私は本当の信仰とは一心になつて神様を表に出て頂くやうにする事だと思ひましたが然しそれに就ては如何しても其筋の許可を得なければならぬと考へました。けれ共私は商人の事でもあり其様な事には目も見えず、経歴もないので幾度届を出しましてもお取上げにならぬ許りでなく人々からはホーケて居るとか気違だとか笑はれましたが其様な事は一向平気で、兎に角神様に表に出て頂かねばならぬと一生懸命になつて居りました。
其後間もなく(明治三十一年六月十六日)裏町へ聖師様をお迎へして帰りましたが、帰る途中で種々聖師様からお話を聞かして頂きましたので、此の人(聖師様)が本当に御苦労下さる人で神様のお力になるお方だと内々信じて居ました。又聖師様さへお越し下されば警察のお咎めもないやうになるに違ひないと思ひました。
愈聖師様が御越し下さつて続いて御在綾下さる事になりましたに就きましては、今迄の土蔵では狭くなりましたので中村竹蔵氏の家を借つて神様を祭る事に致しました。勿論お祭りするに就ては何彼と聖師様の御指図をいただき教祖様の御命令に従ふて準備をいたして居りました。聖師様が御越し下さつて斯様に進んで来たなり、初めてのお祭りをするのだから、お祭りには高張を一対新調したいと私は思ひまして教祖様に其紋を如何なに致しませうかと伺ひました処、教祖様は
「金光さんの紋はヤツナミぢやが私の紋は九曜だけど」
と仰有いましたので私はそれでは九曜に致しませうかと申上げますと教祖様は
「そうして貰ひませう」
と仰せられますので、私は山家へ帰りまして提灯屋へ註文致しました。
愈お祭りの当日になつて提灯が出来て来ましたので査めて見ますと九曜の紋を依頼して置いたにも拘らず十曜の紋になつて居ります、さあ之は申訳のない事だと心配しながら教祖様に此由を申上げますと教祖様は
「御都合の事でせう、神様にお伺ひ致しませう」
と仰有られて神様に御伺ひされた後
「やはり御都合があつて神様が十曜にさせなさつたのであるそうです」
と承はり私も胸を撫でおろし皆で喜んでお祭りをさせて頂きました。
翌日、教祖様は神様から伺つたとて十曜の紋の意義を次のやうにお話下さいました。
「九分と一分との戦とも言へるし、又出口の紋は九曜であつたが聖師様がお越しになつて初めてのお祭りから聖師様を加へて十曜になつたとも言へるし、又今迄の九分の御守護が十分になつたとも言へる。今迄天と地とが別れて天は九分になり、一分は地に落ちて居られたのが、神様でも行をなされて高い神様からお力を戴いて天に上り和合なされて愈十分の御守護になつたとも言へる……と種々に神様が仰有います」
と教祖様から承はりまして、私もそんな御用なら実に結構な事であつたと喜んだ次第であります。それから後教祖様も聖師様も役員達まで十曜の神紋を羽織などにつける事を許して頂いた事もありました。
尚其節教祖様は
「因縁はよい事斗りではない。神様でも別れたり、合うたりする事もあります。こんな事も先になる程分つて来るが、兎に角世界にある事は大本に総てあるから、よい事が出来ても悪い事があつても腹を立ててはなりません。皆都合の事ぢやで」
と教へられました。