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随筆『神霊界』大正9年1月1日号掲載

インフォメーション
題名:随筆『神霊界』大正9年1月1日号掲載 著者:
ページ:73
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2021-04-13 10:54:08 OBC :B195502c110709
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正9年1月1日号(第101号) > 随筆
 金烏燦燗として東穹に輝き、瑞気靄々天地に盈てる、大正庚申の元旦に際し、筆硯を清め、神祇に祈誓を篭め、以て皇道を宇内に宣伝せむと欲し、所懐を述べて、年頭の辞に代ヘやうと思ふ。
 「梅で開いて常盤の松で、世界治める神の国」と曰ふ安来節は湯川貫一先生の作歌である。
 三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結び、スの種を守るぞよとは、国祖国常立尊の神諭である。
 又神諭に梅の局と松の局の御脇立と云ふ事がある。松の局とは決して人名では無い、地の高天原、竜宮館の松の大本の教壇であり、梅の局とは皇道宣伝発揚の教壇の在る、地場の名称である。松の大本は、神界経綸の基礎が稍固まつたので、弥々梅の局の経綸に着手せねば成らぬ時期に向うて来ました。亀は鏡である。鏡は言霊学上の梅である。又透明無欠の神教である。故に皇道大本の神教を普く天下に宣伝するため、三百余年の昔、天正の十年に明智光秀が天下を治めた、亀山城趾に道場を開設するのは、国魂の関係上、最も適当なる神策である。天の時と地の利を占め、人の和を得たる要務である。実に亀山は万代不易の皇室擁護の活動地である。昔から、鶴は千年、亀は万年と祝ひ来る。此の亀の名に負ふ亀山の万寿園に審判庭なり、修行場を設くるは、神界所定の真事業である。明智将軍の後には松平侯の居城であつた。松平とは、松の大本の経綸に就ても、何かの因縁が在るやうである。次に松は祭政一致の標徴で、天下統一の神意である。万世不易の神政成就の神義で、三種の神器に配すれば、八坂瓊の曲玉である。故に松の大本は、万世一系、天壌無窮の皇運を扶翼し奉る、忠良無比の神民の集る、神聖なる霊地である。而して神界と現界との真釣りの中心点であります。
 斯の中心点なる地上の高天原下津岩根に、秋津島根の根を固め、幹を太らせ、美はしき枝を四方に繁らせたる皇道大本は、弥々清き芳しき、花の咲く春が来たのである。則ち梅に因縁深き亀山の万寿園に、教の園を開設するは、実に神政経綸上機宜に合したものである。宜なる哉、本年の勅題は田家早梅である。田家と国語之をイナカと謂ふ。水火の反はイ也。キはかみ又はくに又はきみの反しである。則ちイの言霊は息也生也。キの言霊を合すれば生国生神である。○次にナの言霊は中の反である。のあの反である。又た─(水)と│(火)との結びである。数の上から十である。十は十曜の神紋で十方世界の中心の意がある。○次にカの言霊は神霊活動の意義である。約言すれば神国の生神の大活動である。故に諺にも田舎は神が造り、都会は人が造ると謂ふてある。丹波の片田舎から神霊顕現して、皇威を八荒〔紘〕に輝し奉る真人等の、共同一致の大活動を、一度に開く梅の花と曰ふ、田家の早梅とは、皇道大本の大活動の神示となるのであります。国祖の神諭に天理、金光、黒住、皆大本の先走りに出してあるぞよと示されてあるが、天理教の標紋は梅の花である。金光教の標紋は八並の鏡である。鏡は即ち前に述べた通り、矢張り梅の八方に開いた形である。黒住教の標紋は日の丸である。太陽の形象である。太陽は年百年中東ウの方より昇る。ウの方より、ミエるから矢張是もウメである。(ミエの反メ也)又教は前述の如く鏡である。故に日の丸の中心に教の字を入れて標紋と為せる黒住教は、惟神の神理に合致したものであります。
 本年は弥々庚申さんの廻り年であつて、庚申さんは俗神道家より、猿田彦神だと唱へられて居る。真偽は兎も角もとして、猿田彦神は邪悪を退け、善に導く神様である。天照大神、高木神の神勅を奉じて、皇孫二々岐命が豊葦原瑞穂中国の主として降臨あらせられた時に、天の八衢に出迎へ奉り、日向の奇振るの峯に天孫を導き玉ひ、又た伊勢の大神の先導に立ち玉ひし忠勇無比の神様である。就ては斯の大本も思想界の天の八衢に立ちて、上は高天原を照らし、下は豊葦原の国を照らし、真心つくしの日向の立花の小戸なる、アオウエイ五大父音の言霊を以て、世界統一、主師親の神様の先導に、仕へ奉らねば成らぬ時機に立到りました。 猿田彦ならぬ未申の金神、豊雲野神の御魂が現はれて、神様の御尾前に仕へ奉る可き世が、循環して来たのであります。
 或る大本信者の中には、神主の二代さんが弥々神示の通り、教主の位置に直られたに就ては、今後の神諭は二代さんから現はれねば成らぬ筈である。然るに依然として、教主補の王仁さんから筆先が出るのは、不思議だと謂つて、疑問を抱て居られる方々が在るさうですが、一応御尤もの御考へで在ります。然し教祖の廿五年以来の神諭に、出口純子は二代目の御世継であれども、何事も口で言はせるぞよと出て在ります。亦た出口王仁三郎は一旦斯世が治まりて、五六七の神代に立直るまで、神が憑りて筆先の御用を致さすぞよと、現はれて居りますから、今後神界の必要に応じて、時々御神諭の御用を命ぜられる事と信じて居りますから、疑うて居られる方々の疑問を解く為に、爰に一筆書き誌して置きます。
 綾部の大本は、御神諭に、地の高天原と定まりたぞよと現はされてある。天の高天原は、即ち天津日嗣天皇の堅磐に常磐に鎮座坐ます、清浄無垢の霊場を奉称するのである。天の高天原は天下を統御し給ふ、主師親の三大神徳を永遠無窮に具有し玉ふ、至尊の御経綸の中府であります。
 地の高天原は、天下万民に皇道の大本を教へ諭し、天地神明の御稜威を輝かし、世界を救済し、道義的に世界を統一する、神界経綸の大中心地点であり舛。昔大国主命が豊葦原瑞穂国を統一し、之を皇孫命に奉還し給ひし美事は、君臣の大義名分明らかなる国体の精華であります。地の高天原は、臣系の神なる国常立尊、素盞嗚尊等の活神が出現され、現代の乱れ果たる世を清めて、五六七の神代に復活し、以て世界大統御の神権を惟神に有し給ふ上御一人に奉り、麻柱の大道を明にする、忠勇なる神人の集合地点であります。世界統御の御天職と、大本の世界統一の経綸とは、元より根本的に於て使命が違つて居るので在ります。大本の祝詞にも、本末内外を過たず、茂鉾の中執持ちて大御前の事白さしめ玉ひ云々と在る如く、我皇道大本教は、本末、自他、公私、君臣等の名分を明にするのが主眼でありますから、或る一派の脱走者の中傷する如うな、不謹慎なる教ヘを、夢にもする所で無い事は、賢明なる会員諸氏の御了解の事と思ひます。然れ共未だ入信してから間の無い方々は、動もすれば反対者の毒言に惑はされないとも限りませぬから、王仁の老婆心より万一を遠慮して、茲に一筆誌して置く次第であります。
 又た神諭に大の字逆様の世で在るぞよと示されて在るのを態とに乎知らずに乎曲解して何か大本は不敬の言辞を弄して居る如うに或る反対者が言つて居るさうですが、大の字とは一人と云ふ事である。神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者である事は大本神諭所示の通りである。人は大宇宙に対して小宇宙であり、天地の神明に対して人は小なる神であります。その小なる神とは大の字なる一人の意義である。現今の人間は日日の行為と云ひ心性と曰ひ、一切万事天地の真理に反して居るのを警戒するために大神様が今の世は上から下まで、山の谷々まで大の字が逆様に成つて居るぞよと仰せられたのであります。仏祖の所謂天上天下唯我独尊とは完全なる人間の人格を指したものである。現今の日本神国には遺憾乍ら一人として真の人格者が現はれず、人面にして獣魂なる反道者斗りが天地間を汚して居るとの神示であります。天の字が逆様と曰へば或は不敬に渉るかも知れぬ(それも解釈次第で)大の字逆様の神諭には一つも批難すべき意義は絶対に無い事を私は茲に言明して憚らないので在ります。
 二千年の昔に於て天国は近けり悔ひ改めよ、とナザレの耶蘇は絶叫され、三千年の古に印度の釈迦は欣求浄土と唱へられ、孔孟は治国安民の大道を説かれた。併し乍ら耶蘇以后に耶蘇現はれず。釈迦以後に釈迦現はれず。孔孟以后に孔孟出現せざる為折角の賢哲の至誠も訓戒も水泡に帰して了つて今日の世界の現状であるが、之には何事か古より深く深く秩序的に妨害を成し来つた悪神の潜み居れる事は御神諭に示されて在る通り、悪魔の計画も弥々公表される機運が到達したのである。然るに今の人民は盲目聾斗りであるから、何程に実地の証拠を見せて与りても誠に致さぬ暗りの世に成りて居るぞよと示されたる如く、公論誌上の記事を見ても、幽霊雑誌の記事を見ても未だ疑うて真実と思はないで、際物的小説の如うな考へを以て遇しつつあるのは実に国家の為慨嘆措く能はざる次第であります。
 昨年の神諭に医者と坊主と葬式屋の豊年が来るからと曰ふて警告されて在つたが、弥々実現し出したとは実に残念な事である。世界は兎も角として日本内地に於ける恐るべき流行性感冒は漸く猖獗(注 はびこって勢いが盛んであること)の兆を現はし、現に綾部から目と鼻との間に在る新舞鶴町にさへ、日々十人平均の死者が出来るやうに成つた。今後気候の激変に連れて益々蔓延と共に悪性化せむとするで在らう。国民は益々衛生上の注意を怠らざると共に正しき浄き神の信仰に依りて、心身の健全を計らねば成らぬのである。政府当局では愈々となれば今度こそは総ての興行物を停止し、学校も休校を断行し積極的に防遏(注 ふせぎとめること。防止。)の手段に出られたいと共に、敬神的の行動を国民が採る如うに注意して欲しい。
 天地混沌として常暗の現代は山川草木皆動よみ、所謂古事記の天岩戸隠れの現状である。外国の惨状は勿論我国に於ける資本家と労働者の争ひ、普通選挙期成同盟会の示威行列、電車従業員の同盟罷業、鉄道従業員の大不平は情け無くも一月の餅代廃止に起因し、高等官連までが共鳴して、万一当局が要求を容れねば怠業を断行すると云ふ鼻息である。加ふるに各種学校の昇格運動等数へ尽せぬ程不祥事が続出して国家は将に風前の灯火に等しき状態である。当局者も大に心配されて各地に民力涵養講演会を起したり浪花節を奨励したり、侠客連中を集めて国粋会を結ばせたり、十二分の注意を周らして天下の狂瀾怒涛を治め、平和を招来せむとの焦慮の跡は吾々愚者の鈍眼にも歴然と映じて居るのである。
 併し何程苦心しても画策しても到底人間の力や智慧では今日の天下の濁流を清めると曰ふ事は不可能である。今日は人間以上の神格を具ヘた一大真人が現はれて、天の安河の水を逆さまに流す天の尾羽張の神の再来的活動の力に依らなければ、何人が現はれても今日の始末は付くものでは無いので在る。霊より肉より光輝を放射する如き天使が現はれて、天地神明の表現と成つて活動する一大偉人を何処かの山奥にでも探し出して始末を付けて貰ふより外に方法は無いのである。何れ神々の守り給へる神国である以上は日本国は安心だと言ふものの今日の如き不心得な国民斗りでは如何に神人の徳と雖も楽観は出来ない。日本国民は今この際大に覚醒して敬神尊皇報国の至誠を徹底的に実現実行せねば国家の安危云ふに忍びざることの出来する程の大問題であらうと思ふ。
 一代凡正と云ふ書籍を見ると大正三年から計算して今後九年の後には(当大正十一年)世界が立替ると云ふ事が誌して在つて、同書の四十六頁から四十七頁には左記の予言が載つて在つた。
 今日以後世に何事哉ある、その時に一人好かるるものがあると知れ、是は天の使なり。これを言ふておく、又是より一切万事速座速明の者一人出るなり、これは同く天使にして、必ず不思議を為す、万事わかるとなれば世は幸福にして何の苦しみも無しとなる、これ程よき事は世には在るまいぞよと、天は宣ふて置くなり。又これより世に戦争がある、これとても別に心配苦労にあらず。此の天使を以て聞かば天は一切を告げ給ふ。それ勝利うたがひ無し、それで此の天使がいま日本国にあるなり、これを天よりの御与へなりと此の日本国の人々方々思召されよ。今に出ますよ。
●大正の時は大正の者あらはれて、国の帝に尽す事哉
●此の者は五十齢にして盛りなり、百万千万の敵を恐れざるもの
●此の先に八方より責め来るなり、その時此の者一人にてすむ事なり云々
 然るに茲に大正十一年の七月に成つて満五十齢に成る化者男あり、此の者は大正十七年二月を以て満五十六年七ケ月に齢達す。世の立直しの暁こそは五六七の神の松の世とこそ知られたれ。
 日本は天地開闢の太初より神国と称へ来つた清浄なる国土である。神人一系君民一致を以て宇内に冠絶せる天国の移写である。此神国に生を亭け、斯の国の仁慈無量なる万世一系の天立君主を奉戴し、斯国の美はしき粟を食み以て仏者の所謂極楽浄土に安養されし国民は純朴正直にして敬神尊皇報国の至誠を自然に具有する君子国である。然るに現在我神国上下の状態を視る時は、慄然たらざるを得ざる次第である。何んとなれば神国とは名斗りで其実は一千五百年以前から仏教国に堕して了つて居る。国民の九分以上は皆仏教信者であつて、宗派を立つる事六十有余、大僧正の管長坊主も之に準じて六十有余頭顱並んで居るにも拘はらず、仏祖の本願たる極楽浄土も即身成仏も来らざる而已ならず、世は段々と餓鬼道畜生道に墜落たでは無いか、大僧正や上人さんの仏力で今日の日本を造り上げたかと実に有難ふてナミダが腮(注 人の顎(あご)の両はし。)の辺に伝ふのを禁じ得ないのである。形体上から見ては実に立派な仏教の力も今日の世を救治する事が出来ぬとすれば、仏教は全く無用の長物では無いか、内務当局も仏教徒等の思想界を救治するの権威絶無なるを悟られたか、三教合同の御本尊なる床次氏も終に浪花節の方が国民指導の上に遙に効能が多いと自覚され、奈良丸に対して奏任官の待遇を与へたるは今曰の宗教家に対する皮肉なる良い訓戒である。或る意味に於ては宗教家に対する一大侮辱である。然るに今日の宗教家なるものは残らず無能無識の徒斗りであるから、ソンナ事は少しも介意しないで仏心を妙な処に発揮して、只亡者を墓所まで送つて行つて布施を頂戴したり、愚夫愚婦とやらを誑らかして自分の懐中を暖め、妙な虎穴ヘ埋葬する位より外に功能が無いのである。穴賢穴賢掛巻もかしこき神の教を天下に宣伝する十三派の神道管長殿は今日の思想界の混乱に対してして、如何なる活動を為しつつある乎、杏として其消息を聞かぬ。彼れ等神道家は果して暖かき血液が体内に流れて居るで在らう乎。不思議と謂つても天下に是位な不思議は無いでは無いか。今日の大教正とか称へられて居るエライ生神さんは皆気楽さうに長夜の夢を貧つて御座るのではあるまいか。何れにしても皆大正の奇蹟である。
(「神霊界」大正九年一月一日号)
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