霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(八)

インフォメーション
題名:(八) 著者:浅野和三郎
ページ:266
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142400c73
 ()んなことをして居る(うち)に、真剣な信者がポツポツ現れて来た。兄の子の(はるか)は中学の三年生であつたが、其単純な頭脳に神恩神徳が深刻にしみ込んだものと見え、たうとう退学して綾部に行き、一生を神様の為めに捧げたいと言ひ出した。最初は親も子供の出来心と思ひ、説諭位で抑へつけるつもりであつたが、案外真面目で、両親の威光を以てしても、如何(いかん)ともするに(よし)なきことが発見された。たうとう退学して綾部へ引越して了つたのは大正五年の十一月であつた。恋の道でさへも親の力にも教師の力にも及ばぬところがある。()して信仰の問題となると、一旦燃え()でては天下何物も之を抑へる力がないやうだ。(しん)信仰と迷信との境は至微(しび)至妙(しめう)真智(しんち)の光りに(てら)さねば、到底之を識別し得る限りでない。迷信は(あく)までで撲滅すべく、又撲滅し得るものだが、之に反して立脚地を宇宙人生の奥に有する(しん)信仰に、あらゆる業務、あらゆる行動の骨子(こつし)であり、生命であり、何物を以てしても之を撲滅することなどの出来るものではない。眼前(がんぜん)狡智(かうち)才覚(さいかく)、利己的の判断打算から大本撲滅などと呼号するものが今(なほ)其あとを絶たぬが、世にもこれほど滑稽なことはない。大本の(をしへ)千万世(せんばんせい)を通じてかはることなき天理人道そのものである。吾々大本信者の所謂(いはゆる)霊主体従の法則が即ちそれであるのだが、勿論これは大本の新発明でも何でもない。洋の東西を問はず、時の古今を論ぜず、至聖大賢(だいけん)大徳(だいとく)高士(かうし)の言ふ所、行ふところを詮じ詰むれば、結局霊主体従の一語に尽きる。皇典でも、バイブルでも、仏典でも、四書(ししよ)でも、老子でも、但しは大本神諭でも、皆其()(いつ)にする。理化学、天文学、医学、自然科学、政治学、文学、美術、其他一切のものも、余局(この)天地の大法則に(かな)へる時に、(しん)の生命を()(しん)の光輝を発する、霊主体従が宇宙の大精神であるのだから、万有一切の小精神も当然霊主体従であらねばならぬのである。
 此宇宙の大原則の正反対は、言ふまでもなく体主霊従である。之を近頃世の中で流行の言葉に換へて言へば、利己主義であり、個人主義であり、自然主義であり、拝金主義であり、唯物主義であり、享楽主義であり、功利主義である。これ()の天則違反的異端邪説が、従来存在を許されて居たと云ふのは、天地間が未完成であつたことを語るものである。大本神諭の所謂(いはゆる)立替立直しは、此不完全なる現状の打破と、現状打破後の大整理を意味するもので、無論人間界のみの小改造ではなく、天地間一切の大改造である。霊主体従の大法則に従ふものは存在を許され、然らざるものは滅亡を免れぬといふのは、(まこと)に当然の話で、それが出来(あが)つた(あかつき)に、天地間は初めて秩序整頓の域に向つて突入する訳である。バイブルの最後の大審判といふのは、詰まり大本神諭の立替である。霊主体従の大原則を励行(れいかう)し、人畜動植その他顕幽一切のものの大淘汰を執行する所以である。基督の再臨も之に密接の関係があり、仏説の弥勒出現もほぼ同一事(どういつじ)を指して居る。現在全世界に鳴り渡る改造の声は、つまり世界の現状に対する全人類の不満と不安を語る。このままで居れば、結局人類は滅びて了ふといふ、大自覚から発して居る、衷心(ちうしん)の叫びであるから、こればかりは兵力でも、法律でも、その他の何物を以てしても抑へられるものでない。親もその()を威圧するに(よし)なく、地主もその小作人を制御する力はない。
 が、世界の人類は(なほ)改造の根本義に迷うて居る。共産主義や、無政府主義のやうな魔道の捕虜となつたり、国際連盟や、選挙法の改正のやうな形式の奴隷となつたりして居る。それでは決して(しん)の改造は望まれない。世界の人類が皇道大本の所謂(いはゆる)霊主体従の宇宙の大原則に眼覚め、あらゆる情実、あらゆる執着、あらゆる誘惑、あらゆる因習に打勝(うちか)ちて、光風(くわうふう)霽月(せいげつ)天空(てんくう)海濶(かいくわつ)の行動に()づる時、初めて意義ある改造の(じつ)は挙げられる。それに気がつかぬ間はドウセ世界は(おほい)にもめる。彼様(ああ)でもない、斯様(かう)でもない、()つた、揉んだ、損だ、得だ、どさくさ、がちやがちゃ、生きる、死ぬる、(おこ)る、亡びる、()く、離れる……。大本神諭にあるとほり、天地開闢以来の最も苦しい、最もはげしい大峠が近き将来に現出せずには済まぬであらう。
 横須賀に於ける真剣な信者の一人としては、次ぎに成川(なりかは)女史を挙げねばならぬ。女史が初めて自分の(もと)を訪れたのは大正五年の四五月頃であつたらう。古き海軍将校の夫人として、又旅館三浦屋(みうらや)の女将として、()なり波瀾に富める閲歴(えつれき)の人であり、幾多信仰上の曲折をも経たやうだが、最後に大本に帰着した。二度三度丹波に往来して居る(うち)に、次第々々に信仰の熱度が加はり、その思想(ならび)に生活の上に大変化を(きた)し、いつしか布教を中心として奔走するやうになつた。横須賀に大本の(をしへ)の基礎が据ゑられたのは、女史の奔走が(おほい)(あづか)つて(ちから)があつた。その(のち)(いへ)を挙げて舞鶴に移り、鳥取松江東京岐阜(とう)にもしばしば往来して、寝食を忘れて常にこの道の為めに尽し、近頃は九州方面に活動して居る。兎に角横須賀に於ける大本の扶殖(ふしよく)を語るに当りては忘れてならぬ草創(くさわけ)の一人である。
 (ほか)にもまだ語るべき人がないでもないが、しばらくこの辺で筆を(さしお)き、これから簡単に横須賀引払(ひきはら)ひ前後の物語に移るとせう。
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