六月九日には山本海軍大佐が参綾した。
『秋山さんが是非行けといはれましたから参りました。尤も、出張先きですから余り暇がありません』
この時分の秋山さんは、誰を捉へても熾に綾部行きを勧めたものらしい。この秋山氏が僅々一箇月後には、口を極めて大本攻撃をやつたと思ふと奇妙な感がする。嗚呼口は禍の門、大丈夫生れて一代を指導するの地位に立つにあたりては、一言半句の間にも注意を払はねばならぬと思ふ。秋山さんは最初から、随分大本に対して細心の注意を払ふ事を忘れなかつたが、それでも褒めたり、貶したり、うツかり二言を吐くの過誤を犯した。武士道の精華を味へる秋山さんとしては、甚だ残念至極なことであつた。
例によりて一応説明の後、自分は山本大佐を金竜殿に伴れて行つた。打ち見るところ背丈は低いが、いかにもづツしりと岩畳な体格をして居り、言語応対ハキハキとした人物で、流石に海軍部内の秀才と、謳はれるだけのことがあると思つた。
鎮魂の席に就いたのは午後の一時前後であつた。無論一人対一人、全部の障子襖を閉め切り、見物人などは一人も入れなかつた。型の如く姿勢を整へ、神笛数声、早くも山本さんは発動状態に移つた。が、自分は格別の事があらうとは夢にも思はず、寧ろゆツたりした気分で、口癖のやうになつて居る質問を発した。
『何誰ですか? 御名を伺ひます』
言未だ終らず、天地に轟くばかりの大音声で、
『素盞嗚尊』
と叫んだと思ふ瞬間には、モウ山本大佐の岩畳な肉団は、大砲の弾丸のやうに、自分の身体に打ツつかつて来た。
間髪を入れざる咄嗟の出来事で、耳にも眼にもとまらばこそ、無論身体をかはすどころの騒ぎでなかつた。今から当時の事を考へて見ても、大佐が什麼風で飛びついて来たか、又自分がその際何をして居たか、到底判らない。
『オヤツ!』と思つて、気がついた時は、既に山本大佐の身体は自分の左の袖を掠めて、三尺ばかりも背後の方に飛んで居た。思ふに大佐の身体は、自分の組んだ手端四五寸の所まで迫り、其所で急に四十五度位の角度をなして左に外れたものらしい。これなどは全然審神者に対する神の御加護で、人間の工夫や努力で免れ得る望の絶無であるのはいふまでもない。
自分は吃驚しながら、大佐の方に方向を変更する隙もあらせず、モウ洋服姿の大佐はハツと立ち上つた。そして組んだ両手を引離さうと二三度試みる様子であつたが、とても離れぬと観念するや否や、組んだままの両手を真向に振翳しながら、
『エーヤーツ!』
猛虎の狂ふやうな勢ひで、自分の頭部を望んで打ち込んで来た。
『大変な事をしやがる』と自分は一旦は一と方ならず愕いたが、神の試錬は此処ぞと、漸く下腹部にウンと力を罩め、端坐の姿勢を執つたまま、凝乎と大佐の方を睨みつけた。
イヤ其時の気分! 大佐の拳固! ビユービユー風を切つて、打つは、撲るは、しかし一二寸の所迄迫るだけで、什麼しても自分の頭部には当らない。
『若しただの一箇でも打たれるなら、自分に審神者の資格がないのである。その時は潔く此職を返納するまで』と、自分は決心の臍を固め、思ひ切つて両眼を閉ぢて了つた。
『エーヤーツ!』
掛声と共に、大佐の拳固は頭部を掠める。その度毎に風は当るが、しかしただの一度も拳固は当らない。
何しろ不意に起つた大叫喚、大騒動であるので、さすが物に動せぬ部内の人々も、駆けつけて障子の隙から見物したが、暴れ狂ふ洋服姿の神憑者と、眼を瞑つたままの審神者の様子には、いささか驚き呆れた模様であつた。
此状態は十分二十分と続いた。モーそろそろ憊れて中止しさうなものだと待つて見たが、大佐の肉体は鍛へた肉体で、容易に疲労の色を見せない。又之に憑依して居るのは、腕に覚えのある天狗の豪の者で、これも飽まで負けじ魂を発揮して居る。両々相俟つて容易に屈する色を見せない。
際限がないと思つたから、たうとう自分は大神さまに祈願した。
『乱暴な天狗さんで、私だけの手には余ります。何卒神界から御援助を仰ぎたう厶ります』
此祈願は直に神界の容るる所となつた。そして爰に無類の活劇の幕が開かれた。