二十五六歳の頃
恋人を京阪両地にさらはれて一人さびしく牛飼ひにけり
糞汁にまみれて朝夕牛を飼ふ若き日の吾血は燃えさかる
里の女は数多あれども彼女等にくらべて胸の血は沸きたたず
浄瑠璃の稽古をはりて帰るさの辻に彼女のまぼろしを見し
ああ君と言ひよる刹那に烟のごとパツと消えたる気味悪さかな
わが魂は彼女にかよひ彼女の魂はわれにかよふか毎夜夢見る
縁あらばまた逢ふことのあるべしと果敢なきことを頼みて慰む
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妻帯をすすめられても何となく心むかざり彼女をおもへば
あちこちの家に浄瑠璃会ありて吾もかがさず出演をなす
浄瑠璃の吾が声よしと田舎女が銅貨づつみを雨と降らせり
見台に裃つけて端座しつかたりいだせば拍手のあられふる
三味線ひきは老いたるをんな吾はまだ二十六歳の青年なりけり
いつとても恥かしく思ふは浄瑠璃の文句の末の泣き落しなりけり
しがみたる顔を女に見せまじと泣く場所のみは三味線で誤魔化す
滑稽なお俊伝兵衛の猿廻し与次郎語るがはづかしかりけり
浄瑠璃の稽古の友は十二人隣のむらまでかたりに出でゆく
隣村で浄瑠璃語るをりもあれ意中のをんなを不図見とめたり