘れられない。自分はこれから其中の参考になるやうな所を選り出して紹介するとせう。但し今尚現役で奉職中の人に迷惑をかけてはならぬから、絶対必要のない限りは、頭字一字だけ掲げて置くことにする。
K少将の鎮魂状態は余程変挺であつた。身体が先づグニャグニャになる。飴が流れ出したといふ恰好である。到底これが軍服いかめしく、金鵄勲章功四級をブラさげて潤歩する少将閣下とは受取れない。試みにこの憑霊に向つて名告らせようとすると、腹一ぱい口を明け放しにして叫ぶので、さつぱり呂律がまはらない。それでは可かん。舌を使へと憑霊に教へると、三寸も長く延ばして見たり、捲いて上顎にヒツつけて見たり、頬辺に向つてスーツと突き立てて見たり、極端な舌の曲芸を演ずるばかりで、只レロレロベロベロ雑音を発するにとどまる。雑音を発するのはかまはぬが、ただいかにも其面貌が珍妙無比で、時にはヒヨツトコの笑ふが如く、時にはビリケンの嚏せるが如く、とても真面目に見て居れない。覚えずブツと審神者が噴き出して了ふ。
無論憑いて居るのは低級の副守護神で、K少将の肉体を巣窟とし、或る程度まで之を病気にするのが目的である。病気にして置くので滋養物が食へる。K少将の口を借りて副さんが食ふのである。実際海軍部内でもK少将の持病は念入りなので有名であつた。胃も悪く、腸も悪く、脱腸で、痔疾で、糖尿病で、その外にも病名が二つ三つつけられて居たと思ふ。始終何所かに故障があるが、さりとて職務に差支を生ずる程ではない。現に今でも枢要の地位に奉職して居る。自分は出来る丈この悪霊を退治してやらうと思つて、散々苛めてやつたが、既に二十年来の痼疾で、悪霊と肉体とシツクリ抱合つて居るので、とても一気呵成に駆除する事は出来なかつた。無理に退去を命ずると、直腸辺に非常な疼痛を起して、流石の少将も悲鳴を揚げる。とても辛抱しきれないさうであつた。その後数年間少将と会はぬが、今に勤務中なところを見ると、悪霊は余程屏息して居ると見える。
滑稽なのはM機関中佐の夫人であつた。鎮魂の姿勢を取りて坐ること五分とたたぬに、肚の底からキアツキアツと笑ひ出す奴がある。何か審神者から質問して見ても、馬鹿笑ひをやる丈けで返事をせぬ。ウフフフアハハハと転がつたり、反りかへつたり、のめつたりして唯笑ひに笑ふ。髪も壊れ、衣紋も乱れ、膝もあらはになる迄、姿勢を紊して笑つてのけるといふ、大々的笑ひ上戸であつた。
仕方がないから、自分も善い加減にして鎮魂を終ると、夫人は忽ちケロリとして元の上品な態度に復して、いかにも気まりの悪さうに、
『わたし何うしませう。失礼だと思つて一所懸命笑ふまいとしたのですけれど、お肚の方から笑つて笑つて笑つて、とても制へられませんでした……』
自分はその後何回もかかる実例に出会したが、その時は初めての事でいささか戸惑ひをした。斯んなのは大抵不真面目な、イタヅラ好きの狸の霊などが多い。