霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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霊の礎(五)

インフォメーション
題名:霊の礎 著者:出口王仁三郎
ページ:
概要: 備考: タグ: データ凡例:共通凡例S データ最終更新日:2025-10-17 22:22:22 OBC :B163100c05
一、高天原(たかあまはら)に復活したる人間の霊身(れいしん)は、地上現実界に生存せし時の如く、思想・感情・意識等を有して楽しく神の(ふところ)(いだ)かれ、種々の積極的神業(しんぎょう)を営むことを得るは、前に述べた通りである。
 さて人間はどうして現界に人の肉体を保ちて生まれ来るかという問題に至っては、いかなる賢哲も的確な解決を与えていない。
 しかしこれは実に止むを得ない所である。物質的要素を(もっ)()ね固められたる人間として、無限絶対なる精霊界の消息を解釈せんとするのは、あたかも木に()りて(うお)を求め、海底に潜みて焚火(たきび)(だん)を得んとするようなものである。
 ゆえに現界人は死後の生涯や霊界の真相を探らんとして、何ほど奮勉努力した所で到底不可能不成功に終わるのは、むしろ当然である。
 一度神界の特別の許可を得たる者が、無数の霊界を探り来たり、これを現界へその一部分を伝えたものでなくては、到底今日の学者の所説は臆測に過ぎないことになってしまう。

一、そもそも高天原の天国に住む天人、即ち人間の昇天せし霊身人(れいしんじん)は、地上と同様に夫婦の情交を行い、ついに霊の子を産んでこれを地上にある肉体人の(いき)に交えて人間を産ましめるものである。
 ゆえに人は神の子、神の宮と言うのである。
 地上はすべて天国の移写(いしゃ)であるから、天国において天人夫婦が情交を行い、霊子(れいし)を地上に()き落とす時は、その因縁の深き地上の男女はたちまち霊に感じ情交をなし胎児を宿すことになる。
 その胎児は即ち天人の蒔いた霊の子の宿ったものである。
 その()の善に発達したり悪に落つるのもまた、その蒔かれた田畑の良否によって幾分かの影響をその児が受けるのは止むを得ない。
 智愚(ちぐ)正邪の区別のつくのも止むを得ない。
 石の上に蒔かれた種子(たね)は決して生えない。また瘠土(せきど)に蒔かれた種子(たね)は肥沃の地に蒔かれた種子に比すれば大変な相違があるものだ。
 これを思えば人間は造次にも(てん)(ぱい)にも、正しき清き温かき優しき(うる)わしき心を持ち、最善の行いを励まねばならぬ。
 折角の天よりの種子(たね)を発育不良に陥らしめ、あるいは不発生に終わらしむるようなことになっては、(ひと)()みの神業を完全に遂行することはできなくなって、宇宙の大損害を招くに至るものである。
 人間が現界へ生まれて来る目的は、天国を無限に開くべく天よりその霊体の養成所として(くだ)されたものである。決して数十年の短き肉的生活を営むためではない。
 要するに人の肉体と共にその霊子が発達して天国の神業を奉仕するためである。天国に住む天人は是非とも一度人間の肉体内に()りてその霊子を完全に発育せしめ、現人(げんじん)同様の霊体を造り上げ、地上の世界において善徳を積ませ、完全なる霊体として天上に(かえ)らしめんがためである。
 ゆえに現界人の肉体は天人養成の(なわ)(しろ)であり学校であることを悟るべきである。

一、胎児は母体の暗黒な胞衣(えな)の中で平和な生活を続け、十ヶ月の後には母体を離れて現界へ生まれ喜怒哀楽のために生存するものだということは知らないが、しかし生まるべき時が()つればやはり生まれなくてはならぬ如く、人間もまた天国へ復活すべき時が()つれば、いかなる方法にても死という一つの関門を越えて霊界に復活せなくてはならぬのである。
 胎児は月()ちて胞衣(えな)という一つの死骸を遺して生まるる如く人間もまた肉体という死骸を遺して霊界へ復活、即ち生まるるのである。
 ゆえに神の方から見れば生き通しであって、死という事は皆無である。ただただ形骸を自己の霊魂が分離した時の状態を死と称するのみで、要するに天人と生まれし時の胞衣(えな)と見ればよいのである。
 胎児の生まるる時の苦しみある如く、自己の本体が肉体から分離する時にもやはり相当の苦しみはあるものである。しかしその間は極めて短いものである。
 以上は天国へ復活する人の死の状態である。
 根底(ねそこ)の国へ落ちて行く人間の霊魂は非常な苦しみを受けるもので、ちょうど人間の難産のようなもので、産児の苦痛以上である。
 中には死産と言って、死んで生まれる胎児のように、最早浮かぶ瀬が無い無限苦の地獄へ落とされてしまうのである。
 ゆえに人間は未来の世界のある事が判らねば(しん)の道義を行うことができぬものである。
 神幽現(しんゆうげん)三界(さんかい)を通じて、善悪正邪勤怠の応報が厳然としてあるものということを覚らねば人生の本分はどうしても尽されないものである。

一、天国に住める天人は地上を去って天国へ昇り来たるべき人間を非常に歓迎し、種々の音楽などを奏して待っているものである。
 ゆえに天国を吾人は称して、霊魂(みたま)の故郷と言うのである。
 真神(しんしん)即ち(しゅ)なる神は、人間の地上において()く発達し完全なる天人となって天国へ昇り来たり、天国の住民となって霊的神業に参加する事を非常に(よろこ)び玉うのである。
 天国の天人もまた人間が完全な霊体となって天国へ昇り来たり天人の仲間になることを大変に歓迎するものである。
 たとえばここに養魚家があって、大池(だいち)(こい)()を一万尾放養し、その鯉児(りじ)が一尾も残らず生育してくれるのを待って歓び楽しんでいるようなものである。
 せっかく一万尾も放養しておいた鯉が一定の年月を経て調べてみると、その鯉の発育悪しく満足に発育を遂げたものが百分一に減じ、その他は残らず死滅したり、悪人に捕獲されて養主(ようしゅ)の手に返らないとしたら、その養主の失望落胆は思いやらるるであろう。
 しかし(こい)の養主はただ物質的の収益を計るためであるが、神様の愛の欲望は到底物質的の欲望に比ぶることはできない。
 ゆえに人間はどこまでも神を信じ神を愛し善の行為を励み、その霊魂なる本体をして完全なる発達を遂げしめ、天津神(あまつかみ)()(もと)へ神の(おお)()(たから)として(かえ)()るように努力せなくては、人生の本分を全うすることができないのみならず、神の最も忌みたまう根底の国へ自ら落ち行かねばならぬようになってしまうのである。
 アヽ惟神(かんながら)(たま)幸倍(ちはえ)坐世(ませ)

大正十一年十二月
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