霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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霊の礎(一)

インフォメーション
題名:霊の礎 著者:出口王仁三郎
ページ:
概要: 備考: タグ: データ凡例:共通凡例S データ最終更新日:2025-10-17 22:22:22 OBC :B163100c01
 霊界には神界(しんかい)中界(ちゅうかい)幽界(ゆうかい)の三大境域がある。
 神界は神道家の(とな)うる高天原(たかあまはら)であり、仏者(ぶっしゃ)の言う極楽浄土であり、また耶蘇(やそ)キリストの言う天国である。
 中界(ちゅうかい)は神道家の唱うる(あめ)八衢(やちまた)であり、仏者の言う六道(ろくだう)(つじ)であり、キリストの言う精霊界である。
 幽界は神道家の唱うる()(くに)(そこ)(くに)であり、仏者の言う八万地獄であり、またキリストの言う地獄である。
 ゆえに天の八衢は高天原にもあらず、また根底(ねそこ)の国にもあらず、両界の中間に介在する中ほどの位地にして、即ち情態(じょうたい)である。
 人の死後、直ちに到るべき境域にして、いわゆる中有(ちゅうう)である。
 中有に()ることやや久しき後、現界(げんかい)にありし時の行為の正邪により、あるいは高天原に昇り、あるいは根底の国へ落ち行くものである。
 人霊(じんれい)中有の情態(天の八衢)におる時は、天界にもあらずまた地獄にもあらず。仏者のいわゆる六道の辻または三途(しょうず)の川辺に立ちているものである。
 人間における高天原の情態とは、(しん)と善と美の(あい)和合せし時であり、根底(ねそこ)の国の情態とは、邪悪と虚偽とが人間にありて合致せる時を言うのである。
 人の霊魂中に在るところの真と善と美と和合する時は、その人は直ちに天国に昇り、人の霊魂中に在る邪悪と虚偽と合致したる時は、その人はたちまち地獄に()つるものである。
 かくの如きは(あめ)八衢(やちまた)に在る時において行わるるものである。
 天の八衢(中有界(ちゅううかい))に在る人霊(じんれい)は、すこぶる多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であって、ここにて先ず霊魂を試験され準備さるるのである。
 人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない。直ちに高天原へ上るのもあり、直ちに地獄に落ちるのもある。極善、極真は直ちに高天原に上り、極邪、極悪は直ちに根底の国へ墜落してしまうのである。
 あるいは八衢に数日または数週日、数年間おるものである。
 されどここに三十年以上おるものは無い。かくの如く時限において相違があるのは、人間の内外分(ないがいぶん)の間に相応(そうおう)あると、あらざるとによるからである。
 人間の死するや、神は直ちにその霊魂の正邪を審判し給う。ゆえに悪しきものの地獄界における(しゅう)団体に(おもむ)くは、その人間の世にある時、その(しゅ)とする所の愛なるものが地獄界に所属していたからである。
 また()き人の高天原(たかあまはら)における善美の団体に赴くのも、その人の世に在りし時のその愛、その善、その(しん)は、まさに天国の団体にすでに加入していたからである。
 天界・地獄の区画はかくの如く判然たりといえども、肉体の生涯に在りし時において朋友となり知己となりしものや、特に夫婦、兄弟、姉妹となりしものは、神の許可を得て天の八衢において会談することが出来るものである。
 生前の朋友、知己、夫婦、兄弟、姉妹といえども、一旦この八衢(やちまた)において別れたる時は、高天原においても根底の国においても再び(あい)見る事は出来ない。また相()る事もない。
 ただし同一の信仰、同一の愛、同一の性情におったものは天国において再び(あい)()(あい)()ることができるのである。
 人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だって、何人(なにびと)も経過すべき状態が三途(さんと)ある。
 そして第一は外分(がいぶん)の状態、第二は内分(ないぶん)の状態、第三(だいさん)は準備の状態である。
 この状態を経過する境域は天の八衢(中有界)である。
 しかるにこの順序を待たず直ちに高天原に上り、根底の国へ落つるものもあるのは前に述べた通りである。
 直ちに高天原に上りまたは導かるるものは、その人間が現界に在る時、神を知り、神を信じ善道を()み行い、その霊魂は神に復活して高天原へ上る準備が早くも出来ていたからである。
 また善を表に標榜して内心悪を包蔵する者、即ち自己の凶悪を装い、人を(あざむ)くために善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかった者は、直ちに地獄に墜落し無限の永苦を受くる事になるのである。
 死後、高天原に安住せむとして霊的生涯を送るということは、非常に難事と信ずるものがある。
 世を捨て、その身肉(しんにく)に属せるいわゆる情欲なるものを一切脱離せなくてはならないからだと言う人がある。
 かくの如き考えの人は、主として富貴(ふうき)よりなれる世間的事物を(しりぞ)け、神、(ほとけ)、救い、永遠の生命ということに関して、絶えず敬虔な想念を凝らし、祈願を励み、教典を読誦(どくじゅ)して功徳(くどく)を積み、世を捨て肉を離れて霊に住めるものと思っておるのである。
 しかるに天国はかくの如くにして(のぼ)()るものではない。世を捨て霊に住み肉を離れようと努むる者は、かえって一種悲哀の生涯を修得し高天原の歓楽を摂受(せつじゅ)する事は到底できるものではない。
 何ンとなれば人は各自の生涯が死後にもなお留存するものなるが故である。
 高天原に上りて歓楽の生涯を永遠に受けんと思わば、現世において世間的の業務を採りその職掌を尽し、道徳的・民文的生涯を送り、かくして後、始めて霊的生涯を受けねばならぬのである。これを(ほか)にしては霊的生涯をなし、その心霊をして高天原に上るの準備を完うし得べき(みち)は無いのである。
 内的生涯を清く送ると同時に、外的生涯を営まない者は砂上の楼閣(ろうかく)の如きものである。あるいは次第に陥没し、あるいは壁落ち床破れ崩壊し(てん)(ぷく)する如きものである。
 アヽ惟神(かんながら)(たま)幸倍(ちはえ)坐世(ませ)
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