篠原君は始終自分の所へ来て泊つたが、其中際立つて変化を生じて来たのは酒量の減少だつた。斗酒尚ほ辞せずは些と形容に過ぎるかも知れぬが、兎に角最初篠原君の酒量は決して侮るべからざるものがあつた。注げば飲む。飲めば注ぐ、晩酌に五七本の徳利を倒す位は平気であつた。貰つた月給を一と晩で飲んで了ふ位の芸のある人だから、少くも二升位の手並があつたと見てよからう。
所が大本へ来てから、一と月ならざるにガラリ豹変して、二三杯で陶然たる程の下戸党になつて了つた。自分の酒量は、大本入信以前と以後とに於て、格別の差違を認めない。依然として一本位飲める。所が篠原君の酒量は升から勺へ、二桁も飛ばして減つた。
『什麼だ。モウ一つ飲まんか』
『イヤ最う沢山……』
三杯目の盃をそツと引つ込ますやうになつた。傍で杯を重ねる自分は、聊か気の毒に感ずる位であつた。
が、睾丸の方は中々さう手取り早く埒は明かなかつた。幾らか癒りかけると、すぐに海軍生活が恋しくなる。世の立替へ立直し、日本の世界統一も無論結構ではあるが、併し何を言ふにも現役の青年士官の身の上である。現在が大尉の最古参で、この秋には黙つて居ても少佐に進級する。妻もあれば子供も三人ある。いかに何でもこのまま現職を抛擲して、修業三味の綾部生活に這入りたくないのは、人情の自然であらう。自分も篠原君の病気が一時も早く全快して、そして実務に服する日の早からんことを衷心から神に祈願した。いかにせん、イザ綾部を発足うとすると、覿面に睾丸が腫れ上つて痛みを増して来る。夫でも我慢して無理に停車場へ向はうとすると、忽ち気絶する程度に締め上げられる。流石の豪傑も思はず悲鳴をあげて、跳び上がらずには居れなかつた。
『爰に居れといふのに貴様が勝手に帰らうとするから痛めるのだ』と天狗さんはお肚の底から号令をかける。上官の命令なら、まだ反抗の余地もあるが、自分の肉体を占領し、生殺与奪の全権を握つて居る天狗の命令に対しては、いかんともする事が出来ない。
自分は屢次鎮魂して、件の天狗を抑へつけやうとして見たが、天狗さんは実際神界の命令で睾丸を痛めて居るらしく、霊縛も余り効かなかつた。で、賛成でも不賛成でも、その命令を奉ずるより外に致方がなかつた。但し当人が退綾の決心を翻すと同時に、痛みはぱツたり其場で止むのであつた。
斯麼風で、篠原君は厭々乍ら荏苒として綾部の生活を続けた。一挙一動も自分の意志では動けない身の上となつた。
さうする中に、篠原君の守護神の転換が行はれた。什麼も様子が違ふから一遍査べて呉れとの篠原君の依頼によりて、自分は早速鎮魂して発動させて見た。すると果して天狗さんの場合とは様子がガラリ違つて来た。天狗さんが憑つた時には、かツと紅潮がさして、そして意気傲然たるものがあるのに反し、今度は満面に蒼味を帯びて審神者に対して飽まで恭謙謹慎の態度を失はない。
『何誰ですか、お名を伺ひます』
『私は肝川の竜神に厶ります』
と矢張り言葉の切り方は上手なものだ。
『什麼して篠原の肉体にお憑りですか』
『神様の御命令によつたものであります。篠原の肉体に入つて御用せいといふことですから、それで憑りました』
『偶然に命ぜられたのですか』
『イヤ矢張り篠原とは因縁がありますが、詳しい事は申上げられません』
肝川には重たる竜神が八柱あつて、艮之金神の眷族として大活動をやつて居る事は、神諭の中にも明記されて居る。自分も翌くる大正七年の十月に肝川に参拝して、大体その実情を知ることを得たが、兎に角竜神さんの神懸りは、当時の自分に取りては甚だ珍らしかつたので、多大の興味を以て其鎮魂に当つた。篠原君の肉体に憑つて居るのは、肝川の滝の上の竜神の眷族で、まだ十分の修行を積んでは居なかつたが、それでも前の粗野な天狗さんの比ではなかつた。
自分は篠原君の事などは其方除けにして了つて、矢鱈に質問に耽つたものだ。竜神界の消息が幾分か腑に落ちのたは、全くこの竜神さんの賜であつた。古事記の講釈なども請求したが、或る程度まで之に答へた。時々難解の箇所があると、淡白に、
『私には判りません。この次ぎまでに伺つて置いて上げます』
などと言つた。何れかといふと、少々多弁過きる位で、自分の方から尋ねもせぬのに、
『来年の暮は大本の内部に大事件が起ります、教祖が……』
などベラベラ喋り出したことがあつた。すると、この時俄に別な神が篠原君に憑つて、大きな声で、
『黙れ! 其様な事を言つてはならん!』
自分達には、その時竜神さんが、何を言はうとしたのか判らなかつたが、後になつて考へると、ドウも大正七年十一月六日の教祖の帰幽を素破抜かうとしたものらしかつた。竜神さんは一方ならず恐縮の体で、翌日鎮魂の際に、
『昨日は神さんから散々叱られました』
などと言つて居た。
審神者に対して恭謹な竜神さんも、篠原君に対しては、其の態度がガラリ一変して、極度に強硬辛烈な制裁を加へ、又絶えず叱言や訓戒を下して居た。そして睾丸を痛めることは、遥に天狗さん以上であつた。