しはうはい(四方拝)
我国三大節の一。元旦の払暁に天皇神嘉殿に臨御して天地四方及山陵等を拝し、年災を攘ひ宝祚の長久を祈りたまふ儀式をいふ。宇多天皇の寛平二年に始まれるよし、江家次等抄第に見えたり。此儀は禁中のみならず、院宮摂関家にも亦行はれたり。禁中にては清涼殿の東庭に於て行はれ、降雨のときは弓場殿にて御拝あり。又天皇御幼少のときは御拝座を設くるのみにて出御なく。又諒闇、日蝕等のときには多くは御拝なきを例とせり。御拝の座には大床屏風を立て廻し、北向に両面の短畳を布きて三座を設け、座前に白木を安置し、香、花、燈を供ヘたり。御拝したまふには、まづ梳髪沐浴を了へたまひて後、近衛中将御劒を取りて候し、蔵人屏風の傍に候して御笏を奉る。天皇座に着きたまひて後、まづ北辰を拝し、次に天地四方山陵を拝したまふ。西宮記に、
「四方拝(蔵人行事、下雨時於[#二]、射場殿[#一]有[#二]御拝[#一])追儺後主殿寮供[#二]御湯[#一]、鶏鳴掃部寮敷[#二]御座於清涼殿東庭[#一]、立[#二]御屏風四帖[#一]設[#二]御座三所[#一](北面、一所拝[#二]属星[#一]、一所拝[#二]天地[#一]、一所拝[#レ]陵毎座有[#二]香花燈[#一])主殿寮供[#レ]燈、女官供[#二]作花香[#一](盛[#二]香花杯[#一]、炉机等在[#二]図書寮[#一]、紛失後用[#二]土器類[#一]也)、蔵人奉[#二]御笏[#一]候[#レ]式(中略)、北向称[#二]属星名[#一]再拝、次呪、次北向再[#二]拝天[#一]、次西向拝[#レ]地、次拝[#二]四方[#一]、次拝[#二]二陵[#一]両段再拝」
とありて、其他儀式の次第は具さに江家次第、建武年中行事、公事根源等に見えたり。足利幕府の中世に至り朝廷の諸儀漸く廃すると共に、此儀も遂に中絶したりしが、文明七年正月応仁の乱後始めて復興せし事、実隆公記に見えたり。同十七年幕府用脚三千疋を献じ、翌年また武田晴信銭千疋を奉りて此儀挙行の用途に充てられし事等、親長卿記に見えたり。明治維新の後、此儀を以て改めて年中恒例の儀式と定められ、神嘉殿に玉座を設けて伊勢両宮、天神地祇、神武天皇御陵、孝明天皇御陵、武蔵氷川神社、賀茂両社、男山八幡宮、及熱田、鹿島、鹿取の三社を拝して泰平を祈りたまふこととなれり。当日午前四時神嘉殿神楽舎に簀薦を敷き、四尺の屏風を立てて御座を設け、燈台二基を供ふ。五時出御、御拝終りて賢所を拝し入御したまふを例とせり。
げんしさい(元始祭)
祝日大祭の一。一月三日宮中にて賢所並に天神、地祇、御歴代の皇霊を親祭あらせらるるをいふ。これ天津日嗣の本始を祝して、歳首に祈りたまふ義なるを以て、元始祭と称す。因て地方の官国幣社以下の諸神社に於ても此大典を遵奉し、祭祀を執行すべきよし、明治八年四月十三日式部寮番外達の神社祭式並に同年八月十二日の教部省第三四号達に見えたり。是を以て一般国民も亦戸毎に国旗を掲げて敬意を表す。
(「神霊界」大正九年二月二十一日号)