二十五六歳の頃
失恋の身にも世間はひろきもの春のひかりはさしそめにけり
白梅の月にかをれる夜なりしよ思はぬ人と木蔭にたたずむ
ぽつかりと月に浮き出し白い顔わが目に花のごとくうつれる
心臓の皷動はげしくをさまらず面ほてりつつしばし黙しぬ
ただ二人黙したたずむ足もとにどろ足の犬きたりとびつく
飛びつきし犬に彼女はおどろきてあつと叫びて抱きつきたり
鼻先にぷんとにほひて体臭の忘らえがたき身とはなりぬる
如何にしてまたあはんかと彼女いふ吾は牛乳買へとすすめし
二三日たちて彼女の母親は牛乳くばれと註文なしかへる
思ふ図にはまりしよなとよろこびて朝夕二回牛乳くばりゆく
彼の女病床にありて牛乳を飲みそつと吾が顔ぬすみ見て居り
牛乳をつぐ鑵持つわが手ふるひつつ出もせぬ咳にまぎらせにけり
足すでに門を出づれどわがひとみ彼女の床にしみつきて居り
○
吾が胸の高鳴りおさへ父母に顔ほてらしてうちあけにけり
吾が父は頭を縦にふりながら早くもらヘといひつつほほ笑む
仲人をたのみて彼女の両親に結婚談を持ちこませたり
只一人の娘なりせばやられない養子にならばと彼の女の親いふ
わが父は長男なれば養子にはまたやれないと頑張りて居り
わが恋は危機一髪の間にあり五臓六腑の血はわきかへる
牛乳をくばりたる朝玉章をそつと彼女のたもとに投げ込む
若者の心をくまぬわが父その無情さをうらみてもみし
何故にわが真心の通はぬかと出雲の神まで恨みてみしかな