霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第八章

インフォメーション
題名:第八章 著者:出口王仁三郎
ページ:98
概要:
  • 幽の幽 天之御中主大神 別天神 幽の顕 天照大神、素盞嗚命他の大神 顕の幽 大己貴命等 顕の顕 皇孫命
  • 一霊四魂の説明
  • 人は神の子 人間の使命
  • 名位寿福の四欲は神賦の正欲である。
  • 十字架の贖罪はエス其人の罪の贖いでありて、世界の罪人の罪を贖うというのは詐言である。また、「エスのみが天の独り子である」と云うのも不真理である。地球の万民は、皆天父の愛児である。天の民を視玉うや、一般である。即ち一視同仁である。 天の民を降し玉うや、各種各般であるが、天の民を視玉うや、一般である。故に人類の体に貴賎は無いのである。しかして、貴賎のあるのは、人の所命である。エス一人に限り、「神の一人子である、尊き方である」と云うのは不真理である。神はそれぞれの守神を造り玉うて、社会を進歩に向わせたまえば、何ぞエス一人を、神の子として特待したまう道理はないのである。
備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2016-11-22 05:08:45 文字数:3363 OBC :B195301c14
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]:写本(成瀬勝勇筆、大正14年12月、大本本部所蔵)
   明治三十七年一月二十日
 幽の幽に在(あ)ります神は、天之御中主大神、及び別(こと)天(あまつ)神(かみ)である。
 幽の顕に在ります神は、天照大神、素(す)盞(さの)嗚(おの)命(みこと)等の大神である。
 顕の幽に在ります神は、大(おお)己(な)貴(むちの)命(みこと)等である。
 顕の顕に在ります神は、皇(すめ)孫(みまの)命(みこと)である。
 神道の大意を知らんとするものは、右の区分をよろしく了得しおかねば、神理を学ぶに当たって迷う事あれば、特に記載したる次第である。
 四(し)魂(こん)は、荒(あら)魂(みたま)と和(にぎ)魂(みたま)と奇(くし)魂(みたま)と幸(さち)魂(みたま)とをいうのである。しかして荒魂にも直(なお)霊(ひ)なるものの守りがあり、和魂にも直霊の守りがある。奇魂にも幸魂にも直霊がある。
 直霊なるものは、神典にいわゆる神(かん)直(なお)日(ひ)大(おお)直(なお)日(ひの)神(かみ)である。「省(かえりみる)」という心情は、すなわち神直日・大直日の働きである。
 「霊」はヒと訓ず。故に霊は日である。往昔より、聖賢を日(ひ)知(じり)と唱えて、また「聖」の字をヒジリと訓ずるのは、霊の霊なる大義を知了して居ると云う意味なのである。ヒは総て魂(みたま)のことを別称したものである。「喜ばしひ、悲しひ、楽しひ」等のヒはみな、霊のヒである。このヒは大別すると九十六ヒとなるので、大精神の分派であるからこれを小精神と称えるのである。
 「省(かえりみ)る」という念慮は、すなわち直霊の至精至微なる働きの出づる基である。四魂みな、この「省る」という情念が含まれて居て、至善至美なる霊性を発揮するのである。
 直霊は善々美々なるもので、各魂の至精至微なるを取って名づけたる名称であって、精神の良知良能に酷似したるものである。
 ……(一行脱落)……過ちを改むるもので義である。しかして直(なお)霊(ひ)なるものは、過ちを未だ発生せざる以前において消失せしむるものである。
 各魂各々用いて、しかして直なるものはその中にあるので、これがすなわち直霊である。直霊なるものは、時に非(あらざ)るものである。
 荒(あら)魂(みたま)は神の勇、和(にぎ)魂は神の親、奇(くし)魂は神の智、幸(さち)魂は神の愛であって、すなわちいわゆる霊魂である。しかして直霊なるものこれを主宰するのである。現時の国学者輩は俗学者ばかりであるから、この真理をわきまえ知る者なく、荒、和を以て心の体となし、奇、幸を以て心の用となして居る。直霊の何物たるをしらないのである。実に斯(し)道(どう)のために悲しき次第である。
 四魂いずれにしても、「省(かえりみ)る」と云う良心が出ない時は、至粋至美なる霊魂といえども、たちまち曲(まが)霊(ひ)という汚らわしき霊に変じてしまうのである。
 神典に記載せる枉(まが)津(つ)日(ひの)神(かみ)とは、すなわちこの曲(まが)霊(ひ)の事を指し示されたものである。
 荒魂の働きは「勇」であるが、この魂に「恥(は)じる」という自省がない時は、すなわち曲霊となりて、「争(そう)」と変ずるものである。すなわち勇は直で、争は曲である。
 和魂の働きは「親(しん)」であるが、この魂に「悔(く)いる」という自省がない時は、すなわち曲霊となりて、「悪」と変ずるものである。すなわち親は直で、悪は曲である。
 幸魂の働きは「愛」であるが、この魂に「畏(おそ)る」という自省力がない時は、すなわち曲霊となりて、「逆」と変ずるものである。すなわち愛は直で、逆は曲である。
 奇魂の働きは「智(ち)」であるが、この魂に「覚(さと)る」という自省力がない時は、すなわち曲霊となりて、「狂(きょう)」と変ずるものである。すなわち智は直で、狂は曲である。
 読者をして了解し易からしめんために、左に表を掲げて示さん。
 
 争 恥       荒魂 勇
 悪 悔       和魂 親
    曲霊 省 直霊
 逆 畏       幸魂 愛
 狂 覚       奇魂 智
 
 荒魂は勇(ゆう)の魂である。勇の用は進(しん)である。勇の用は進のみではあらず、果(か)である、奮(ふん)である、勉(べん)である、克(こく)である。
 和魂は親(しん)の魂である。親の用は平(へい)である、交(こう)である、修(しゅう)である、斎(さい)である、治(ち)である。
 幸魂は愛(あい)の魂である。愛の用は益(えき)である、造(ぞう)である、生(せい)である、化(か)である、育(いく)である。
 奇魂は智(ち)の魂である。智の用は巧(こう)である、感(かん)である、悟(さと)るである、覚(かく)である、察(さつ)である。
 読者に了解し易からしめんために、左の表を掲げて示さん。
 
      奮        修
      勉        斎
 荒魂 勇 進   和魂 親 平
      克        治
      果        交
 
      感        造
      悟        生
 奇魂 智 巧   幸魂 愛 益
      覚        化
      察        育
 
 かくの如く列記してみれば、満天下において大聖人と称(とな)えらるる者といえども、その一魂だも全くすること能わざる者たる事を、知り得らるるのである。ああ、四魂の道難(かた)いかな。
 
   余が人生観
 
      明治三十七年一月二十二日筆
 吾(ご)人(じん)の現世に生を享(う)けて来(きた)る大目的は、社会万般の事物を整理し、世界を完全に進歩発達せしめて、天上に代わり、肉体の続く限り公共のために尽くし、しかして死し、名を万世に伝うる事を得ば足れりと考うるのである。
 また吾人の主人公たる霊魂なるものは、天の命ずる所の業を了(お)えて天国に復帰し得ば、人生最終の大目的を達したるものと云うべきである。
 吾人の生まれ出(いづ)るや、直ちに良心の働きを悪魔のために害せられて、天父の罪を招くに到るは歎ずべきである。神にすがりてその罪を謝するはよろし。されど今迄おかしたる道義的、精神的の罪悪は、謝罪によりて赦(ゆる)さるること得ざるを如何(いかん)せん。ただ天下公共のために善を尽くして、以(もっ)てわが成し来たりし罪悪を贖(あがな)うのにあるのみ。大精神なる真の神は、無悪にして至善至美である。その大精神より造られたる所の人類の始祖なるものも、また無悪であって、しかも至善至美であらねばならぬ。裔(えい)孫(そん)千百中において、たまたま悪罪あるものはことごとくみな自業自得である。決して始祖の遺悪ではないのである。
 神典にいわゆる「改言」は、すなわち改過無悪の意味である。過(あやま)ちが改まれば、言も自然改まるものである。何ぞ碌(ろく)々(ろく)として死後の為(しわざ)を待つに及ばんやである。吾人、もし心に百の罪を犯さば、また心に二百の善を思うべきである。吾人、形の上において百の悪をなしたりしなば、二百の形の上の善を行うべきである。善もなく悪もなき人民は、元の天国に帰ること能(あた)わざらん。されど悪を為(な)して細善なきものに比すれば、やや勝(まさ)れり。
 万物の霊長たる人類は、他動物と異り、社会を完備せしむべき天職を神より受け来(きた)れるものなれば、無為にして一生を安過せしものは、天の使命を遂行したるものに非ず。ゆえに天帝に対して忠実ならざるものであって、世を盗む悪魔である。吾人の身に最も貴きものは、名(めい)と位(い)と寿(じゅ)と富(ふう)とであるが、これを与奪する大権利を有するものは、大霊魂である。故にこの四欲なるものは神(しん)賦(ぷ)の正(せい)欲(よく)である。
 しかるに俗学者輩、みなこの真理を悟らず、自暴自棄し、まさに貴きを外に求めんとして居るが、何ぞそれ、身に貴きものは、この四欲の外に求めて得べけんやである。
 名を後世にまで輝かすは、人生の目的の第一の要素である。しかしてその名は、必ず美を欲すべきである。位地を保つは、人生万業の上において最も必要なる要素である。しかしてその位置は、高きを欲すべきである。寿は人生の柱石であって、万業を為(な)すに最も必要なる基本である。しかして寿は、最も長きを欲すべきである。富は人格を保つ上において第一の要具である。万業の資本である。しかして富は最も大を欲すべきである。
 四欲を与奪するものは大霊魂であるが、大霊魂を発揮するものは、また四欲を全く正しきに行うにあるものである。
 十字架の贖(しょく)罪(ざい)は、エス[※イエス・キリスト]その人の罪の贖(あがな)いでありて、世界の罪人の罪を贖うというのは詐(さ)言(げん)である。また「エスのみが天の独り子である」と云うのも不真理である。地球の万民は、みな天父の愛児である。天の民を視(み)玉うや、一般である。即ち一視同仁である。
 天の民を降し玉うや、各種各般であるが、天の民を視玉うや、一般である。ゆえに人類の体に貴賤は無いのである。しかして貴賤のあるのは、人の所命である。エス一人に限り、「神の一人子である、尊き方である」というのは不真理である。神はそれぞれの守神を造り玉うて、社会を進歩に向わせたまえば、何ぞエス一人を、神の子として特待したまう道理はないのである。
 
      大正四年十二月十六日
   於大本史実課 成(なる)瀬(せ)勝(かつ)勇(お) 謹写
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