霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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10 祖父の再生

インフォメーション
題名:10 祖父の再生 著者:
ページ:16 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2023-10-01 18:25:59 OBC :B121808c13
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]神霊界 > 大正10年2月1日号(第134号)【出口王仁三郎執筆】 > 故郷乃二十八年
 (とり)(まさ)に死なむとするや、(その)(かな)し。人の(まさ)に死なむとする、(その)(げん)や良しとかや。家内(かない)のものを貧乏に苦しめて置きながら、死ぬ三日前には(さい)の歌まで作つて、博奕(ばくち)趣味を徹底的に死後にまで続行しようとした祖父も、最後の日になつてから、和魂(にぎみたま)幸魂(さちみたま)の発動に依つて死後家内の心得や孫の身を守護することまで遺言したのであつた。其の二魂(にこん)の至誠が凝結して王仁(わたし)が六歳の年まで幽体を顕はし、山へ行くも川へ行くも、隣家(りんか)へ遊びに行くにも、腰の(まが)つた小さい爺さんが付随して居つたのを、王仁(わたし)は七歳になるまで、(わが)()には祖父(おぢい)さんも祖母(おばあ)さんもあるのだと確信して居つたのである。それが(にはか)に見えなく成つたから、
『物言はぬ祖父(おぢい)さんは何処(どこ)()つたか』
と祖母に問うて見ると、祖母は驚いて、
『それは祖父(おぢい)さんの幽霊だ、祖父(おぢい)さんは(ばう)一歳(ひとつ)の冬に死なれた』
と聞かされて、(にはか)に恐くなり、臆病風に襲はれて、暫時(ざんじ)は一人で隣家へ遊びにも得行(えい)かぬ様になつたことがある。
 王仁(わたし)が六歳の時、(あやま)つて烈火の中に転げ込んだことがある。その時にも祖父(おぢい)さんが何処(どこ)からとも知らず走つて来て、火中から曳き出し助けて呉れた王仁三郎はこの件について、実際には自分の霊が祖父さんと感じて見ているだけだと述べている。三鏡714『他神の守護』参照王仁(わたし)左腕(さわん)に大火傷の(あと)がのこつて居るのは、其時の火傷の名残りである。
 祖父(そふ)は至つて潔癖であつて、野良へ出て畑を耕すにも、草切れ一本生やさぬ()うにした人である。偶々(たまたま)一株の雑草があると、それを其場で抜いて土中(どちう)に埋めて了へば良いものを、態々(わざわざ)(くち)にくはへて東から西まで一畔(ひとあぜ)を耕し(をは)るまで放さず、(あぜ)の終点まで行つた所で、之を畑の外の野路(のぢ)へ捨てるのが癖であつた。
 祖父(おぢい)さんが死ぬ三日前に祖母に(むか)つて云ふには、
(わし)も今死ぬのは(いと)はぬが、一つ残ることがある。これを遂行せなくては、産土様に死んでから申訳(まをしわけ)がない』
と云つて泣き出す。そこで祖母が、
『それは如何(いか)なることが残るのですか』
と尋ねると、驚くべし、
()だ屋敷と倭屋(わいをく)小町田(こまちだ)が残つて居る、これを全部博奕を打つて無くしてしまはねば、(わし)の使命を(はた)すことが出来ぬ』
と曰ふのである。
 家内(かない)を一生貧乏に苦しめ、其上(そのうへ)永らくの看病をさせて置きながら、なほ()き足らいで、家屋敷を売るところまで負けない(うち)に死ぬのが残念なとは、何たる無情の(げん)ぞと、呆れて少時(しばし)は祖父の病顔を熟視し、涙を流して居られると、祖父が云ふには、
宇能(うの)よ、(さだ)めし無情惨酷な夫ぢやと思ふであらうが、毎時(いつ)もお前に言ふ通り、因果ものの寄合(よりあひ)ぢや。お前が(わし)の家へ嫁に来てからといふものは、一日片時も安心させて歓ばしたことは無し、(わし)も実にお前に対して気の毒で堪らぬけれども、何とも致し方が無い、(みな)先祖からの(つみ)(ほろぼ)しに(うま)れて来たのだ。上田の先祖は広大な地所を私有し、栄耀栄華に(くら)して来たので、衆人(しうじん)の恨みが(この)上田家に(とど)まり、家は断絶するより道の無いところを、日頃産土様を信心するお(かげ)で、神の深き御仁慈(ごじんじ)に依つて大難(だいなん)小難(せうなん)に祭り替へて助けて下さるのであるから、私が死んだ(あと)孫子(まごこ)に伝へて一層信心を固く()て呉れよ』
との涙ながらの教訓であつたのである。
 次に(また)祖父が遺言して、
『孫の喜三郎は、到底上田の家を()がすことの出来ぬ因縁を(もつ)(うま)れて居る。()れが成人の(あかつき)は養子に()つて呉れ。此の上田家は再び(うま)(かは)つて(わし)が相続する』
と謂つたといふことである。
 祖母は(わざ)とに笑顔をつくつて、
『今一度博奕の相手を()んで来るから、冥途の土産に、心地よう博奕に負けて家屋敷を無くして先祖からの罪障(めぐり)除去(とつ)て下さいな』
と云うて見ると、祖父は、
()や、お前がそこまで言つて呉れる赤心(まごころ)有難(ありがた)いが、モウ眼が少しも利かぬ()うになつたから、是非が無い、直ぐに又(うま)(かは)つてお前のお世話になる』
と謂つて落涙に(むせ)んだと云ふことであつた。
 王仁(わたし)は五歳の時脾肝(ひかん)の病に(かか)り、腹部のみが太く、手足は(ほとん)ど針金の幽霊の()うに痩せ(おとろ)へて来たので、両親は非常に心配して、各地の神社や仏寺(ぶつじ)に参詣して、病気平癒の祈願を()て呉れられたが病気は日夜に(おも)るばかりで、何の効験(しるし)も現はれなかつたので、父母は人の勧むる(まま)蟆蛙(ひきがへる)の肉を料理し、之を醤油の付け焼きにして、毎日々々王仁(わたし)に一二(へん)づつ食はして呉れた。王仁(わたし)が食はうとすると腰の少し(まが)つた小さい爺さんが出て来て、睨みつけるので、何時(いつ)も喰つたやうな顔をして父母に隠して棄てて居つた。()()の祖母の夢に、祖父(おぢい)さんが出て来て、
『孫の喜三郎には(かへる)のやうな人間の形をした動物(いきもの)を食はしてはならぬ、喜三郎は神様の御用を勤むる立派な人間に()るのぢや。孫の病気は産土の神様のお(とが)めであるから、一時(いちじ)も早く小幡神社へ連れて詣れ、そして今後は敬神の道を忘れぬやうに、梅吉や世根(よね)(をし)へて()れ』
との事であつた。
 祖母は夜中(やちう)に眼を醒まして、直ちに王仁(わたし)の両親を揺り(おこ)し、神夢(しんむ)(むね)を伝へた。父母はそれを聞くより王仁(わたし)を曳き(おこ)し、(せな)に負うて小幡神社へ参詣し、今まで敬神を怠つて居たことの謝罪を()たのである。其の翌日から段々と王仁(わたし)の重病が快方に(むか)ひ、二ケ月間ほど経て全快することとなつた。産土の神の霊験と曰ふものは実に偉大なものであると、時々祖母の話であつた。
 明治七年正月元旦大本年表では、明治7年(1874年)新1月4日(旧11月16日)生まれになっている。大地の母では「明治七(一八七四)年の松の内」(みいづ舎版第1巻p29「波濤の図」)と日付が記されていない。の日の出と共に王仁(わたし)の弟が(うま)れた。父母は死んだ祖父に赤児の顔が酷似して居つたので、是は全く爺さんの再来であらう、(また)成人したら博奕打ちになつて、両親や兄弟を苦しめやしないであらうかと心配して居つた。祖父が吉松(きちまつ)、父も吉松なので、松の字を入れて由松(よしまつ)と命名したのである。その由松が四歳になつた夏、畑へ父母が草引きに連れて行つて畑の中に遊ばして置いた。四歳の由松は、畑の草を引抜いては(くち)にくはへ、(くち)充実(いつぱい)になると畑の外へ持つて出て捨てるのを見て、アツと云つて驚いて()ると、無心の由松の(くち)から思はず知らず『(おれ)が判つたか』と叫んだのである。(いよいよ)間違ひ無き祖父吉松(きちまつ)の再生と()ふことを確信したのであつた。
 父母の心配した通り、由松は十三四歳の頃から、そろそろと小博奕(こばくち)を打ち出し一旦は屋敷も小町田(こまちだ)も全部(ぼう)に振つてしまひ、倭屋(わいをく)は明治三十三年神霊界では「卅四年」になっている。旧二月七日に祝融子(しゆくゆうし)火事のこと。に見舞はれて、多からぬ財産を全部(はひ)にして了つたのである。
 其の時は王仁(わたし)は綾部へ来て出口開祖と共に艮の金神様に仕へて居つた。さうすると、穴太の弟から「イヘマルヤケ ルイクワモケガモナシ」と云ふ電報が届いた。早速開祖様に其の(よし)申上(まをしあ)げると、開祖は驚かれるかと思つたら、さも嬉しさうに、
『アア左様か、結構でした。それは結構なお利益(かげ)を戴かれました。先生も早く艮の金神様と、穴太の産土の神様へお礼を申しなさい。(わたし)も一緒に神様にお礼申して上げます』
とのお言葉である。
 其の時は王仁(わたし)も開祖の言行(げんかう)()いて少しはムツとしたが、()く心を落着(おちつ)けて考へて見ると、開祖の御言葉に敬服せざるを得なかつたのである。
 上田の家は一旦塵片(ちりきれ)一本も無い様に貧乏のドン底に落ちたが、其後(そのご)神様のおかげで、祖先から持越(もちこ)しの罪障(めぐり)を払つて貰ひ、再び出口家より元の家敷を買ひ戻し、小さいながらも以前より余程立派な家を建てて貰ひ、祖父の再生したと云ふ弟の由松が、元の屋敷で上田家の相続を()()るのは、(みな)昔から一定不変の神則であつて、人間の智慧や考へでは如何(いかん)ともすることが出来ぬといふことの、実地の神証(しんせう)であると思ふ。
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