霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第九章

インフォメーション
題名:第九章 著者:出口王仁三郎
ページ:105
概要:
  • 富士の眷属の芙蓉坊が「西に行け」と命じた。妻や母が心配するだろうから遺書を残した。
  • 遺書には鬼三郎と署名していた。
  • 園部の内藤宅で修行
  • 鎮魂帰神の方法
備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2024-06-01 17:41:35 OBC :B195301c15
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]写本(成瀬勝勇筆、大正14年12月、大本本部所蔵)
      明治三十七年一月二十三日筆
 予は同様、幽斎を専修して居ると、あるとき富士の(けん)(ぞく)()(よう)(ぼう)、懸かり玉いて教え玉う(よう)は、「汝は今より修業のために西北の方位に向かって旅行すべし。なるべく秘密を要す」と仰せられたので、母にも誰にも告げずに、「西北に向かって出修せん」と決心したのであったが、しかし斎藤にだけは、神意の次第を打ちあけておかねばならないと云う事を感じたのである。
 この旨を斎藤に告げてみた所、「なるほど神の(みことのり)とあれば、僕は敢えて何とも(こば)む事はせないが、しかし君の様子を熟考して居ると、どうも君は神経が余ほど激して居るように思う。『妄信狂に陥りてしまうたか』と、僕は心配でならない」と云うて案じて居る様子であったから、神人感合の道を余は丁寧に説明し、かつ迷信狂や妄信狂の帰神と相違せる点を明細に弁じた所が、斎藤も大いに感服して、「君はいつの間にそれほど勉強をしたのか」なぞと云うて呆然として居るのであった。
 しばらくありて斎藤が言うには、「君、それでも母上や(さい)(くん)位には知らしておかねば、あとで心配をなされるといかぬから、そっと告知しおいてもよろしかろう」と尋ねる。そこで余は、直ちにその言に伏して、神界へ伺ってみると、「どこまでも大秘密にせよ」との神示であって、余が斎藤に知らしたのさえ神慮に(そむ)いてる次第であったのであるから、その(よし)を斎藤に告げて、固く「口外せぬよう」と戒めたのである。
 そこで斎藤は万事呑み込んで、「あとは僕が引き受けるから、安心して修業して来玉え。しかし万一の時に、君の身内に示して安心させる必要がないとも限らないから、何か一筆、証拠になるものを置いてゆきたまえ」と勧めるのである。
 余も神界の修業に出るのであるから、少しも心配は無いが、あとで母や妻や妹が驚愕するであろうと思うて、斎藤に明かした位であるから、直ぐに神界へ願うて、一葉の遺書を(したた)めておく事にしたが、その文意の大要は左記の次第である。
「物質的文明に心酔してる現社会の人民は、強食弱肉を以て天理の如く思考し、無慈悲で殺伐で、利己主義である。悪魔同様である。現社会は黄金国ではない、地獄である。文明ではない。野蛮の頂点に達して、一も二もなく生物を殺して喰う猛獣国である。このままに放任しておいたなれば、この世界は肉食のために破滅を来たさねば止まぬ。この肉食のために偽文明の人民がみな気が強くなり、勢いが激しくなり、()()(りゅう)()ナトリウム。のために、始終肉体は火気を保って、活気は十分あるが、それに引き替え、慈悲心は断滅し、生存競争はますます狂烈になり、その所へ向けて無神論なぞの馬鹿の智識が東漸して、日本民族の日本的精神を変化させて、人民を小利口にし、小理窟を云う者ばかりになって、神国たる事を全然忘却して、愛国を減少し、競うて異邦の道を尊重し、国体の神聖なるを解せずして、奇怪千万なる倫理説に迷うて、宗教なり道徳を疑い、社会の政令(はっ)()を馬鹿にし、(とん)(こう)なる風習を(あざ)けり、大地震が揺らずとも、大戦争が無くとも、大暴風や大火災のためでなくとも、この社会は自然に破滅するようになってゆくから、今のうちにこの大不都合なる社会の風潮を一掃して、精神的文明を鼓吹して、惟神(かんながら)の徳性を拡充し、(もっ)て世界人類のために身心を尽くして、神界に()(せい)しつつあったが、今や天の時到りて、余の身は(しゅっ)()(けん)の人となりたから、神教のまにまに円満美麗なる天国に到り、心魂を清めて()(だい)のために奉ぜんとす。今や余が身は、余の自由にならざると同時に、余の心身は、いささかも余の所有物にあらざるを覚悟したのであるから、天下公共のために、天の命を奉じて、天津神国に()(どう)の大義を探究せんとするのである。しかして余が身は、俗界を脱したる神の住み玉う城郭となったから、一時、母の事や妻のこと、妹や弟のこと等は忘れねばならん。必ず天下公共を救うための修業であるから、案じてくれないように。不在中は、神前に燈火を献じて、余が首尾よく神命を遂げて帰宅するのを祈って下さい」
 と云う意味の文言であったが、これも全く、余(いっ)()の力で書いたのでなく、七、八分まで神の助筆であった。
 しかしてその遺書の末尾に「鬼三郎」と署名したのである。「喜三郎のキと鬼神のキと音が通うから、やはりキサブロウと読むのであろう」と余は思うて居たのであったが、後に綾部の大本へ来てから「鬼三郎」は「おにさぶろう」と読むのであって、鬼門の神の()(ぐみ)であったという事が判明して来たのである。神界の仕組は幽遠であるから、とても人心小智の探知し(あた)わざる所である。
 準備は出来上がったので、いよいよ夜の十二時から出修する事となった。
 第一に(うぶ)(すな)神社へ参詣して、幽斎のますます発達せん事を祈り、次に山奥なる高熊の洞穴に到り、暫時感合法練習の上、(ゆる)(ゆる)山を降りて道を芦山峠に取り、東本梅村を通過して殿谷村に到着したのである。
 家の軒を借りてちょっと休息したが、早や東天は(あかね)さす日の光り、隆々として西の山の頂きを輝かしつつあった。
 それから殿(との)(だに)(とうげ)(くち)(うど)(とうげ)を越えて園部村に安着し、当地の郷社たる天満宮に参詣して、神教を請う事となった。
 身心を清めて、またまた幽斎の神感法に入り、「丹後の国の内宮、外宮を指して参上せよ」との神勅を拝受したが、その時に感合せられたのは、富士の眷属()(よう)(ぼう)さんであった。余は勇んで社内を拝辞し、直ちに園部大橋を打ち渡り、(ゆる)(ゆる)観音峠に向かいつつ峠の頂上なる一つの茶店に休息する事となった。
 ややありて神感法に入り、「山中において暫時鎮魂を修する」の神勅を得て、その日の暮るるまで山林の中にて修行したが、山下を見下すと、右は黒田、左は木崎、東は園部を眼下に眺め得らるるのであった。その夜は、払暁になるとまた神示があって、「園部まで引き返すべし」との事である。そこで余は、大いに怪しんで神界へその所以(ゆえん)を奉伺した。
「私は神命を奉じて西北に向かって参り、かつ又『丹後へ行くべし』との御教えなりしを固く守りて来れり。(もと)()()(まい)りは神界より中止なされしや」といささか質問的に神答を迫ったが、そのとき神は余に向かっておもむろに、左の神示を賜わったのである。
「神は霊であるから、霊を以て霊に対するは真の道である。今汝は、全霊なる神の命を()けて、ただ一心にその旨を守り、神霊の地に到って修業せんとす。その志や誠に嘉賞すべし。汝が霊は、既に内宮、外宮に参詣したり。神は無遠近、無広狭、無明暗にして、過去、現在、未来に通ずるものなり。汝の正霊、既に神前に安座せり。故にはるばる丹後に到らずともよし。いずれ二、三年のうちには、肉体も参詣せしむる事あるべし。汝はこれより園部の知己に頼り、一週間の間、閑静なる室を借りて幽斎を専修すべし」と()り玉いたりき。
 右の次第であったから、余は直ちに(じっ)(こん)なる本町の菓子商、内藤半吾氏方を訪問して、神示の程を弁明したが、主人の内藤氏も大賛成でありて、その家に五日間滞在して幽斎を研究し、またまた郷里へ引き返す事となった。
 帰村後直ちに、産土神社と高熊山とに参拝の上、感謝の意を捧げたのであった。今回の出修にて、始めて帰神術の修行法を大略感得したので、穴太にて第一回の幽斎研究会を創立する事となったのである。
 余が不在中には、果たして大騒動が持ち上がって居って、母なり家内中の者も、始め一、二日間は、余が「どこかへ遊びにでも行ったのであろうか」と思うて、敢えて心頭にかけなかったが、三日目頃からいよいよ行先が不明というので、親族へ電報を打って問い合わすやら、友人らしき者の家は残らず手別けをして捜索して見ても知れぬので、ついには各教会へ参りて、(かみ)(うらない)を請うのであったが、いずれの教会もみな、大同小異の占いで、虚言ばかりで、一向手掛りがつかぬのであった。そのうえ斎藤は、策士肌の人物であるから、余が母にも弟妹にも実を吐かないのみならず、余が遺書をふり回して誇大的に、「喜楽は高天原に上天したのである。雲にのりて天国へ往ったのである」なぞと、口から出まかせに吹聴したので、この事たちまち堤の切れたる如き勢いで遠近に流伝したのである。
 もっとも精神上から云えば、天国へ()ったのである、高天原へ上天した様なものであるが、今の人民は、主観的の観察は到底出来る能力はないから、虚となすもの実となすもの、口々に評判して、ついには取りとめもない事を言うのである。
 中には反対者等が、「喜楽は余り借金を(こし)らえて首が回らぬようになったので、夜抜けをしたのである。何程神様でも、天狗様でも、借金の鬼には敵せないと見える。ただ今に家も屋敷も上天するであろう」なぞと口々に(ののし)り合うのは、()()(まつ)党の輩である。
「親代々正直な家であって、喜楽さんも正直な温順な人であるから、神様が喜んで、(いず)()の高山霊跡へでも修業につれてゆかれたのであろう。神様も、彼のような性質の人間をお好みなさるから、全く神から隠されたのであろう。必ず(えら)い者になって帰られるであろう」なぞと云う者が七、八分もあって、ともかく今度の修行は、大いに余の名が遠近に拡がったのである。神の仕組というものは、人智の覚知すべからざる事である。
 余は二、三日経ってから、有形の感合法を感得せんと欲して、第一回の幽斎研究会を開始した。
 そもそも有形の感合法には、()()()と云う者が最も必要であるが、先ず第一に、多田琴と云う婦人を神主として感じさせてみた所、よほど劇しき感であったから、余は一心不乱に感合法を伝授しつつあったが、三週日を経て、始めて「白滝」と口開きをしたのであった。神主は多田一人ではなく、漸次志望者が増して来て八人となった。
 その人名は、石田()(すえ)に岩森ゆき、岩森とく、斎藤静、斎藤たか、上田ゆき、以上女子七人と男子は上田(こう)(きち)一人であった。
 しかして石田は、前に余の鎮魂で眼病の(へい)()した女である。斎藤しづは斎藤仲一氏の叔母で、たかは令妹である。ゆきは余の妹で、幸吉は余の弟であるが、当時は薭田野村(あざ)佐伯の大石格之助氏方に十歳の時より年季奉公に雇われて居るので、主人の勤めがすんでから、十五、六町の野道を毎夜通うて修行したのであるが、修行者の中にて最も成績が優等であった。
 次に善かったのは、石田と岩森とくであるが、このとくは当年十三歳であって、幽斎の修業者には最も適齢なのである。修行中には善神界も感合せられるなり、邪神界の強き妖魅も懸かりてくるなり。余はもっぱら()()()の役であったが、実に千辛万苦を(しの)ぎて、遂に第一期の幽斎研究会を無事に閉会したのであった。その間、帰神について、神勅なり、また邪神界の偽言大言なぞ、実に抱腹絶倒すべき事柄が沢山あるから、後に略記しておくの考えである。
 第一期幽斎研究会の出来事を記載するに先だちて、帰神の方法と来歴とを詳説するの必要があるから、左にちょっと記しておく。
 神界に感合するの道は、至尊至貴にして、神秘に属し、みだりに語るべきものではないのである。わが朝廷の古典、就中(なかんずく)『古事記』『日本書紀』等に、往々その実蹟を載せあるといえども、中つ()()に仏教が到来してから、わが国粋たる祭祀の大道なるものが追々に衰えて来て、その実を失える事、既に久しき事があったが、天運循環して、神伝により、その古代の法術に復帰するの機運が出て来たのである。これすなわち玄理の窮極であって、皇祖の以て皇孫に伝え給える治国の大本であって、祭祀の(うん)(のう)である。けだし幽斎の法なるものは、至厳至重なる術であるから、深く戒慎し、その人に非ざれば行うべからざるものがある。みだりに伝授すべからざるの意は、ここに存する次第である。しかりといえども、その精神にして、(せん)(かん)(ばん)(なん)(たわ)む事なくして、自ら()めて止まざるにおいては、ついに()く神人感合の妙境に達する事を得らるるに到る者もある。後のこの伝を受けんとする行者は、右の理由をよく(りょう)(さつ)せねばならぬのである。
 (ゆう)(めい)に通ずるの道は、ただその専修するにあるのであるが、ここにその法を示さんと思う。
 
 一、身体衣服を清潔にする事。
 二、(ゆう)(すい)の地、閑静の家を選ぶ事。
 三、身体を整え、(めい)(もく)静座する事。
 四、一切の妄想を除去する事。
 五、感覚を(とう)(じん)して、意念を断滅する事。
 六、心神を澄清にして、感触のために(みだ)れざるを務むべき事。
 七、一意専心に、わが霊魂の(あめの)()(なか)(ぬしの)(おお)(かみ)の御許に至る事を、黙念すべき事。
 
 右の七章は、自修の要件を明示せしものであるが、すべて幽斎の研究なるものは、世務を棄却して、以て大死一番の境に至らねば、妙域に到達する事は出来ないのである。
 幽斎の法は、至貴至厳なる神術であって、宇宙の主宰に感合し、親しく()()(よろず)の神に接するの道である。ゆえに幽斎を修し得らるるに至っては、至大無外、至小無内、無遠近、無大小、無広狭、無明暗、過去と現在と未来とを問わず、一つも通ぜざるはないのである。これすなわち惟神(かんながら)の妙法である。修行者たるものは、常に(ふく)(よう)心にとどめて忘れないこと。胸にとめて常に行うことしおくべきものがあるから、ここにその概略を挙げておく次第である。
 
 一、霊魂は神界の賦与にして、即ち分霊なれば、自らこれを尊重し、(よう)()なぞのために(たぶ)らかさるる事なかれ。
 二、正邪理非の分別を明らかにすべし。
 三、常に神典を(じゅ)(どく)し、神徳を記憶すべし。
 四、幽冥に正神界と邪神界とある事を了得すべし。
 五、正神に百八十一の階級あり。妖魅またこれに同じ。
 六、精神正しければ、即ち正神に感合し、(よこしま)なればすなわち邪神に感合すべし。わが精神の正邪と賢愚は、直ちに幽冥に応ず。最も戒慎すべし。
 七、正神界と邪神界とは、正邪の別、尊卑の差あり。その異なる、また(てん)(えん)の違いあるを知るべし。
 
 以上は、ただその(あらまし)を掲ぐるといえども、幽冥の事たるや深遠霊妙にして、その至る所は、これを言詞の尽くす能わざるものがある。ただ、その人の修行の上に存するものである。
 帰神の事について古典を調べてみるに、『古事記』には「天の岩戸」の段に至って、「神(がか)り」また「帰神」と現わしてある。また『日本書紀』には、「帰神(かんがかり)」とのみ現わして「神懸り」とは無いが、いずれも神人感合の事実を(しる)されたので、意味においては同一である。
 この帰神に最も重要なるものは()()()の役である。その人にあらざれば、すなわち能わざるものである。
その注意周到にして、胆力あり学識ありて理非を明らかにするに速やかなるを要する術である。左の八章は審神者の覚悟すべき事であって、最も重要なるものである。
 
    審神者の覚悟
 一、過去、現在、未来を伺うべし。
 二、実神なるや、偽神なるや、弁ぜずばあるべからず。
 三、神の上、中、下の品位を知らずばあるべからず。
 四、神の功業を知らずばあるべからず。
 五、(あら)(みたま)(にぎ)魂、(さち)魂、(くし)魂を知らずばあるべからず。
 六、天神、()()の分別なかるべからず。
 七、神に三等あるを知らずばあるべからず。
 八、神に(こう)(ひょう)()(ひょう)あるを知らずばあるべからず。
 合せて八種の覚悟。
 
 審神者の事について古典を調ぶるに、『古事記』には「()(にわ)」と現われ、また『日本書紀』には「審神者」と現わしてあるが、要するに、()()()なる役は神感を審判するものであって、「沙庭」も「審神者」も、その意味においては同一である。
 幽斎の修行には、少々修行場の装置を整えねばならぬ。閑静なる家や(ゆう)(すい)なる地を選ぶべきは前述の通りであるが、第一、「()()()(だい)」という器具と、「帰神台」という器具が、ぜひとも必要である。またこの台は、審神者なり神主の坐して修行する所の清所であるから、最も清潔を要するのである。また両種の台とも、(ひの)()を以て造るのである。三尺四方の台にして、高さは五寸なければならぬのである。
帰神台
[#図 帰神台]
 この台の上面に(あら)(むしろ)を敷いて、身心を清めたる()()()なり神主が、静坐瞑目して神人の感合を祈る()(せい)(しょ)なのである。神主というは、幽斎修行者の別称である。以下これに(なら)う。
 それから審神者に必携すべき神器がある。それは「鎮魂の玉」と「天の岩笛」の二品である。「鎮魂の玉」は前章に記したる通りであるから、敢えて説明の要はないから、「天の岩笛」について一言述ぶる必要がある。そもそも「天の岩笛」なるものは、一に「天然笛」と云い、また「石笛」とも(とな)えて、神代の楽器である。天然の石に自然穴のあいたもので、これに口をあてて吹奏する時は、実に優美なる音声を発するものである。穴の全く貫通したのは最も上等であるが、半通のものでも用いられるものである。
 また、これを吹奏するには、よほど鍛錬を要するものである。吹き様によりて千差万別の音色を出すものであるが、総じて、耳に立って(やか)ましい。むやみに「ピューピュー」と吹くのはよくないのである。極めて耳に穏やかにこたえて、何となく優美な音色を発せしむるのは最もよろしいのである。「ユーユー」と、長く跡の音を引いて、「幽」と云う音色を発生せしめるのが第一等である。神人感合の道は至善至重なる術であるから、審神者も神主も最も厳粛の態度を持してかからなければ、宇宙の主宰に感合し、また()()(よろず)(のかみ)に親近するの道であるから、神界へ対して不敬を加える恐れがあるから、最も注意周到でなくてはならないのである。
 この天然笛を吹奏するの術は、神主の霊魂と宇宙の正霊と互いに感合するの媒介となるべき、極めて貴重なる方法であるから、無意味に吹いたり、また狩人が鹿を呼ぶような吹き方をしては、神界の怒りに触るるのみでなく、妖魅の襲来を招くの恐れがあるのである。神主には清浄なる白衣を着せしめ、下部は赤か紫の()綿(めん)(ばかま)穿(うが)たしめて、婦人なれば総髪にしておくが便利である。
 幽斎修行に最も適当なる気候は春秋である。夏は()(ばえ)が沢山な上に汗が流れるので、よほど修行の妨害となるなり。冬は寒気のために自由の行動が取れず、かつまた、山中なぞは積雪のためにその目的を達するにおいて万事の障害となるものである。
 神主の適齢は、女子にて十二、三歳から十五歳位までが最も上等である。その上の年齢になると、修行の結果が面白くないものである。すべて婦人の神主は、老人ほど結果が面白くない。すべて婦人は精神狭量にして無智者が多いから、婦女なれば十二、三歳に限るというてもよい位なものである。
 また男子の神主は十五、六歳が適当齢で、それから三十歳まで位である。男子はよほど感じ難き傾向があるから、男子の神主は、よほど()()()において苦辛するのである。第一に、男子は知識あり、学力あり、胆力あるもので、徳義心の(あつ)き者でないと、正しき神主となる事は出来難い。またよろしき神主になる性質のものは、よほど英敏であって、どことなく凡人に(すぐ)れた所のあるものでないと、完備した神主にはなり難いものである。感合する事は、三週間か四、五週間の修業で感ずるが、すっかり、邪神界の神主になり果てるものであるから、みだりに幽斎は人に伝授すべからざるの術である。幽斎の術については大略記述したから、これから進んで、余が第一期の研究会における状況を次章において略述するの考えである。
      明治三十七年一月二十八日筆
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