殊勝らしく念珠を爪繰つて。仏事法会を営業と考へて居る近代の坊主、末法の坊位済度し難いものはない。宗教は仏壇に納めておいて坊主が出し入れをするもので無く、人間生活に毎日必要なものである位の事は、近代人にも多少の理解はある。人間の生活に日夜必要であつてこそ、初めて宗教そのものの価値はあるのだ。人間を離れたる宗教も芸術もない筈だ。所謂人間生活の琴線に触れる所の宗教でなければ駄目だ。その意味から近時宗教研究熱が台頭して来たのである。然るに現代各宗教の坊主、本山末寺の営業当事者と称する輩、年中寺院のお守り本領とし、寄付金の募集のみを色々の美名を藉つて行つてゐるが、それも寺院保護の為なれば恕すべきだが、相場や女郎買の資料までも、善男善女に拠らむとしてゐるのだ。読経は常に御布施の多少に由つて長短され、法装は喜捨金の大小で異り、戒名も志納金の量に依つて死人に対し院殿だの居士大姉だの、信士、信女だのと階級を付けてゐる。平等愛を唱へた釈迦の末流たる僧の品格が何処に在るのだ。善男善女に対する紋入色合の差異を以て、肩絹とかいふ奴を領収証の代用と為し、寄付金の多少に依つてそれを異にし、田舎の難有屋の虚栄心をそそつてゐるのは今の仏教家だ。各宗各派の坊主ども、チトは祖師の開宗時代の苦辛を考へては如何だ。
人間生活になくては成らぬ宗教を、人間から遠ざけて了つたのは、皆営業坊主、葬式坊主の罪悪だ。吾人は宗教研究熱台頭の機会に際して、殊に此の感を深くする。せめて清僧になれなくとも人間的気持になれ。坊主で飯が食へなければ百姓になれ。工場の隅からでも、田園の果てからでも、真実な宗教は生れる。そして堂々として天下に宣伝されるのだ。金襴の衣に汚れたる心魂を包んで、仏の前に出て愧かしく無いのか。彼等が本心に立ち復り真面目な宗教家としての活動をするに於ては、必ず死せる仏教を更生復活して宗祖の本願を達する事が出来るであらう。
末法汚濁の仏教を甦生せむ為、卿等の三千年来待望した弥勒菩薩は、既に已に地上に出現して居るではないか。猜疑と嫉妬と排他の殻を脱いで、一日も早く釈尊の主唱せる弥勒の下生を迎へよ。無限の鐘は鳴つてゐるのを知らないか。弥勒三会の暁の警鐘乱打の響きは判らないか。耳が蛸になるとの諺は何だ。営業坊主所謂蛸坊主に対する神仏の警告である。
(昭和三、八、二、東北日記 三の巻)