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満州巡教と世界紅卍字会

インフォメーション
題名:満州巡教と世界紅卍字会 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:30 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2018-07-13 00:16:32 OBC :B195402c5122
〈世界紅卍字会赴日団〉 道慈宣揚の目的で中国の世界紅卍字会から訪日した赴日団の一行一八人は、一九二九(昭和四)年九月二二日に神戸道院についた。そこで二三日に聖師は道院におもむいて、団長の王性真や侯延爽(大正一二年にも来日)らの挨拶をうけ、翌二四日に帰綾した。一行は二八日に綾部に参拝して、聖師に道院儀式用の道服を献じた。二九日には、一行は、聖師・二代教主とともに亀岡の天恩郷につき、三〇日の夜、大祥殿の神前で開壇され、さらに翌一〇月一日の夜には書画壇がひらかれている。壇訓のなかにはつぎのように示されている。
尋仁(聖師)は誠に衆生の光明、濁海の導師なり。其誠に因て能く其道を成す。其信に因て能く其心を成す。是れ僅かに大和一隅の明哲たるのみならず、亦東亜大陸の先覚者なり。其悟る所を以てすれば、僅かに東亜一方の安危を繋ぐのみならず、其行ふ所を以て、実に世界人群物類の平安を(さだ)むるに足る。老祖(祖神)は聖師に霊を接して其有する万能の智慧を使ひ以て群衆を導くと共に、老祖は沙木(扶乩の道具)に授け、間接に霊を纂職者に顕はす。其理一にして事は異る。修する者は聖師の能に従ひ、聖霊の光を信じ、亦猶訓文理義の精を信じ神霊の明を感ずる其道一つなり、是を以て今の世に処し、世に行ふべし。(原漢文)
 このほか聖師を礼讃する壇訓が随処にだされた。とくに老祖は道院ではフーチ※(扶乩)によって神示するが、聖師は老祖直接の接霊によって神示して、群衆をみちびくといわれているのが注目される。道院の人たちは、聖師の言はそのまま壇訓であると信ずるようになった。なお壇訓に「老祖」とあるのは「大国常立尊」のあらわれであると、聖師によって説明されてもいる。
 ついで道院と大本、世界紅卍字会と人類愛善会との関係については、壇訓ではつぎのように示された。
中国の道院は即ち日本の大本、日本の大本は即ち中国の道院なり。今両隅(日華)堅道堅修の士既に此に相結び相合ふの処あり、是亦運会の定むる所、数の然らしむるのみ。但各方に望むらくは、界域の念を除去して共に一道の修に嚮へよ。則ち所謂世界大同は必ずこれによって其本を得、所謂世界一家は必ずこれによって以つて其基を(さだ)めん。日本の愛善会の在る所は中国の卍会の在る所、中国の卍会の在る所は亦即ち日本の愛善会の在る所也。道院大本に至っても亦是の如きのみ。
凡そ中国の院、会の在る所は亦即ち大本、愛善会の在る所、名異ると雖も各方相親睦、相結相合の心理は当に一にして別なき也。此日華の結合は大千世界相安を啓くの大本也。
 こうして大本と道院とは、一体的関係であると考えられるようになったのである。
※ 扶乩は、直径七、八分(約二・五センチ)、長さ三尺(約一メートル)余の木製の棒の中央に五、六寸(約一五センチ)の木筆を丁字形にとりつけ、棒の両端を二人で持つ。木筆の下には、砂を盛った巾二尺四、五寸(約七五センチ)、長さ三尺程の砂盤をおき、上位(北方)に神位があり、南方下位に供物をする。礼拝後、棒を持つもの(正纂と裏纂)は意念を断滅していると自然に神霊降下し乩筆が砂盤に文字を書く。これを宣者が読みとり、録者が書きとるものである。また書画壇のときは、乩筆のかわりに毛筆をもちい、砂盤を紙にかえるものである。
 聖師は一〇月三日に、大阪道院の開院式にのぞみ、さらに五日には東海別院の桜井邸におもむき、世界紅卍字会の一行と会合し式事をおえて本部へ帰着した。
 世界紅卍字会の一行は六日東京につき、八日帝国ホテルで開催された東京市長招待の歓迎会に出席した。一一日には大本愛信会で東京総院の開院式がおこなわれたので、聖師は道服を着用してこれを司宰し、その後ただちに天恩郷へ帰着した。
〈満鮮巡教〉 一九二九(昭和四)年一〇月一二日夕、聖師は二代教主とともに朝鮮・満州(中国の東北)への旅にたった。聖師・二代教主の外地への巡教がそろってなされたのはこれがはじめてのことである。随行は井上留五郎・岩田久太郎・北村隆光・加藤明子・宮沢澄江で、一行は帰国する世界紅卍字会の人々と京都から同行した。
 関釜連絡船で一四日に釜山に到着し、普天教李花元ほか二人の幹部らの挨拶をうけた。一五日には京城について、一行は漢京道院の開院式にのぞみ、一八日には国境をこえて安東についた。道院側の出迎え二〇〇余人にのぼり、道院学生の楽隊と合唱とによって、にぎにぎしく歓迎された。安東道院では道歌で迎えられ、さらに市長はじめ中国側有力者・
道院関係者の歓迎会にのぞんだ。この日壇訓かおり、弥勒の神の扶乩で、「おまつり騒ぎをして華々しくお迎へするのは国情の上より面白からず、奉天以後は代表者数名にて真心のお迎へをするやう」との示諭があった。
 一九日には奉天(瀋陽)に到着した。安東道院の壇訓があったにもかかわらず、奉天駅頭には五〇〇余人が、楽隊いりで小旗をうちふり、物見だかい群衆もまじって盛大な歓迎ぶりであった。聖師・二代教主は奉天神社へ参拝、ついで忠霊塔に参拝した。道院関係者の中国人も一行にしたがって参拝した。中国人が奉天神社・忠霊塔に参拝したことはこれがはじめてのことであったから、一般に大きな印象をあたえた。さらに一行は瀋陽道院へも参拝した。ここでも歓迎歌がつくらて歓迎の意があらわされ、面会者が殺到したて寸時の休養もとれないという状況であった。瀋陽道院ではこの日を記念して道院経営の学校に日本語科を設けることになった。聖師にたいする熱狂的な歓迎もさることながら、二代教主にたいしては、道院関係の婦人団体である婦女道徳社の人々が慈母のごとくにしたい、その歓迎ぶりはまことに熱烈なものがあった。二一日には長春につき、二三日にはハルピンに到着して両地の道院に参拝した。
 聖師・二代教主はいたるところで、安東、奉天と同様な歓迎をうけたが、大本の分所・支部にもそれぞれたちより、信者との面接や、聞き伝えて来訪する多数の日本や中国の名士・有力者との懇談と応接にいとまもなかった。帰路においては二六日に平壌および鎮南浦におもむき、三〇日の朝には下関についた。そして同夜に無事亀岡に帰着した。
 この巡教によって大本と道院・世界紅卍字会との提携はますます密接となり、壇訓によって亀岡に日本総行院がおかれ、綾部には中央主院がおかれることになった。そして大本の分所・支部などにも道院の神位が合祀されることになった。
 ことに聖師・二代教主が満州を訪れた頃は、張作霖爆殺事件のあとであったから、対日不信感は極度につよく、日本と中国との国際的感情は冷却し、きわめて険悪な空気がみなぎっていた。したがって「日本人は全く孤立におちいり、満州人から相手にされなかった。外交文書の未決は六〇〇余件に達し、奉天総領事は困りきっていた」(三谷清談)という。こういう状況下であ。たにもかかわらず、聖師・二代教主の巡教は民族的な感情をはなれ、宗教にねざしたものであったから、宗教的同胞として、また偉大なる救世者として熱烈な歓迎をうけた。このことは中国側の官憲ですら驚異のまなこをみはったほどで、当時の「日華」両国の政治家や識者に大きな関心をあたえることになった。
 なお聖師のパインタラ遭難のときに危難を救ったといわれるみ手代(てしろ)が、たまたま長春滞在のおりに聖師のてもとにかえってきたので、帰綾後の一一月四日に、これを大八洲神社のなかに安置することになった。
 聖師は昭和四年一一月一四日、大国以都雄らをしたがえて、山陰の神刕別院におもむいた。ここで大崎正吉の連絡によって、別院に頭山満・内田良平らの一行をむかえることになる。聖師と頭山の一行は出雲大社に参拝し、一九日には松江市官民有志の歓迎会にのぞんだ。その席上内田良平は講演をなし、「世の行詰りは大動乱をひきおこしかねない。これを防ぐのは惟抻の大道に奉仕される人々であり、吾々は大本の教団と手をつなぎ、聖師のとかるる教えによって、すすんで国家のためにはたらきたい」とのべている。聖師は二〇日、頭山・内田の一行とともに綾部に帰着し、さらに二二日には一行を天恩郷にむかえた。ついで聖師は一一月二八日に東上して、政界はじめ各界の人と面談し、一二月一七日に天恩郷に帰着した。
 一九三〇(昭和五)年一月九日には中国から世界紅卍字会の李天真・夏頴誠ほか二人が天恩郷にきて、聖師と二代教主に図像板を献じ、全国各地を巡回して道慈活動をつづけている。三月二一日には、さらに中国より梁慈果ほか九人の一行が天恩郷につき、二二日には大祥殿で、二三日には綾部五六七殿で開壇、日出麿教主補に道名「運霊」との壇訓かおり、書画壇もあった。梁の一行はそのあと各地を巡教した。なおこの年の一一月二日には侯延爽が家族同伴で天恩郷にきた。そして侯一家は、亀岡に居をかまえて道慈活動の任にあたることとなった。こうして大本と道院との結合はいよいよふかくなってゆくのである。
〈聖師の巡教〉 聖師の一行は一九三〇(昭和五)年の一月一五日、伊豆の信者たちにむかえられて湯ヶ島温泉に二週間滞在し、二月中旬には紀伊別院開院式にのぞんで、和歌山県下の各分所・支部を巡教した。
 島根では松江市北堀町赤山のバックストン(英国貴族・キリスト教宣教師)の邸宅が入手されたので、四月二一日には聖師・二代教主をむかえて開院式をおこない、これを島根別院とよぶことになった。また島根県簸川郡東村の吾郷勝哉邸は、素盞嗚尊にゆかりのふかい地であるとして、聖師から地恩郷と名づけられ、別院とされた。
 つづいて聖師・二代教主の一行は五月三日に出発して、九州別院から熊本・島原(寺田邸)・長崎・佐世保・有田(三六分院)・鹿島・佐賀・福岡・戸畑(桜井愛三邸)・豊田(山口県)・岡山などを巡教して、五月二〇日に岡山県和気郡の熊山にのぼった。この熊山は、素盞嗚尊にちなむ神縁の地であるという。ついで別院の候補地として赤磐郡万富村の向山を検分し、二一日に帰郷した。
 六月四日、聖師・二代教主によって、沓島・冠島びらき三十周年を記念する沓島・冠島参拝がおこなわれた。
 九月一四日には、大国・上村照彦の随行で、島根別院・地恩郷・津和野などをへて福岡におもむき、壱岐にわたって、壱岐地方の各支部を巡教された。さらに九月二四日には対馬にわたり、約五〇〇人の信者のでむかえをうけて厳原につき、ここでも各支部の巡教があった。なお聖師からは南室島に将来別院をつくりたいとの話があった。壱岐・対馬の一八支部のうち一四支部にたちよって、一〇月一日に九州別院につき、戸畑をへて五日には天恩郷に帰着した。
 ついで一一月四日に上京し、東京愛信会を皮切りに桐生の朝倉邸・東山分院・大森の岡田邸・静岡分院矢沢邸などへもおもむいて、一一日に亀岡へかえった。一一月三〇日には、城南別院の開院式にのぞみ、一二月八日にはふたたび山陰に出向し、島根別院の開明殿完成式に臨席した。その前後に鳥取・島根両県下の巡教がおこなわれており、同月の一七日帰綾をみた。
〈再度の台湾巡教〉 一九三〇(昭和五)年の一月には、台北で台湾全島第一回の信者大会がひらかれ、分会長に木下雅楽麿が推され、北部・中部・南西部に連合会がおかれた。河津特派についで石丸駐在宣伝使が活動し、台湾宣教はしだいに軌道にのっていた。聖師はこの年の一二月二九日に、二代教主とともに、岩田久太郎・河津雄・石丸順太郎ほか二人の随行で出発、蓬莱丸に乗船して、一九三一(昭和六)年の一月一日に基隆へ到着して、草山の台湾別院についた。別院は砂帽山麓の高地に新築された桧づくりのもので、敷地三〇〇四坪・本館一一七坪・宿舎三一坪にわたる広大なものであった。聖師は広前を蓬莱殿と命名し、一月三日にはその開院式がおこなわれた。来賓は基隆市尹(市長)ら六二人、参拝者三〇〇人であった。六日には嘉義へむかい阿里山にのぼり、日月潭では支部の設置を命じた。さらに高雄・台南・二水・南投(小野田邸)・台中・台北・宜蘭・基隆をへて吉野丸に乗船し、一月三〇日天恩郷に帰着した。草山では四日間にわたる記念特別講習会が開催されている。また六月一六日、聖師は大阪在住の中国人有力者で開設された川口道院の開院式に臨席している。
 聖師が、さきには台湾・琉球・奄美大島をはじめ、さらにみろく大祭後は東北から北海道にわたり、内地の各地はいうまでもなく、とおく朝鮮・満州にいたるまで巡教をつづけたが、その間に霊地・霊場・霊山をさだめ、神社等にも参拝し、国魂を清め、万霊を救うなど、この巡教はたんなる宣教だけではなく、ひろく霊的神業の意義をもつものであった。なお聖師は「私が日本国中を隅から隅まで旅行するのは、一つはこの国土を天柱に繋ぐ為である」(『月鏡』)とも述べている。
〈日出麿教主補の巡教〉 一九三〇(昭和五)年の一月初めには二週間にわたって、北丹地方の分所・支部一三ヵ所の巡教が教主補(四月からは総統補と改称)によっておこなわれた。二月から三月にかけては、大阪・兵庫の各地、五月には滋賀県下の宣教、六月には姫路をはじめ兵庫県下を一八日間にわたって巡教された。
 七月には直日夫人とともに神刕別院をへて大山にのぼり、米子・島根別院・地恩郷・鳥取などの巡教がおこなわれている。
 ついで総統補は、九月一〇日に山口利隆の随行で北海道にかかい、函館から室蘭・旭川・稚内などへおもむいた。北海別院では宣伝使大会と地方分会がひらかれ、総統補の激励をうけた。その後帯広・小樽へと巡教の旅がつづけられたが、小樽では支部設置以来、一〇ヵ月で一〇〇人ちかい奉斎者ができており、小樽はこのときに分院となった。北海道は聖師の巡教後、田中省三特派宣伝使の活動によって支部数は三倍に増加していた。総統補はこの巡教の前後に東北の各地や東京にもたちより、五七日間の巡教をおえて、一一月六日に帰綾した。
 さらに、一一月二九日からは四国巡教の旅におもむいた。高知・徳島・香川・愛媛の各県を巡教し、一二月二四日に帰綾した。年の暮もせまった二八日には、京都の嵯峨にある日活撮影所関係者を中心として新設された神動支部の鎮座祭にのぞんだ。支部長は野沢で、伴淳三郎・海江田譲二・衣笠淳子・鳥羽陽之助・葛木香一・浅香新八郎そのほかの俳優たちがあつまってにぎやかなつどいとなった。
 総統補の巡教はこののちも随時なされるのであるが、一応内地を一巡した。総統補は「宣伝に行く時は第一着にその土地の産上様に御願ひしたらよい」と述べているように、各地で神社や霊地に参拝し、神霊へのよびかけがなされている。また「お取次をする場合に治るかどうかなどと不安な気持ではおかげがたたぬ。神様がついておられる。神様の代理のつもりでやれば必ず霊験かおる。神様の力は信の力である。どんな場合でも神様に通ずるといふ信念が本当の力である。神様の御為に又人を救ふためにすることによって自分が救はれ、浄められ高められるのである」とも述べているが、お取次によって難病がたちどころに癒え、おかげをいただいたものは数知れない。家庭や人事についての問題もつねに明快に解決をあたえ指導したので、信者はその魂に力を得、未信者の入信するものもいたるところで数多かった。ことに日出麿師は霊感霊覚につよく、日夜に神霊の感応をうけ霊の交流はげしく、霊的に救済されてゆく神秘的事例は連日つづけられていた。このようにして宣教の成果は大きくあげられていった。
〈東京進出〉 人類愛善運動は、いよいよ活発となり、聖師によって「人類愛善新聞が百万の購読者を得なければ、国内の愛善化はむづかしい」とのべられてもいたので、とくに「人類愛善新聞」の拡張に主力がそそがれることになった。一九二九(昭和四)年の一月には、出口宇知麿が人類愛善新聞社長に、御田村竜吉が副社長に就任し、一〇〇万読者獲得をめざしての全国的活動がすすめられた。
 一九三〇(昭和五)年の四月一〇日には、人類愛善会総裁補に出口日出麿が就任し、さらにこの年の九月には、東洋本部および人類愛善新聞社を東京の四谷区霞ヶ丘町に移転し、「人類愛善新聞」は一〇月から東京で発行することになり、ここにいよいよ東京進出をむかえることになったのである。そして九月一五日には御田村が東洋本部長に任命され、あわせて新聞の経営を一任されて、河津雄がその専務理事に就任した。
 宣教がすすむにともなって、同紙の発行部数も急速にふえ、一九二八(昭和三)年の四月に一万二〇〇〇部だったものが、翌昭和四年夏の聖師誕生祭には、一一万部にもたっした。一九三一(昭和六)年の二月四日には、日出麿総裁補が新聞社の社長となり、また人類愛善会東洋本部長・関東分会長・愛信会長をかねることになった。
 二月一九日の愛信会の会合で、総裁補は「このたび人類愛善新聞社長、人類愛善会東洋本部長、関東分会長、愛信会長として出京せしに就いては、自分としては非常な決心をして来てゐる、東京で死んでもかまわぬ決心である。皆も本気になってやって貰ひたい。時機はきてゐる、神第一で真剣にやって貰ひたい」と挨拶している。二二日には関東分会がひらかれ、分会規約や天恩講規約もさだめられた。また三月一日には更生会(東京府・千葉の分所・支部・連合会)の会長に推され、三月八日に関東道場と別院建設を目的とする躍進会の会長に就任した。さらに五月九日には豊多摩郡和田堀現在の杉並区和田~堀ノ内あたりに紫雲郷別院の開院式および道場開きが執行され、頭山満・内田良平・三浦少将・会田医博・満川拓大教授・前田夕暮そのほか八〇余人を招待し、翌一〇日には信者への披露をかねて 関東分会信者大会が開催されるなど、その活動には注目すべきものがあった。
 なお、総裁補は、五月二三日から朝鮮・満州(東北)宣教の途にのぼり、松江・戸畑をへてハルピン丸で二九日には大連(旅大)にわたって、営口・鞍山・公主嶺・長春・古林・ハルピン・満州里・ハイラル・昂々渓・洮南・四平街(四平)・開原・奉天(瀋陽)・撫順・安東・新義州・平壌・鎮南浦・京城・釜山というように巡教がつづけられた。各地で大本・人類愛善会・世界紅卍字会関係の歓迎をうけたことはいうまでもない。そして七月二日下関から岡山をへて七月二八日に帰綾したのである。この間に面接した人々は九三六四人 の多数にのぼっている。また染筆は短冊・色紙七四一五点、軸物と額一八一五点、扇子五六四本を数え、その多くは中国人におくられている。
 「人類愛善新聞」の拡張については、本社の拡張目標が全国各地域にわりあてられ、地方の主会・連合会などはこれを責任部数としてうけとめて、あるいは行脚班をつくったり、あるいは一部売りをしたりするなど役員・信者が一体となって努力した結果、この年の秋には、一九万部にまでたっすることができた。
〔写真〕
○次頁の写真は聖師と世界紅卍字会員 上の写真は二代教主と婦女道徳社員 長春道院 p32
○聖師と二代教主はそろって朝鮮・満州で巡教の旅をつづけた p33
○いたるところに排日抗日のビラがはられていた p34
○沓島冠島開き30周年記念参拝の聖師と二代教主 冠島 p37
○東京へ進出した人類愛善新聞社 p40
○紫雲郷別院 p41
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