天主一物を創造す、悉く力徳に因る。故に善悪相混じ、美醜互ひに交はる。
といふ一節があります。此世の中の総ての物、即ち無限大の宇宙と雖も、或は太陽でも、地球でも、亦た月でも、星でも、吾々の身体でも、或は山川草木に至る迄、総て一切の物が、皆な善と悪とが相混じてをり、或は美と醜とが互に交つてゐるのであります。善許りでもいかぬのである。又悪許りでもいかぬのである。而して此の善悪とは如何なるものかと言ひますのに、
善 (霊)
悪 (体)
霊体(力) 善悪混交
であります。善は透明体なる霊魂である。天帝から賜つた所の、至粋至純なる、清い清い霊魂であります。凡て太陽でも、地球でも、其他一切の物には皆な霊があります。草木に至る迄、霊の無い物はない、而して霊と謂へば、必ず至善なるものであります。又体とは物質そのものであります。それで之を善と対象して、悪といふことになるのであります。例へば人間が日々生存して行く上に於ても、或は魚を取つて之を食料に供するとか、或は米を食ふ、野菜を取つて食つて了ふ。是は一方から言ひますれば、破壊する方、殺す方であつて、悪であります。併し、其霊の在る所の一切の物、即ち魚であるとか、米であるとか、之を食料にせなんだならば、吾々の身体は保つて行くことは出来ぬのであります。それであるから、人が本当の善計りを行ふと致しましたならば、米、魚一つも食ふことが出来なくなつて参ります。米、魚は決して大きくなつて、人に食はれやうといふやうな観念は有つてをりませぬ。又蚕を大切にして養うてをりますが、此蚕も繭を作つて蛹となり、さうして孵化して蛾となつて、其の子孫を遺さうといふ考はありましても、熱い所で蒸されて殺されて了ふ。さうして絹糸にされるといふやうな考は、持つてをらぬのであります。けれども其の殺生を敢てしなければ、世の中の用を足す事が出来ぬのであります。仏教では之を善悪不離、善悪一如と謂つてをりますが、実際世の中の何事をするに就ても、総ての物が皆な善悪混交してをります。大魚は小魚を呑み、小魚は虫を喰ふ、猫は鼠を食ひ、鼠は恙といふ虫を捕ります。斯ふいふ工合に銘々職業がある。天職を持つてゐるのであります。さうして其の天職を果たさなければ、生存が出来ないのであります。唯だ善斗りを思つてをつたならば、霊界だけのことより出来ませぬ。霊界にヂツトしてゐるより仕やうがない。是では霊に力が出て来ませぬ。又悪斗りでもいかぬのであります。善の中に悪があり、悪の中に善がある、山を一つ見ても、頂があれば谷もある。木を見ても幹があれば根もある。人間の身体も亦さうでありまして、頭もあれば、足もある。或は左右に鏡のごとき眼があるかと思へば、尻のやうな妙な所もあるといふやうな工合になつてをります。併し是は何れも必要なものでありまして、皆な善悪相混じ、美醜互に相交はつて出来てゐるのであります。又陰があれば陽がある、鳴り鳴りて鳴り余る所の男があれば、鳴り鳴りて鳴り合はぬ所の女がある。又昼もあれば夜もある。何時も昼斗りあつて欲しいと思つた所が、昼斗りであつたならば、草木は発育することが出来ない。夜があつて始めて露が出来て、草木の成育を助けるのであります。又人間も昼斗りであつたならば、身体を休めることが出来ないのであります。又月夜と暗夜とあります。月夜には水気が地上へ下つて、暗夜の時よりも余程多いのであります。併し月夜許りであつたならば、水気が多過ぎて植物に害があります。そこで暗夜があつて之を調節するのであります。此の如く世の中の物は、善悪、美醜、上下、陰陽、明暗、斯ういふ工合に総て裏表で出来てゐるのであります。五六七の世の中も丁度さうであります。矢張善悪相混じ、美醜互に相交はらなんだならば、五六七の世の経綸は出来ぬのであります。五六七の世にするには、最も善なる鏡を出した、善一筋の厳の御魂が現れて来る、或は体系に属する所の、緯の御用を勤める瑞の御魂が現れて来るのであります。善悪がなければならぬのであります。此霊を指して『チ』と謂ひ、体を指して『カラ』と謂ふのであつて、所謂霊体合致した所が、『チカラ』──力になります。此霊を何故『チ』と謂ふかと申しますと、吾々の身体には大動脈が通つてをる。亦血管細胞には、皆な赤い血が流れてをります。此血の赤いのは皆な霊魂であります。それで赤誠とか、赤心とか、或は自分の赤い血を、切つて見せてやりたいと言ふ者がありますが。此血には純良なる精神、霊魂が遍満流通してをるのであります。医学上では、之を赤血球の集合体のやうに申しますが、又此中に白い血─白血球が交つてをります。此血は身体を発育させるのでありますが、赤い血はさうではない、自分の霊魂精神の思ふ儘に四肢五官を止めたり、動かしたりする所の霊能、体能を持つてをるのであります。即ち此の血液は赤い血と、白い血と相交つて、動静、解凝、引弛、分合の働きをしてをるのであります。若しも霊魂が赤い血の中から出て了つて、死人となつた時には、此の血は霊魂が全部出るが最後、一時間も立たぬ中に凝結して了つて、真黒い血となつて了つて動かなくなる、それに随つて四肢五官共に動かなくなります。詰り霊と体、即ち善悪相混じ、美醜互に交つて、総ての活動が出来て来るのであります。
五六七の世となれば、至善、至美、至真の世となつて、天は飽迄青く、本当に明かな、鏡のやうな、水晶のやうに透き通つた世になると、思ふ人があるかも知れませぬけれども、決してさうではありませぬ。矢張其の半面─影には暗黒面があります。どうしても働を生じ其力を出さうと思へば、善悪相伴つて行かなければならぬのであります。而して悪が勝つた時には、体主霊従となり、霊が勝つた時には所謂霊主体従となる。併し霊許りが勝つ気遣はない、何故かと言ふのに、霊と体と一致したものだからであります。例へば霊が五分、体が五分であつたならば、是は固より霊が上であるから、霊主体従といふのである。霊が四分で体が六分、或は一厘でも体の方が多かつたならば、是は体主霊従の方に傾いて居るのであります。
大本の三ケ条の学則の第一に、
天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし。
とあります。此の天地間の真象─姿をば見ましたならば─総ての活動を見ましたならば、神さまの御実体の顕現といふことが分ります。山川草木皆な神であると言ひましたならば、汎神教の如く思ふ人々が沢山有りますけれ共、実際は皆真神の中に包まれたものであります。第二条に
活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すべし。
とあります。凡て世の中の物は皆な活物であります。宇宙が運行する、或は太陽、月、地球、其他一切の物、或は人間なり、総ての物は皆な活きてをる、活物であります。是には皆な心性─心があるのであります。心がなかつたならば大きくなることはない、草木にも矢張草木の魂があるのであります。高天原に神留座すて、此の至大天球─宇宙内には、神霊の元子が充満してをるといふことが分るのであります。次に
万有の運化の毫差無きを以て、真神の力を思考すべし。
とあります。万有の運化─即ち春になると花が咲く、桜の花は八、九月の頃には咲きはせぬ。梅は二月頃開く、秋は稲が稔り、冬が来れば雪が降る、総て斯ういふ工合に、万有の運化は数億万年の昔から、毫も変つてをらぬのであります。之に反して吾々が仕事をする、或は道を歩きましても、今日は十里歩たが、翌日は八里しか歩くことが出来ぬ。又其の翌日は身体が痛くて、動くことが出来ぬといふやうなことが出来て参ります。又朝は御飯が三杯食べられたのに、昼は二杯しか食べられぬ、或は四杯食ふこともあるといふ工合に、中々揃はぬのであります。併し神さまの御活動は、幾億万年の昔から、少しも変つたことが無い。一厘一毛も間違ふたことはないのでありまして、実に規律正しいものであります。若しも此の神さまが一分間でも、或は二分間でも休まれましたならば、世界は死滅─滅亡するよりしやうがないのであります。此の宇宙間に遍満する所の空気と雖も、矢張り神の息であります。若し神さまが御活動を御休みになつて、一切の物を止められたならば、此の宇宙は瓦斯斗りになつて了つて、人間は一分間も生きることが出来ない。人間許りでない、世界一切の物は死滅する許りであります。此の如く神さまの力は偉大なものであります。之を学者は天然力とか、自然力とか謂つてをるけれども、世の中に偶然といふものは一つも無い、それには皆な因つて来る所の原因あり、訳があるのであります。此事を十分研究しやうと思へば、言霊学に依つて、古事記を詳解すれば能く分りますが、是は中々長くなつて、一時間や二時間で御話することは出来ませぬから、是は省いて置きます。
或は之をばモウ一つ下つて、人間が或る一つの働をする、或は斯ういふ五六七殿を建てると致すならば、山に生へてをる木を伐採しなければならぬ。木は惟神に山に生へてをるのである。日光、風雨、御土の恵─神さまの御恵みに依て生へた、生々としたる大木を、鉞や鋸で打倒さなければならぬのであります。是は一方から見れば悪である。或る意味に於ての破壊であります。けれども之をせんければ、利用厚生の道は立たぬ。必要に迫られてをるのであるから、決して之をば悪いといふことは出来ませぬ。斯ういふ工合に、世の中一切のものは、総て善悪混交し、美醜互に交つて行かなければならぬのであります。それを誤解して、何もかも善一筋の世になると、斯ういふ考へを起す人は、大なる誤りであります。是は言ふ可くして行ふことは出来ぬのであります。又吾々が命を保つて行く以上は、矢張り食物を食はなければならぬ、雨露を凌ぐ為めには、家も造らなければならず。又着物も纏はなければならぬのであります。さう致しますには、矢張り或る一つの破壊をせんければならぬ。併し之を破壊ぢや、それは悪ぢやと言つてをつたならば、一日も此の世の中に生き存へることは出来ない。又世の中の用をすることも出来ないのであります。
皇道大本は至善、至美、至真の道、即ち敬神、尊皇、愛国の大道を説いてをるのである。さうして現代、未来を救はうと、大活動をしてをるのであります。此儘抛つて置いたならば、日本国は愚かなこと、世界の人民が塗炭の苦みに陥ることは、火を睹るよりも明かなことである。今足下に火が燃へてをるのであります。之を眼前に見て、何んで座視することが出来ませう。少くも活きた血の通つた、日本魂を有つた者ならば、ヂツトして傍観してをることは出来ないのであります。今日は斯ういふ危急の場合になつてをる、それを救はんとして、皇道大本は活動してをるのであります。それをば、一方からは不敬の団体であるとか、或は邪教であるとか、妖教であるとか、種々雑多な攻撃をやつてをる。丁度犬が一本橋を渡る時、自分の姿が水に逆さまに映ると同じことであつて、あの犬は逆様に歩いてをる、足を上にして、背中を下にして歩いてをると、笑つてをるのと同様であります。此の大本は水晶の鏡であるから、世間の人々の善悪共に、其の姿が映つて来るのである。兎に角悪い精神を有つて見ると、総てのことが悪く見えます。鏡の出る大本であると御筆先にもありまして、悪人が来て見たならば悪く映る、おたふくが来て見たならば、おたふく面に映るし、坊主が向へば矢張其通りに映る。水晶の鏡であるから、大本が悪く見える其の人間こそ、実に怪しい人間であります。又御筆先に大本は世界の鏡であるから、大本に在ることは世界に在るといふことが書いてあります。皇道大本が、現在一般世間から悪く見られてをるのは、丁度今日日本国が世界各国から、排日運動を受けてをるのと同じことであります。日本は軍国主義であるとか、或は侵略主義の国であるとか、日本の人間は油断のならぬ人間であるとか、斯ういふやうなことを言うて、到る処で排斥を受けてをる、それと対照して見ると、丁度同じことになつてをるのであります。是は御筆先に出てをるのであつて、仕様がないのであります。又国常立尊さま─艮の金神さまは、善一方力の神さまであります。その神さまを、神代の昔に、八百万神が悪神祟り神だと言つて、艮に押込めて了はれた。丁度大本が善一筋をやつてをつて、斯の道の為めに身命を抛つて奮闘してをるのを、淫祠であるか邪教であるとか、或は国賊であるとか言つてをるのと同じことである。艮の金神が悪神ぢや祟神ぢやと言はれてをられるのと、同じ立場になつてをるのであります。三月の節句に菱の餅を飾るのは、艮の金神を菱縄にかけて調伏するとか、五月の節句にちまきを拵へるのは、是は艮の金神の髻を斬るのであるとか、或は正月には雑煮餅を拵へて食べるが、是は金神の臓腑を煮て食ふのであるとか、或は九月には菊の酒を飲む、是は金神の血液であるとか謂つて、調伏するといふのであります。此の如くして、今に至る迄行つてをります。さうして艮の金神を叩き潰して食うて了つた。是で封ぜられて了つたものと思つてをつた所が、豈図らんや叩き潰して了つたと思つた艮の金神は、三千年来世界を遍歴して、さうして世界の状態をスツカリ調べて、愈々五六七神政の先駆の御働をなさるのであります。皇道大本に対して、今日世の中で大本撲滅演説を行るとか、或は叩き潰して了はうとか、或は禁止するとかせぬとか、何やかやと種々雑多なことを、彼方からも此方からも言つて、攻めて来るけれども、是は其実艮の金神さまが、叩き潰して食はれて了つたものと思はれた此の神さまが、却て益々勢好く、世の中の為めに御尽しになつた如く、皇道大本も、そんな攻撃は少しも痛痒を感ぜずに、益々勇気を出して、さうして四面楚歌の中に在つて、敢然として猛り狂ふ荒波を乗り切つておるのであります。是は神さまの御加護があるから出来るのであつて、若し神力がなかつたならば─人間だけでやつてをつたならば、到底出来るものではありませぬ。詰り政治家にまれ、宗教家にまれ、銀行会社にまれ、四方八方から攻め立てられ、新聞雑誌に書かれたならば、忽ち破潰して、バタバタと倒れて了ひます。けれども大本は、所在新聞雑誌に今年で三年間も悪く謂はれ、四方八方から攻め掛けられて居るけれども、ビクともせず、益々発展するのであります。さうして自然淘汰になつて、新聞雑誌に迷信してをるやうな厄雑者は、出て来ぬやうになります。そこで稍智識があり諒解ある人、又因縁のある人は、新聞が何と言はうと、誰が何と言はうと、是は本当のことではない、大本には何か良い事実があるに違ひないといふ、腹底に魂の輝きがあります。さういふ人計りが此の大本に来ることになつてをります。御筆先に
此の大本は、因縁のある身魂を寄せる所であるぞよ。世界の鏡を出す所であるぞよ。百舌も雀も鷹も一緒には寄せぬぞよ。
とありまして、所謂鷹が寄りて来る時で、雀は寄りて来ない、千羽の雀よりも、一羽の鷹の方が余程尊いのであります。是が神さまの御経綸であらうと思ひます。
若し彼等、非似学者や、新聞雑誌の言ふが如く、皇道大本が淫祠邪教であり、不敬の団体であつたならば、法律の権力もあれば、一切の権力のある政府は、之をヂツトして見て黙つてをる筈がない。又之を放任したならば、政府其者は、陛下に対して済まぬのであります。併し当局は世の中の色々の新聞雑誌、或は坊主や、基督教徒や、さういふ連中の中傷、或は密告等を五月蠅く思はれてをるでせう。何が故かと言へば、当局は思想の大問題として、綿密に能く御調べになつてをるからであります。分る所へは能く分つてをる。亦霊界も、上の守護神は分つてをるけれども、下の守護神は中々分りませぬ。艮の金神さまが先だつて現れて、次に竜神が現れて、改心を為てをられても、他の竜神、八百万の竜神の改心が中々出来ませぬ。神界に於てさえ下の守護神には誤解がある如くに、地方の判任官吏には、分つてをらぬのが随分多い如うです。夫れだから忠義顔をして、盛んに邪魔をするのであります。神霊界を取つてをると、購読者を調べて回り、成可的神霊界を取らないが宜かろうなぞと、脅迫的にメンドクサク言つて来て、さうして、大変に邪魔をするさうであります。大本は主義宣伝を目的として、神霊界を発行してをるから、黙つてをるやうなものの若し利益を目的とする本屋であつたならば、営業を妨害すると言つて、腹を立てて、此儘では置かぬのであります。兎も角人民を保護せなければならぬといふ警官が、営業妨害のやうなことをするといふ話はあつたものでない。斯ういふことが、暗りの世といふのであります。此の如く政府当局─上の方には分つてをりながら、下の守護神は分つてをりませぬ。又大本にしてもさうであります。始終大本にをる幹部の人は、能く分つてをるけれども、末の取次になると、色々間違つたことを言ふ。是と同じことであります。是は大本の様子が政府に映り、政府の様子が大本に映つてをるやうなものであります。
此頃青年信者の方が、私の所へ能く来まして斯んなことを言ひます。此の大本は、敬神、尊皇、愛国を説く立派な団体であるのに、新聞雑誌は淫祠だ、邪教だと言つて口を揃へて悪くいふ。又当局は危険思想を喧しく取締つてをりながら、此の大本をば─本当に国家を思つて活動する所の至誠の団体をば、世間が淫祠邪教であるとか、色々なことを言うてをるのに、之を放任して置くのは、却て危険思想を助長せしむるものである、吾々は斯うして誤解せられては、ヂツトしてをる訳には行かないと、非常に憤慨してをる人がありました。銘々一生懸命に誠を立てやうとしてをるのに、それを逆賊扱にされては、誰しも心好いことはない。此儘抛つて置いたならば、どんなことになるか分らぬと、私は憂へたのであります。それが為めに此の噴火口として、此の財界の不安定な中から、大正日々新聞を経営することになつたのであります。実際のことをいへば、本宮山の御宮を拵へて、神さまに御鎮りを願つた其上で、致したいといふ考へでありましたが、是は神様の御都合でもありませうけれども、私一個の考としては、若しも政府に対して迷惑を掛けては済まぬ。それよりも今の中に防ぐ、爆発せぬ中に噴火口を拵へる、是が一番安全の策であらうと、大正日々を手に入れたのであります。詰り是が善悪相混じ、美醜相交はるといふのであります。一方で神聖なる神さまの教をする。他方では新聞を経営して是で宣伝する。新聞の経営には営業といふことが加味されてをります。今日の新聞を見ますと、立派なものは一つもありませぬ。其中に交つて神聖なる神さまの教を宣伝して、以て世の中を指導することの出来る、新聞を拵へやうとするのでありますけれども、どうしても朱に交はれば赤くなるで、幾分か大本の教とは、違うた点が出て来るかも知れないと思ひます。神さまのこと許り書いたならば、信者の方は有難いと考へるでありませうが、一般の人は分りませぬ。最初申上げた通り善悪相混じ、美醜相交はつて、世の中の経綸が出来るのでありますから、此点の誤解を起さぬやうに、御諒解を願つて置きます。
万物の中は有形の中なり、其中測る可し、神界の中は無形の中なり、其中測る可からず。混じて語ること勿れ。
総て一切万物の形の有る物の中心は、有形の中である。一円を二つに割つたならば五拾銭になる。是が本当の万物の中であります。十里の道があつて五里歩いたならば、丁度真中であります。是が万物の中である、一石の籾を播いたならば、一石だけの苗が取れる、又米が取れる、一斗播いたなればそれだけしか取れぬ、是が万物の中であります。併し此の中は人が測ることが出来ます。神界の中は誠であります。無形の中心であります。吾々は之を見ることも出来ず、又之を測る事も出来ぬのであります。之を信仰に譬へて言ふならば、或は五年中学に入つたならば卒業する、三年をれば三年級になり、四年をれば四年級になる。大学に入りても其通り。斯ういふことが有形の中であります。信仰といふことは神さまに対する所の因縁であり、御神徳であります。例へば茲に二十年前から信仰する人と、一年前から信仰する人とがあります。若し是が現界の通りであるならば、前者は二十倍も後者より了解してをらなければならぬ筈でありますが、併しさうではない。唯一遍聞いただけで、二十年信仰してをる人よりも強い信仰を得、より以上に了解会得してをる人があります。是が即ち神様の因縁で、神界の中であります。凡て神さまのなさることは、人間がいくら藻掻いても知ることは出来ませぬ。何程長い竿と雖も、空の星を落すことは出来ませぬ。あの山の上の一間許りの所に月が懸つてをる、自分の丈けでは少し足りないが、長い竿を持つて山へ登れば、確に落せる様に思ふけれども、山へ登つて見ると遙か遠い所に懸つてをる。又飛行機が何程能く昇ると言つた所が、月の世界に到達する事は出来ぬ。其やうに人間が何程賢こいと言つても、神様の御経綸の分る道理がありませぬ。
此の世の中の一切の事を三つに譬へて見るならば、神と人と動物であります。人間は神様の形に造られ、さうして神様の霊を分けて戴いてをるのであります。此の動物の中で、人間に一番能く似てをる、一番賢いものは何であるかといへば猿であります。此の猿は芸をやる、芝居の真似位はするけれども、『歎きつつデカイ眼をむく猿芝居』と言うて、泣かねばならぬ場合の時でも、脇に旨い物があつたならば、眼をむいて飛んで行くといふ工合で、何をしてをるのか猿には分らぬ。唯綱で操られて居るだけのことであります。今日人間が、汽車、汽船、電信、電話、其他色々文明の利器を発明してをりますが、いくら猿が賢うても人間と違う以上、何処迄説明しても分りませぬ。猿どころではない。人間でも所謂智識階級以外の者に、一遍位言うた所で、電信電話がどういふ仕掛になつてをるか、或は蒸汽機関がどういふ工合になつてをるのか、更に分らない。田舎の爺さん婆さんは、切支丹の魔法を使ふのだと怪しむ位である。それより外に理解の仕様がない。此のやうに人間界に於ても、智識の程度に依つて懸隔があるのであります。分らなければ不思議の様でありますが、何も不思議なことはない。皆な必然的の道理に依て出来てをるのであります。詰り猿の人間界に於けるそれの如く、人間は神様のことは少しも分らぬ、又分る道理は無いのであります。人間は素直な心を持つて、神の命の随々するより仕様がないのでありまして、到底神界の秘奥に達することは出来ませぬ。
皇道大本は神界の中を知らして居るのであります。唯現界の中から神界の中を知る為に過ぎないのであります。富士山は雲表に現れてをります。芙蓉の峯は白扇倒様に中空に懸つてをるのであります。是れが皇道大本であります。眼を放つて中空を見たならば、富士山は立派に見へるのであります。所が総ての人は指したる所の指を見て、富士山だと思つてをるのであります。是では富士山が見える筈がない。それですから、ヤレあれは富士さんではない、コリヤ嘘だとか、苦情を列べて来るのであります。是では仕様がない、肝腎の眼の付けどころが違ふのであります。総ての人は取り違ひをしてをる。一段と大きく眼を見張つて、指の先を見ず、中空を仰いで見たならば、秀麗たる芙蓉の峯はハツキリ眼に映ります。大本の神の教も其如くであつて、一般の人は霊眼の働がない、活用することを知らないから、誤解するのであります。故に万物の中と神界の中とは、大変な懸隔があるのであります。