霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第十章 幽斎修業

インフォメーション
題名:第十章 幽斎修業 著者:出口王仁三郎
ページ:118
概要:
  • 顕斎は祭祀、幽斎は祈祷である。
  • 幽斎では多田琴、石田小末などが口を切った。斎藤たか、岩森とく、上田幸吉などが参加。
  • 明治31年4月3日稲荷講社の三ツ矢喜衛門が訪ねて来た。
  • 正神の感合と邪神の感合の例があげられている。
  • 石田小末に、神功皇后の軍に従って三韓征伐に参加した武士の神霊、小松林が懸かり、王仁三郎に名前を10年間使うことを許す。
備考: タグ:御嶽教(御岳教) データ凡例: データ最終更新日:2024-06-23 19:33:33 文字数:8569 OBC :B195301c16
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]:写本(成瀬勝勇筆、大正14年12月、大本本部所蔵)
   王仁 述
      明治三十七年二月一日筆
 
 幽斎の法は、霊を以て霊に対するのであるから、神像も有る無く、宮舎も有る無く、奠(てん)幣(ぺい)も有る無く、祭(さい)文(もん)も有る無く、ただわが霊魂を以て宇宙の霊魂に対すればよいのである。要は真神を祈るの道である。
 顕斎は、形を以て形に対するの方式であるから、神像も有り、宮殿も有り、奠幣も有り、祭文も有って、像神を祭るの道である。
 顕斎は祭祀の道であって、神明に対し奉りてその洪(こう)大(だい)無辺なる恩徳を奉謝するの儀式である。
 幽斎は祈(き)祷(とう)の道でありて、神明に対し奉りて、公正なる願望を成就せしめ玉わん事を祈り、また神術の進歩発達して神人感合の妙域に到達せん事を祈るの大道で、真理蘊(うん)奥(のう)、万業の基礎たるべき神法である。
 幽斎式は、前記の如く、霊を以て霊に対するのであるから、顕斎は不必要かといえば、決して不必要では無い。幽斎にして顕斎ならざるも非(ひ)なり。顕斎にして幽斎ならざるもまた非なり。一方にのみ偏するは必ずしも真理では無いのである。ゆえに余は、幽斎の修行を開始するに当たりて、先ず神殿を作り、幣(へい)束(そく)を安置し、祭文を奉唱して、修業する事にしたのである。
 彼(か)の祭祀と祈祷との大義を誤解し、混同して、以て偶像教なぞと誹(ひ)毀(き)する某教の教理の如きは、実に偏見極まる邪説である。また御岳教敬神教会、神(ひも)籬(ろぎ)教会の徒の如く、「神(かみ)降(おろし)」と称して神(しん)憑(ぴょう)を祈るに際し、幣(へい)帛(はく)を捧げたり、大音で祭文を称(とな)えながら幽斎を修するのは大不都合といわねばならぬ。先ず顕斎式を了して、しかして後に悠然として幽斎式に着手すべきものである。
 現時の神学者及び宗教家たるものは、頑迷にして、祭祀と祈祷の厳然たる区別をわきまえず、日夜神怒に触るる事のみに熱中しつつ、平然として宗教家、神学者を以て自ら任じつつあるは、実に憐むべきの到りである。
 余はいよいよ決心して幽斎研究会を開始したが、第一着に感合して口を切ったのは、多田琴、二十三歳の婦人であった。
 憑かりたる霊は「白滝明神」と告げたが、これは全く偽りであった。妖魅界の邪霊なのである。総て神主なるものは、初めて口を切る時には、十中八、九まで妖魅が憑かるものであるが、その妖魅を縛りたり、退けたり、論じたりするのが、審(さ)神(に)者(わ)なる役目の必要とするところであるから、審神者たるものは、実に胆力と智識と経験とが最も必要なのである。
 多田の感じかけた時は、非常に騒ぎまわって大いに余を窘(きん)迫(ぱく)せしめた。見る見る顔色は朱を注ぎ、身体を非常に動揺し、手を急激に上下し、口を一文字にし、猛悪なる血相を現し、以て余の審神者に向かって一生懸命に飛びかからんずる勢いを示して居るのである。余は、始めて有形感合法の妖魅に出(で)会(くわ)したのでいささか心配したのであったが、吾(われ)の修業であると思うたので、直ちに開き直って厳正の態度を示し、言を厳(おごそ)かに質問に及んだのである。左に、その問答の次第を略記せん。+は審神者の標示にして、-は神主に感合せる霊魂なり。読者よろしく心に記して忘るるなかれ。
 +は余すなわち上田の審神者。
 -は修業者多田に感合の霊。
 
+「今、多田の神主に懸かりたるは、何者なるや」
-「この方は白滝大明神なり」
+「何国より来(きた)れるや」
-「この方は伏見より来(きた)れり。汝(なんじ)は神に対して無礼の言を吐く。聞き捨てならぬぞ。故に、神より汝が家に災いを降らさんとす。されども、汝、今改心して吾に随えば、汝の罪を赦(ゆる)せし上、大なる幸福を与えん。汝の心中如何(いかん)」
+「余の無礼の言を叱する汝は、実に偽神なり、妖魅なり。必ず敬すべき理由なし。汝が言辞といい、挙動といい、一として神たるの資格なきのみならず、禍(か)福(ふく)を以て余を欺(あざむ)かんとす。その思念は卑賤なり。故に余は邪神と断定せり」
-「やあ残念なり。口(くち)惜(お)し。吾(われ)は長らくこの神主に掛からんとして非常に苦しみたり。しかるに折角感合したりし間もなく、審(さ)神(に)者(わ)の眼光に発見せられたるが面(つら)憎(にく)や」
 と血相変えて余に飛びつき来たるを、「得たり」と鎮魂の術もて彼を縛るや、苦しき声を挙げて赦免を請う。
+「以後は必ず戒心すべし。神明の御名を詐(いつわ)るべからず」と諭して放つや、妖(よう)魅(み)は直ちに退去して、神主は本来の正気に復したりき。
 一時間休息の上、再び修業に掛かりたり。今回は余程平静に、やや優美の態度を以て懸かり来(きた)れり。されど余の審神者は、以前と同霊にして、余を瞞(まん)着(ちゃく)せんとする者なる事を、心中に看破したりき。されど余は、わざと知らざる真似を為(な)して、丁寧に一礼して、問答を始めたのである。
+「御名を伺います」
-「天(あめ)の宇(う)受(ず)売(めの)命(みこと)なり」
+「またの御名は如何(いかん)」
-「知らず。しかして、汝は吾を疑う。はなはだ不敬ならずや」
+「天の宇受売命は正神界の大神なり。わが名を知り玉わざるいわれなし。さらば何れに鎮祭しあるや」
-「伏見の稲荷山なり」
+「稲荷山は何国何群何村にあるや。開基は何帝の御(ぎょ)宇(う)なりや」
-「汝はそれを尋ねて如何(いかん)とするか。不礼千万なり」
+「これ、余が職掌にして、審(さ)神(に)者(わ)たる者の任務なり」
-「さらば汝の勝手に致せ。神はこれより引き取らん」
+「どっこい、そうはさせないぞ。汝は前と同じ妖魅なり。余が縛りたる鎮魂の綱は恐れざるや。汝、不敬にも神名を詐称す。その罪軽からず」
-「実に余は邪神なり、偽神なり。願わくは宥(ゆう)恕(じょ)し玉え。以後は必ず戒慎致さん」
 
 かくの如く、邪神は神主に感合して第一に審神者を迷わせ、神主その者を迷わせ、しかして世人を瞞(まん)着(ちゃく)せんとするなり。故に審神者にしてその器(うつわ)に非(あらざ)る時は、ついに邪神のために、幽斎研究の道場を始め精神までも占領せられて、妖魅界に引き込まるる事あれば、最も慎しむべきなり。
 妖魅を退散せしむるには、まず言を以て懇(ねんご)ろに説諭するにあり。二、三回までは、説諭を以て追い出すべしといえども、なお戒心せずして大神の御名を詐(かた)るにおいては、容赦すべからず。直ちにわが霊を以て、その悪霊を束縛すべきなり。縛られたる霊は、苦悶の声を放ちて七転八倒するものなり。されど審神者より「赦(ゆる)す」の一言下るや、直ちに許されて逃げ還るを常とす。
 多田が帰神を修得して正当の神主になるまでには、幾多の記すべきものあり。ほとんど数うるに暇なき程にて、また審(さ)神(に)者(わ)の苦辛したる事実は、筆紙の尽くし得(う)べきにあらず。
 次に、修行者・石田小末が口を切り、斎藤たか、十三歳の女が口を切り、順次に修行者の口が切れて来たが、始めの程は妖魅ばかりで、審(さ)神(に)者(わ)を非常に困らせた次第は、順を追いて記載するの考えである。
 さて八人の神主は、各々口を切ったが、みな非常に大恐(きょう)悦(えつ)で、生(いき)神(がみ)にでもなり澄ましたように思うて慢心をし出した所へ、邪神等は「得たり畏(かしこ)し」と神主の霊を襲うて、種々の狂態を演じさせて余が目的を破壊せんと、百方妨害を為(な)すのである。邪神は邪神を誘い来(きた)りて、余が名誉を毀(き)損(そん)せんと試むるのである。
 余は元より覚悟の前である、万難を排して勇(ゆう)往(おう)邁(まい)進(しん)せざれば、真正の神術を修得し能(あた)わざる事を。故に余は、いかなる難事をも屈せざるの決心を以て、ただ真理のある方へ向かって直進する事になったのである。
 石田すゑと上田幸吉の両神主は、始めから正神界の感合であったから、審神者に心配を掛けなかったが、困ったのは、第一に多田と斎藤しづの両人であった。中にも、このしづと云える婦人は、年齢三十五歳であって、不具者である。非常な短身なので、俗に「ちんこ」と称する憐れむべきものであるが、この女は、まだ「ちんこ」のために、いずれにも嫁した事が無いので、神主にでもなって、高尚なる優美なる風でもして、不具者の恥(はじ)を蔽(おお)わん欲望があったから、正邪、賢愚に応ずる幽斎式であるから、正しき霊の懸かるはずがないのである。
 この婦人、いつも修業の時は、身体を非常に動揺して鼻息荒らく室内を飛び回りて、「常富大明神なり」等と騒ぐのである。審(さ)神(に)者(わ)がこれを詰問すると、肉体の本人が非常に立腹して、そこら一面に当たり回したり、「先生は私に悪魔を憑(つ)けたから、元の通りにして還(かえ)せ」等とだだを踏むのである。余は野天狗の所(せ)為(い)なる事を知って居るから、言を以て追い出すは最も易き事であれども、そうしては彼の親なり、姉なり、伯父どもが、何も知らずに理窟を持ち込むなり、実に困ったのであったが、ついにこの神主は成就せずに終わったが、後には余に反対して、園部の下(げ)司(す)と云える者の後妻に娶(めと)られたが、それも暫時で不縁となり、今に懸かり人として兄姉等の世話になって居るのである。下司の事については、後日記載する事あらん。
 岩森とく、斎藤たかの両人は、幼年にも拘わらず、余り熱心に練修したので、霊の感合が烈しく、しばしば身体が強直したり、目を回わした様な状態になる事があって、大死一番の境に達したのを、両人の親兄弟が見て、「大切な人の子を殺した」とか「狂人にした」とか云うて、余を非常に攻撃するのである。中には、警吏に余を渡さんとさえしたのである。余は平然として、「これは幽斎修業に最も必要なる状態であって、神人感合の楷(かい)梯(てい)であるから安(あん)堵(ど)なせ」と言うても、彼らは顔色を変えてしまうて、大いに憤激して居るのである。二十分立ちても、三十分立っても、気が付かない。身体も次第に冷却して来て死人と同様である。彼ら親兄弟は、ますます憤(いきどお)り、余を「殺人者なり」と詈(のの)しり、「元の身体にして返さばよろし。さもなくば殺人犯として警察に訴える」等と四方八方から余に向かって詰め掛けるのである。余もいささか心痛をした。今まで一度もかような事に遭遇した事がなかったから、直ちに余は神界の佑(ゆう)助(じょ)を祈った所、例の無形の感合法にて蘇生せしむるの術を了得したのである。すなわち一声高く「汝等神主、只今許す」というや否や、両神主は一斉に起き上がったので、余も大いに安心したが、彼らは非常に喜んだり、驚いたり、しまいには余に向かって、「先生は真に生神様である」等と、また打って変わって優待するのである。
 その後は、一心不乱になって信仰してくれたので、内部の攻撃はやや治まったと思うと、また外部から種々の敵が出て来て妨害を加えんとするのである。彼の治良松は云うに及ばず、斎藤与四郎、同丑之助、原田縫之助、同与兵衛、八田弥三郎、仙吉、島津治三郎、飴屋治三郎は、わが目的を破壊せんとして、種々の反対運動を行なっていったが、一つもその功を奏しなかったのは、邪の正に勝つべからざる道理であろうと思うたのであった。
 時はこれ明治三十一年四月三日、余は亀岡の太元教会師、中教正・松山昇氏の周(しゅう)旋(せん)にて、既に御岳教の教師たらんとし、同日正午、今や我家を出んとするの一刹那、一人の道者来りて、「上田喜三郎氏は当家なるや」と問うたので、余は「然り」と答えて、再び家に入り、先ず道者を迎えて坐(ざ)に付き、来意を尋ねたのである。彼(か)の道者は、直ちに家に入り、普通一遍の挨拶もすんで後(のち)、左の通りの来意を述べたのである。
「拙(せっ)者(しゃ)は、静岡県安倍郡富不二見村下清水月見里(やまなし)神社の付属たる稲荷講社総本部の役員にて、三ツ屋喜衛門と申すものでありますが、当講社結集のため、当時紀伊国和歌山市に寄留して、一講社を管理して居るものでありますが、和歌山まで、貴下が幽斎を開始なされてござると云う事が伝わりましたので、拙者の職分として聞き流す訳には参らず、四十余里の行程を、はるばる推参致しましたから、どうぞ神明の御引き合わせと思って、わが講社に加入しては下さらないか」との申し込みであった。
 余は「貴下の来意は既に承知せり。しかし何か書類とか辞令書とかあらば拝見致したいが」と申し込んだ。
 三ツ屋氏は、直ちに規約と辞令と神(しん)札(さつ)を出して証明したが、その辞令には「社長を命ず、三ツ屋喜衛門」と記載してあったから、余は怪しんで、「貴下が社長とは如何(いかん)。いやしくも一講社の長たるものが、全国を巡回なさるのは少しく小生は了解に苦しむ」と詰め問うた。
 三ツ屋答えて、「その御疑いはもっともなり。しかし当講社を総管する役付は『総理』と申して、本社奉祀の神官で長沢雄(かつ)楯(とし)という人が主長であります。私の『社長』と申すのは、役階でありまして、他教に用ゆる大講義相当の階級なのであります。くわしきは、当規約に明記されてありますから御覧なさい」と差し出した一葉の規約書を見ると、役員の階級が、左の如く十二等に別かってあるのである。
 
 正司領 権司領 大監督 権大監督 中監督 権中監督
 少監督  権小監督  社長  副社長  取締  世話掛
 
 これを見て、三ツ屋氏の九等役員たる事を知ると共に、余の疑団は全く晴れたのである。とにかく、余が家に宿せしめて、委細を聞かんと思うままに、太元教会の方は、一時入会を見合わす事としたのである。
 幽斎研究のために沢山に金銭を費やした上に、またまた風来的の道者を一人宿泊させた事とて、母や弟等が「浪人者を追い返せよ」と迫って仕方がないから、余はひそかに万屋といえる旅人宿へ預けて置いて、夜中深更に訪問して万事を聞く事として居ったが、意外の無学者であって、何を質問してみても一向不得要領であったので、いささか余も失望落胆したが、第一、規約の主旨に深く賛成したので、奮発して、一応、総本部へいって総理に万事伺うてみたいと思うて、東上の準備をする事としたのである。
 しかし最早懐中無一物で如何(いかん)ともする事が出来ないので、親族の端(はし)なる佐伯の大石友吉という人に頼んで金を借る事にしたが、大の賛成で心好く貸与してくれたので、路銀は調達したが、さて困るのは八人の修行者である。中途に放任して置いて一日でも他出したなら、それこそ妖魅が恐いものなしで神主を襲うて、半狂者に陥らしむるの恐れがある。そこへまた、反対の乗ずる懸念があるから、ともかく一人なりと神主を卒業させて、それを審(さ)神(に)者(わ)代理にしておかねば旅行する訳にはゆかぬので、また一心に幽斎を研究するのである。
 
      同年二月二日筆
 以前の修行は、一日に昼夜共に八回ずつであったが、今度は増して十二回ずつの修行としたのである。しかして、一回毎に約四十分間ずつを要するのである。これを三週間も続けたので、審(さ)神(に)者(わ)も神主も非常に疲労衰弱してしもうて、行歩も自由にならないようになって来たが、ますます勇気を奮って修練した結果、ようやく多田と石田と上田幸吉とが正式に感合して、やや真正と認むるようになったのである。まず多田の帰神と審神者の問答より記載せんとす。+は例の審神者で、-は例の神主に感合し玉うた神霊の答辞である。
 今度の感じ方は従前とは大いに異なり、神主の容顔なんとなく優美高尚にして威厳を保ち、思わず人を畏服せしむるの風があるので、余はこれぞ正神の感合と察したれば、極めてわが姿勢を整え、低頭平身、敬意を表し、二回拍手して三拝し、おもむろに奉伺したのである。
 
+「多田に憑(かか)りたまう神は、何(いず)れの神なるや。御名を伺います」
-「吾(われ)は住吉神社の眷属大(おお)霜(しも)なり」
+「御苦労に存ず。神社所在地は如何(いかん)」
-「摂津国堺市に在り」
+「社格は如何」
-「官幣大社なり」
+「祭神は如何」
-「祭神は四坐にして、底(そこ)筒(づつの)男(おの)神(かみ)、中(なか)筒(づつの)男(おの)神(かみ)、表(うわ)筒(づつの)男(おの)神(かみ)及び神(じん)功(ぐう)皇(こう)后(ごう)なり」
+「摂社ありや」
-「祓戸神社、磯(いそ)の御(み)前(さき)(津守の祖)二坐有り」
+「住吉大神は何神の神子なるや」
-「伊(い)弉(ざ)諾(なぎの)尊(みこと)の御子なり。尊(みこと)往(ゆ)きて、筑紫の日(ひ)向(むか)の橘(たちばな)の小(お)戸(ど)の檍(あはぎ)原(のはら)に至り玉いて、祓(ばつ)除(じょ)し玉う。ついに身の所汚(けがれ)を盪(とう)滌(じょう)せんとして海底に沈(ちん)濯(たく)し、よって以(もっ)て生まるる神を号して、底(そこ)津(つ)小(お)童(わらべの)命(みこと)という。次に底(そこ)津(つ)男(おの)命(みこと)、また潮中に潜(せん)濯(たく)して、よって以て生まるる神を号(なず)けて中(なか)津(つ)小(お)童(わらべの)命(みこと)という。次に中筒男命、また潮上に浮濯して、よって以て生める神を号して、表(うわ)津(つ)小(お)童(わらべの)命(みこと)という。次は表筒男命、すべて九神あり。その底筒男命、中筒男命、表筒男命、これすなわち住吉大神なり」
+「住吉の地に鎮坐し玉いし由来を、御知らせありたし」
-「底津男、中筒男、表筒男三神のその荒(あら)魂(みたま)は、筑紫の小戸に在り。和(にぎ)魂(みたま)は、神(じん)功(ぐう)皇后三韓を征し玉う時に、摂州に顕座し、皇后の体に託し、しかして四方を循行して、遂に摂州の地に到りて宣言して曰(いわ)く、『真(ま)住(すみ)吉(よし)、真住吉の国なり』と。よってその地に鎮座し、名づけて『住吉』という。云々」
+「貴神、住吉神社に仕え玉うはいかなる縁故に依れるや。畏(おそ)れながら、審(さ)神(に)者(わ)の研究のために語り知らせ玉え」
-「吾(われ)はその昔、神功皇后陛下の三韓を征し玉いし時、一方の将として従軍したるものの荒魂なりしが、爾(じ)后(ご)、当神社の眷属として奉仕するものなり。云々」
 
 大霜眷属と余との問(もん)対(たい)は、この外に数(あま)多(た)ありしかども略す。ただ、正神界と邪神界との感合法の大意を知らしめんために、その一斑を示したるのみ。読者心を静めて誦(じゅ)読(どく)せば、自(おのず)から正邪賢愚の別、尊卑の差等、天淵の差隔ある事を了得することあらん。
 上田幸吉の神主につきて帰神の一斑を記載せんに、左の如し。余は式の如く、審神者の礼を行い、正神界の感合と見てとりたれば、
 
+「神名を伺います」
-「八坂神社の眷属行(ゆき)守(もり)なり」
+「所在地は何処なるや」
-「山城国愛(あた)宕(ご)郡八坂にあり」
+「社格は如何」
-「官幣中社なり」
+「現奉仕の宮司の姓名及び位(い)記(き)は如何(いかん)」
-「秋山光條にして、従六位なり」
+「祭神は如何」
-「祭神は三坐にして、感神天皇、八王子、稲田姫なり」
+「感神天皇とは如何なる神ぞ」
-「素(す)盞(さの)嗚(おの)尊(みこと)の御別称なり。一に牛(ご)頭(ず)天皇とも称し奉り、勇(ゆう)悍(かん)にして安(あん)忍(にん)なる事ある大神なり」
+「八王子とは如何なる神ぞ」
-「天照大神の生み玉いし所の三女神、田(た)心(ごころ)姫(ひめ)、瑞(みず)津(つ)姫、市(いち)杵(き)島(しま)姫と、素盞嗚尊の所生の五男神、天(あめの)忍(おし)骨(ほねの)尊(みこと)、天(あめの)穂(ほ)日(ひの)命(みこと)、天(あま)津(つ)彦(ひこ)根(ねの)命(みこと)、活(いく)津(つ)彦(ひこ)根(ねの)命(みこと)、熊(くま)野(の)樟(くす)日(びの)尊(みこと)を合せて、八王子と奉称するなり」
+「稲田姫とは如何なる神ぞ」
-「素盞嗚尊、出雲国簸(ひ)之川上にて、八(や)岐(また)の大蛇(おろち)を退治し、一女を救いて吾(わが)妻となし玉う。これ稲田姫の命(みこと)なり。云々」
 
 すべて正神の感合せられし時は、かくの如く何事も明瞭に告げ玉えば、実神と偽神との区別は自然悟る事を得らるるものなり。
 石田神主感合の一斑を左に示す。
 
+「只今石田に懸かり玉うは、何れの神に在りますや。神名伺い奉る」
-「石(いわ)清(し)水(みず)に祭られたる息(おき)長(なが)足(たらし)媛(ひめ)なり」
+「畏(おそ)れ多し、赦し玉え。願わくは石清水の由来を教え玉え」
-「よい哉(かな)。吾直ちに眷属を遣(つか)わして、委(くわ)しく説明せしめん」
 神託終わると共に大神は引きとり玉い、次に一つの神、懸からせ玉えり。
+「御名を伺います」
-「男山の眷属小(こ)松(まつ)林(ばやし)なり」
+「神社の所在は如何」
-「山城国久世郡石清水にあり」
+「石清水の名義は如何」
-「山の半腹に清水あり。故に石清水と称す」
+「祭神は如何」
-「誉(ほむ)田(た)天皇、玉(たま)依(より)姫、神功皇后の三柱なり」
+「誉田天皇は何人の御(み)子(こ)ぞ」
-「仲哀天皇の御子にして、第四子なり。母、息(おき)長(なが)足(たらし)姫(ひめの)尊(みこと)なり」
+「玉依姫は何神の御子なるや」
-「海(わた)神(つみ)の女(むすめ)にして、豊玉姫の妹にして、神武天皇の母神なり」
+「玉依姫は何神の妃なりしや」
-「彦(ひこ)波(な)瀲(ぎさ)武(たけ)鵜鷀(うがや)草葺(ふき)不合(あえずの)尊(みこと)[※神武天皇の父。「鵜」は定本では「矛+鳥」。]の妃なり」
+「神功皇后、父母の神名如何」
-「父は開化天皇の曾孫気(おき)長(なが)宿(すく)祢(ね)にして、母は高(たか)額(ぬか)媛(ひめ)と申す」
+「開化天皇の御名を伺う」
-「稚(わか)日本(やまと)根(ね)子(こ)彦(ひこ)大(おお)日(ひの)尊(みこと)と白(もう)し奉るなり」
+「社格は如何」
-「官幣大社にして、男山八幡宮と奉称す」
+「摂社は幾(いく)何(ばく)社ありや」
-「所摂宮は七座あり」
+「社名並びに祭神を伺う」
-「一、若宮、仁徳天皇を祭る。
  二、姫若宮、宇(う)礼(れ)姫(ひめ)の姉、呉(くれ)姫(ひめ)の妹なり。
  三、水若宮、宇治皇(み)子(こ)を祭る。
  四、上高良、武(たけ)内(うちの)宿(すく)祢(ね)を祭る。
  五、下高良、玉垂命を祭る。
  六、狩尾、地(ち)主(しゅ)大(おお)国(くに)玉(たまの)神(かみ)を祭る。
  七、下院、疫(えき)神社なり」
 
 右の外(ほか)、治国平天下の道より修身斉(せい)家(か)の方法に至るまで伺い奉りて、大いに智識を与えられたり。余は常に、この神と入(じっ)魂(こん)となり、余が修行中、すなわち十か年間は、小松林の御名を拝借する事を赦(ゆる)されたり。
 付記す。小松林は八幡宮の高等なる眷(けん)属(ぞく)神(しん)にして、生前は武士なり。神功皇后の軍に従いて、三韓を征し玉いし英雄なりしなり。
 続いて、前記三名の神主には、芙蓉、杵岡、松川、河原林、昌盛なぞの諸霊憑(かか)り玉い、記すべきこと多けれども、後にまたまた載(の)すべき機会あるを以て、これには省略したり。
 幽斎の修行もかく進んで来ると、実に楽しいもので、労苦も何も忘れる様になって来るものである。石田は、「母が病気だ」と云うので、一先ず郷里へ看護のため帰宅させたなり。上田幸吉は、未だ年期奉公の身であるから、主人の命に従って主家に帰る事になったので、あとには、卒業した神主は多田一人のみである。余は多田に未成の神主を預けて置きて、いよいよ駿河へ東上する事としたのである。
 三ツ屋の申告により、総本部総理より、明治三十一年四月十五日付を以て「上田喜三郎、任中監督」との辞令を郵送下付せられたが、斎藤仲一氏には「副社長を命ず」との辞令を下付せられた。
 余も斎藤も、ますます勇気が加わって、昼夜を分かたずに大勉強をしたのであるが、ますます多忙に赴(おも)むいて来たので、二人は忙しくて目の回る如くであったが、留守中の一切万事を斎藤に依頼して、神主は多田に預けて、四月の二十八日に三ツ屋の案内にて、始めて参閣する事となったのである。
      明治三十七年二月二日筆
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