大本では一八九二(明治二五)年旧正月元旦の開教のときから、艮の金神のもとに八百万神がつどい、救世の神業が神定としてひらかれていたのであるが、一九〇〇(明治三三)年にはじまる出修は、その後の大本が独自の教義と活動を展開してゆく過程でもあった。それは世に落ちていた根本神を世にだし世界を一つにすること(冠島・沓島開き)、水と火で世界を洗い浄めること(元伊勢と出雲のご用)、善と悪とを立てわけ神々の改心を求め、大本の立替え立直しをすること(鞍馬山参りと弥仙山ごもり)の型を示したものであって、いずれも大本独自の主張をあらわしていた。それまでは、大本の神は、開祖と、それに心服しているごく少数の信者によって信仰されていただけであったが、出修をつうじて大本独自の神々が表面に登場し、神格や役割がしだいに定まってゆき、本格的な教団活動が進められることになった。
開祖がはじめに礼拝していた神々は、艮の金神(国常立尊)・金勝要の神(須世理姫命)・竜宮の乙姫(玉依姫命)、さらに雨の神・風の神・岩の神・荒の神・地震の神・残らずの金神(よろずの金神)・産土の熊野神社の神などであったが、上田会長の大本入り、ついでおこなわれた出修により、開祖が朝夕神前でとなえる神名も、つぎつぎに多くなった。それには坤の金神(豊雲野尊)・木の花咲耶姫命・彦火々出見命・豊受姫大神・稚姫君命・大国主大神・大島大神(丹後冠島)・小島大神(丹後沓島)・元伊勢神宮(丹後加佐郡)・一宮神社(福知山)・塩釜神などである。
明治三三年旧七月二日の筆先には「艮の金神、坤の金神、世に落ちておいでなされた神様、竜宮の乙姫様、金勝要の御神様、岩の神様、風の神様、雨の神様、荒の神様、地震の神様、残らずの金神、日の出の神、これだけの神のお手伝いがないと、日本は一ころざぞ」という神名が列挙されている。ここにはのちにくわえられてくる神名はまったくでてこないから、大本の主要な神々の神格と役割が、さらに明らかにされるのは、そののちのことと考えられる。
また綾部の神苑が大本で根本の聖地とされているのは、筆先に「綾部には竜門館があるから、こんどの大もうの経綸がいたしてあるぞよ。この竜門館が天地の元の大神の宮屋敷になるぞよ」(明治31・旧7・16)とあり、「出口の屋敷が竜宮館、高天原と相定まりて、元の神が住まい致して、大もうな世の立替えの守護をいたすのであるから」(明治36・閏5・23)とされていることにもとづいている。
したがって、綾部の神屋敷は「地の高天原」と定められ、天地の神々の経綸の場とされるのである。
そのことによって、大本では、綾部の神苑を根本聖地とし、沓島・冠島・弥仙山・高熊山などは、大本神縁の霊場としている。現在、当時の出修をしのび、毎年記念参拝や遙拝をおこなっているが、鞍馬山・元伊勢・出雲については、とくに定まった参拝をおこなっていない。なお弥仙山は、一九〇八(明治四一)年の節分から翌年一一月大本に神殿が造営されるまで、国祖がその地を仮宮としてしずまられていたという因縁と、祭神が木の花咲耶姫命であるということから、毎年四月二八日には、大本の年中行事として多くの信徒が参拝している。