霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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第四回公判調書(5)

インフォメーション
題名:第四回公判調書(5) 著者:
ページ:501
概要:被告人出口伊佐男は、不敬事件として問題視された写真の掲示、白馬の飼育、特異な祭服などの点について、「世事に疎かったための不注意」であり、不遜な意図は皆無であったと弁明する。彼は、大本が教育勅語を重んじ、国防献金や国体明徴運動(天皇機関説排撃など)を行ってきた事実を挙げ、これらこそが真の「敬神尊皇」の現れであると主張する。最後に、予審での不本意な自白は判事の誘導や強制によるものであり、自分たちの真意はあくまでも国家への忠誠にあることを訴え、多くの信者に迷惑をかけたことを謝罪して陳述を終えている。 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2026-06-17 08:38:55 文字数:7669 OBC :B195503c220325
  被告人は大本の宣伝機関紙神の国に信者の意識を昂揚せしむる所説を数十回に亘り掲載し信者に閲読せしめたるや。
  其の通り相違ありませぬ、私が神の国に記事を投稿掲載したのは約四十四回であります。
  如何なる事を神の国に掲載し居りしや。
  私は大本に対する信念を書いて居つたのでありまして中には教義に関するものも書いて居り随感随筆創作等も書いて居りました、而して私が書いた文中には言葉の足らぬ処はあると思ひますが、何れも前に申しました皇道を中心とし惟神の大道に基いて書いたものであります。
 裁判長は、
  被告人出口王仁三郎に対する証拠品中、
  証第三七八号
  証第三五号
  証第二〇六号
  証第二、九一四号
  神の国を各展示し、
  被告人が神の国に投稿したる記事は之等に掲載しあるや。
  其の通り相違ありませぬ。夫れ等掲載せられてある記事の内私の名前の書いてある記事を私が投稿したのであります。
  亀岡町及北海道各地に於て大本教義の講話講演を為し信者の獲得及信者の意義昂揚に努めたるや。
  其の通り相違ありませぬ。
 裁判長は、
  被告人出口伊佐男に対する予審第三十六回訊問調書第一問答中の㈥㈦を読み聞け、
  夫れ等の詳細に付予審に於ては斯様に供述して居るが此の通り相違なきや。
  御読み聞けの通り相違ありませぬ。
  大本に於ては皇道を主張せる旨被告人は述べ居るが王仁三郎の言動並に大本の文献に不敬に亘る点ありしや。
  私に注意の足らなかつた点は多々ありますが、父王仁三郎には不遜な気持は少しもありませぬでしたし不敬の行動のあつた事にも気付きませぬでした、父王仁三郎の御訊問の際不敬の行動の疑のあつた数々の点に付て私は大本の責任者として二、三弁解したいと思ひます。
 先つ外国(シヤム)の大信者が父の写真を祀つて居つた点でありますが良く考へて見ますと筧守蔵が宣伝使としてシヤムに出発する際私にシヤムに於て新に大本に入信した者に対して父王仁三郎の写真を渡し度いから父王仁三郎の写真を貰ひ度ひと申しましたので、私は夫れは結構な事であるからと云ふて父の写真を渡しました、然し父の写真を神様として祀る事は申して居りませぬ、之れは寛守蔵の思ひ違ひであり又父王仁三郎の少しも知らぬ事であります。
 次に縦横十二段の仮名書の歌の点てありますが、之れは予審で御取調を受けた際初めて知りました、一昨日の父の御訊問に対し父は自分の書いたものではないと申して居り、夫れは大正十三年頃の歌からヒントを得て作られたものであると申して居りました、私も右の歌は父王仁三郎の作つたものでない事を確信して居ります、私は大正十五年頃迄父の側に居つて総ての片付けものをして居りましたから父が其様な歌を作つて居つたのでありましたら私の目に付かぬ筈はありませぬ、又父の側近者が持つて居つたのでありましたら側近者から聞くか或は側近者の口吻によつても知れると思ひますが、私は其の様な事を聞いた事もありませぬ、其歌を静岡の者が持つて居つたとの事でありますが、静岡の者が持つて居つたのてありましたら湯ケ島の者が書いたのではないかと思ひます、私にも其歌を書いたものは誰であるかと云ふ事は判然判りませぬが、予審で御取調を受けた際今は故人になつて居りますが伊豆湯ケ島の信者安藤唯夫が書いたものではないかと思ひました、同人は従来度々変なものを書いて居つた事がありますので其の書いたものは人が焼き捨てさせましたとの事を大正年間に聞いた事がありますが、誰から聞いたのであつたか判然した事は記憶して居りませぬ。
 次に神聖神社に三種の神器を御神体として御祀りして居る点でありますが、此の事は同神社の御祭りの際に歴代天皇の御霊を御祀りして居るのでありまして神器を同神社の御神体として居る事は最もふさわしい事であると思ひ不敬に亘るとは気付かなかつたのであります。
 次に父王仁三郎が白馬に乗つた処を撮影した写真を恐れ多くも天皇陛下の御写真と並べて掲げて居つた点でありますが、豊生館は個人の青年信者等が集まつて居つた処でありますから如何にして居つたか判りませぬが平素から父は天皇陛下の御写真の取扱には喧しく注意して居り、役員信者等に対し陛下の御写真と自分の写真を掲げるのでしたら同じ処に並べては不可ぬ出来得れば別室に掲げ陛下の御写真は神聖な処に掲げるべきであり神様を御祀りして居る上に掲げるのがよい、左すれば毎日神様を礼拝するのだから毎日陛下の御写真を拝む事が出来ると申して居、地方へ出張する特派宣伝使駐在宣伝使の集まつた席上で申し私等が出張する際にも其の事は呉れ呉れも注意して居りました、此事は東尾、井上等もよく知つて居る事であります、豊生館に陛下の御写真と父の写真を並べて掲げてあつた事に付きましては私共の注意の及ばなかつた事でありまして申訳ない次第でありますが、我々としては斯る事のない様兼々注意して居つたのは事実であります。
 次に父の飼育して居りました白馬の点でありますが、之は父が買ひ求めた如く申して居りましたが其の白馬は信者から貰ひ受けたのでありまして不遜な考へで買つたのではありませぬ。
 次に三角旗を立てて居つた点でありますが之は父の申して居りました通り私共にも気付かなかつたのでありまして私の不注意であり申訳のない事であつたと思ふて居ります。
 父にしても私にしても世事に疎かつたが為めであり不遜な気持があつてした事ではありませぬ。
 次に昭和神聖会の発会式の日の行列の点でありますが之は私の責任になる事であります、然し之れは下位春吉の建策によつて遣つた事であります、私は其の後に知つた事でありますが右の如き行列をしたのは父を警備するのが主であつたのでありまして当時父の許に脅迫的な投書が数通来て居り其の一通は警察に差出しましたが相当危険を感じて居つたのであります、然し発会式の準備は出来て居りますので投書が来たからと云ふて之を取止める事が出来ず予定通りにせねばならぬと云ふ事になり致したのであります、而して会員達が統制ある訓練をしたいと云ふ希望でありましたので遣つた事ではありますが之が必要以上に見られる様になつたのではないかと思ふて居ります。
 今になつて考へますと申訳のない事であつたと思ひますが之も世事に疎かつた為めでありまして不遜な考へでした事ではないのであります、尤も之は警察で問題視せられて居ると云ふ事を本部で知りましたので父に知らせました処父は既に中止して居りました。
  脅迫状が来たるにより王仁三郎を守る為め右の行列をしたりとせば統監旗を立てる必要なきに非ずや。
  微行は卑怯であると感じた為ではないかと思ふて居ります。
  王仁三郎を守る為なりとせば前駆後駆となりたるものは銃器等を持ち居りしや。
  其の様なものは持つて居りませぬでした、其の様なものは持たぬでも父は心丈夫に思ふて居つたのではないかと思ふて居ります。
  黄櫨染の袍「黄櫨染(こうろぜん)」は嵯峨天皇以来、天皇の束帯の袍(ほう)の色と定められている。を王仁三郎が作り居りし点如何。
  私は黄櫨染と云ふ名称は知りませぬでした、私は一度見た事がありますが只黄色い祭服と変りないものでありましたが之を作つたのはずつと以前の事でありまして大正十年以前は祭服を着けた事はありませぬからずつと以前からあつたものではないかと思ひます、私の責任になつてからは用ひた事がありませぬでしたので、私もうつかりして居つたのであります。
  大本に於ては四方拝に真似て六合拝をし居りたるに非ずや。
  天地四方を拝むのは神国の常でありまして大本に於ては六合拝を旧正月元日にして居りましたが直ぐやめました、六合拝と云ふ名前はいかぬと思ひます。
  王仁三郎の作歌の点如何。
  父王仁三郎の申した通りでありまして私には不敬の点はなかつたと思ふて居ります。
  大正十年に王仁三郎等は不敬事件等にて検挙せられ居るが此の事件を被告人は如何に考へ居りしや。
  私は初めて大本に来た際大本は敬神尊皇奉国の団体であると信じましたので入信したのでありますから、私は大本の文献等に不敬の記事のある筈はない、当局が誤解して居られる為めに起つた事件であり此の誤解の解ける日のある事を信じて居りましたので私の信念には少しの動揺もなかつたのであります。
  直及王仁三郎の神懸りに付き如何に考へ居りしや。
  私は特に神懸りを研究した事はありませぬから判りませぬ。
  鎮魂帰神は如何。
  大本に於ては大正十年以来鎮魂帰神は止めて居りました。
  被告人の今後の方針如何。
  私は前申しました如く皇道大本は敬神尊皇奉国の真の皇道精神を発揮する団体であると思ふて居りました、従つて私は右信念に基いて大本の諸運動を指揮監督して居つたのであります、而して之が又大本の指導精神であつたのであります、古い事は省略しますが昭和三年以後の主たる事を申しますと私は昭和四年八月大本瑞祥会長となり大本の重要なる事務を統轄する事となりましたので右信念と昭和三年四月に王仁三郎の為したる訓示の趣旨を体して大本の拡大強化に努力して居つたのであります。
 昭和五年は教育勅語渙発四十年紀念でありましたから、私は此の教育勅語の精神を殊更深く服膺せねばならぬと思ひましたので私は信者等に対し教育勅語の御精神に付き講演し教育勅語謹解なる単行本を発行し且つ神の国に掲載して居ります。
 昭和六年頃になり軍部其の他より皇道日本精神等を強調せられる様になりましたが、予て私等が主張して居りました処と合致して居りましたので、私等は皇道世界の実現が到来したものと思ふて喜んで居つたのであります、夫れで私等は一層皇道精神の普及に活動して居つたのであります。
 其の後満洲事変が起り間もなく軍部から非常時局下の団体訓練が強調せられましたので、私等は直に之に共鳴し昭和青年会、昭和坤生会の団体運動を始め国家的社会的に貢献し銃後の奉公をする考へで居つたのであります、其の趣旨に基いて国防献金、愛国恤兵献金運動を起し、防空展覧会を開催したり国際聯盟脱退運動、神社参拝大家族主義の宣伝をしたりして居つたのであります。
 次で昭和八年一月皇道大本信条を発表しました、之は皇道大本の根本でありまして大本の教義主張を発表したものであり、大本の根本精神なのであります、従つて大本神諭霊界物語等は之を通して見るべきものであり右精神に悖る考へをして居る者は信者であつても信者でないのであります、私は此の大本信条によつても大本の根本目的は明瞭であると思ふて居ります、中には大正十年の不敬事件もあつた為めに筆先の中には不敬に亘る点もあり御皇室に対し奉り不逞の意図あるものの如く疑惑を感じ皇道精神を体得して居らぬ者もありました、私は責任上此の点を判然せねばならぬと思ひましたから昭和八年三月中旬頃亀岡の高天閣に於て父王仁三郎に対し筆先に不敬に亘る点があり、御皇室に対する不逞の考へを持つて居る向あるにより此の点を判然して置き度いと申しました処父王仁三郎はそんな事は判つて居る不敬な意味はない、国体闡明の為めに活動するのであるから積極的に活動せねばならぬと申しましたので、判然の事でありますが嬉しく感じ疚しい点はないと安心しました、若し父に於て不逞の意図があつたのでありますれば、私は父王仁三郎より深く信頼せられて居り且つ親子であり諸運動に携はつて居つたのでありますから、父は私に其の真意を洩すべきものであると思ふて居りますが、父は其様な事は少しも申して居りませぬでしたから私は父に不逞の意思のなかつた事を確信して居つたのであります。
 裁判長は、
  被告人出口伊佐男に対する予審第三十八回訊問調書第一問答を読み聞け、
  被告人は予審第三十八回訊問第一問答に於て既往を顧みて今日如何なる感ありやとの問に対し斯様に供述し居るが如何。
  只今御読み聞けになりました通り私が予審で述べた事にはなつて居りますが夫れは間違であります、其の中には私の申しました言葉も這入つて居りますが私が全然口にしなかつた事も書かれて居ります、私は予審判事より原案を筋の通る様に書けと命ぜられましたが、私は大本教義に疑念を抱いた事はなかつたのでありまして検挙せられて初めて大本教義に疑の掛つて居る事を知つたのであります、而して警察に於ては大本の根本目的を知つたのは昭和二年頃であると押付けられましたので其の通り認めて置いたのであります、其の後予審に於ては大正十四年十一月頃から地方へ出張して居るのであるから何も知らずに行く事は出来ぬ大正十四年十一月頃に認識があつたものと認められ筆先霊界物語等を読んで認識した事にせられて仕舞つたのであります。
 其の次に現在の心境を書けと命ぜられましたが之には困りました、私の真の心境を書きますれば従来作成せられた予審調書は根柢から覆されます、夫れで仕方なしに従来認めて来た予審調書と辻褄の合ふ様に、又私の気持を彼方此方に出して書いて出しました処夫れでは十分でありませぬでしたので私の気持を現はして居つた処は全部抹殺せられ御皇統を廃止して王仁三郎が世界の統治者となるのであると申した事はないのでありますが其の通り書かれましたので仕方なしに認めたのであり、私の書いた原稿は予審にありますから、之を見て貰ひましたら万年筆によつて判事が訂正せられた処が明になります、従つて私は大本に於て昭和八年四月国体闡明運動を起して居り、之れは父が名付けたのでありますが此の事は右の事情で申上る事が出来なかつたのであり、又最後に大本は不逞の意図のあつた団体である事を知つたと認めた後で夫れが判つて居つたら清算すべきではなかつたと云はれましたに対しても御答へする言葉がありませぬでしたから黙つて頭を下げて居つたのであります。
 尚此の際申上げますが私はもつと積極的に活動をせねばならぬと云はれましたので昭和八年四月国体に目覚る運動を起し皇道宣揚運動として座談会、講演会、展覧会を開催したり等して皇道宣揚に努めて居つたのであります、大本は斯る運動を起して居つたのでありますが当局からは疑惑を持たれて居る様に思ふて居りましたので、其の点に関しては十分注意して居りました、夫れが為め大本に於ては対外的な運動をするばかりではなく対内的にも信者を指導し特派宣伝使を派遣し皇道の宣揚に努力して居つたのであります、又昭和青年会及昭和坤生会の査閲分列式は各大祭毎に行はれて居りましたが、其際には皇道の本義を内容とする総裁の訓示を読んで居りました、而して御皇室の為め国の為めに奉公する様に努力して居つたのでありまして信念に反する訓示は出来るものではありませぬ、之れによつても大本は真の皇道を宣揚して居つたものである事は明であります、又大本は大祭等に際しては中央に国旗を掲揚し国旗に敬礼し国歌を合唱し陛下の万歳を三唱して居りました、之は皇道の表はれであります。
 皇道大本は皇道の美名の下に不逞の意図を持つて居つたとの趣旨の事が予審終結決定書に書かれてありますが全然左様な事はないのでありまして、大本に不逞の意図があつたのでありましたならずつと以前に於て既に潰されて居つたと思ふて居ります、大本の一部局を見て其の教義を曲解せず大所高所から見て頂き度いのであります、又昭和九年七月父の提唱により昭和神聖会を創立しましたが此の主義綱領を見ても皇道を宣揚して居る事が判ります、此の主張は私の信念にも合致するものでありまして大義名分であります、昭和神聖会発会と同時にワシントン条約廃棄問題に付て与論を喚起する為めに講演会を開き昭和十年二月には天皇機関説問題を皇道の大義に基いては容れられるべきものではないのでありますから、父に申しましたところ国体明徴の為活動を起せと申しましたから全力を挙げて活動し且つ国体明徴の祈願を為し伊勢神宮参拝の団体を組織したり東京に於ては皇城の遥拝底本では「遥」ではなく「逓」だが誤字であろう。をしたり等して居りました、又昭和九年十二月二十三日は皇太子殿下御誕生満一ケ年でありましたので父を先導として信者一千名と共に宮城前広場に於て天壌無窮の祈願を為し次で万歳を奉唱しました。
 以上申上げました如く諸程の皇道発揮の運動をして居つたのでありまして大本の精神が此処にある事を御承知願ひ度いのでありまして以上は私の責任上多くの会員信者の冤を雪き度い為め申上げたのであります、尚此の際父王仁三郎に御訊問になりました点に付て申上げます、宗教博覧会の如水が書いた画の点でありますが、之は父の全然知らぬ事であり役員が造つたものでありまして不敬不逞の意図はなかつたのであります、次に昭和青年会創立に付き大深は指揮して居つたとの事でありましたが、創立当時は伊藤、林等でありました、原稿を作つたのは大深でありますが、大深が関係したのは其の後の事であります、又私の警察に於ける供述中役員として指導した人々は誰々かとの問に対して私は軽い気持で誰々であると答へて居りますが、法律にある指導者であつたら否定して取消さねばなりませぬ、又日本と世界の大戦争に付いてでありますが、日本は一方的に戦争を起すものではありませぬ、止むに止まれずに戦ふのであります、之は皇道精神の実現の宿命であります。
 最後に此の公判に於ては信念の儘を申述べさせて貰ふた事を非常に喜んで居ります、私は皇道精神に副ふ如く心掛けて居り不敬不逞の意図はなかつたのであります、皇道精神を信奉し国家非常の際懸命の奉公をせねばならぬ時に斯る罪名によつて裁を受けて居る事は最も遺憾とする処でありまして私の不注意であつた事を痛感して居ります、上御一人に対し奉り申訳ない次第でありますと共に多数の信者会員に対し迷惑を掛けた事を思ふと胸をつかれる思ひがするのでありまして心中御詫をして居る次第であります。
 清瀬弁護人は、
 裁判長の許可を得て、
 右被告人に対し、
  日本に於ても立替立直を為すべき点存するに非らずや。
  総て皇道の大義に基く様皇道政治の基礎を確立するに付ては諸制度の立替立直をせねばなりませぬ、従つて日本の立替立直は国体に基き諸制度の立替立直をするのであります、而して立替は破壊立直は建設であると解せられて居りましたから実際と違つて居つたのでありまして、立替、立直は結びつひたものであり分離すべきものではないのであります。
  天皇機関説排撃運動も立替立直の中に含まれるるや。
  之れは中潔斎に属するものでありまして立替立直の中に含まれて居ると思ふて居りました。
 裁判長は、
  本日は此の程度にて公判を続行す次回公判期日を来る八月十七日午前八時と指定し訴訟関係人に出頭を命じ閉廷したり
 昭和十三年八月十五日
   京都地方裁判所第一刑事部
      裁判所書記 大西正紀
      裁判所書記 南武雄
      裁判長判事 庄司直治
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