思ひ出のまま筆に任せて、右に書き連らねた他にも、まだ修行者は春から夏にかけて殺到した。座談、鎮魂、行る方は不相変自分一人であれど、受くる相手は十人十種、唯の一人として同一なのがない。理屈ツぽいのもあれば、感激性のもあり、鈍感者もあれば、発動性のもあり、病者あり、健体あり、若き、老たる男、女、全く以て応接に遑がなかつた。横須賀で十七年間、粒揃の海軍生徒ばかり取扱つた埋合せに、綾部で取扱ふのは、あらゆる階級、あらゆる種類、あらゆる性質の代表者ばかり、お蔭で些ツとは人間学の勉強が出来たやうな気がする。向後はますますこの傾向が加はるばかり、晨に支那人の煩悶をきいてやり、夕に亜米利加人の質問に応じてやるといふ事にもなるであらう。飛んでもない役割に打ツつかまつたものだと、自分は内々恐縮して居る。
兎に角、来るものを迎へ、去る者を送つて居る中に、桃も桜もいつしか跡方もなく散つて了ひ、見渡す限り皆青緑の夏景色となつて来た。大正六年ごろは忙しいと言うても、まだまだ昨今の生活に比べると、幾分の余裕があつた。ポカポカした温かい気候になると同時に、自分は取りあへず近所で古船を一艘借りて、朝に夕に、すぐ門前を流るる和知の清流に浮び、しきりに棹を操つたものだ。
大橋の下手に堰が設けてあるので、さしもの急流もその勢ひの大部分を殺がれ、門前四五丁の間は、川と言はんよりは寧ろ湖のやうに水を湛へて居る。その間を心ゆくまま漕ぎ回る気持の善さ、温んだ水、和かな風、逆さまに影をひたす緑樹静山、間断なく聴ゆる淙々の水の音……。
自分は時に船を対岸に横着けにして陸に上つて見る。この辺一帯は一面の小砂利原で、白、赤、黒、緑、紫など眼覚るばかり麗はしい小石が所狭しと並んで居る。参綾の士女はよく此辺に来て石の採収をやるが、全く綺麗な石の多い所だ。
『鎮魂の石笛でもありさうなもの』
などと誰しも先づ考へるが、さて捜して見ると、それは滅多に無い。石笛は審神者の資格ある者に、神が直接授けらるるので、人為的に肉眼で捜しても多くは見当らない。
『自分はモウ一箇授かつて居る。欲を深くしても駄目だ』
暫時の後は断念めて、又船に上り、今度は上流に船を進めて見る。
一二丁行くと一面の暗礁だ。その中の幾箇かは頂点を水面に露出して居る。亀などがよく爰に甲羅を乾して居る。ボチヤンとやると、慌て水中に逃け込むが、余りに水が澄んで居るので、すかして見ると其隠れ場所がよく判る。
この辺から段々流れが急激になる。やがて一と曲りするとモウ急湍があつて、いかに棹を踏ン張つて見ても、独力では遡れない。断念めて船を流れに任せると、船はフワリフワリと元来し途を独り手に下る。棹を水から揚げて、船舷に腰を降して莨でも吹かし乍ら、のんびりとした気分で四辺の風光に眼をくばる……。
盛夏の候に涼み船が出る時は別であるが、その他の時には、自分の外に滅多に人の影はない。偶に筏が上流から下つて来る位のものだ。和知川の清流と、見渡す限りの風景とは、殆ど全部自分一人で占有したやうなもの、実に千万金にも換へ難きものがある。誰であつたか、
『この川一つあれば大本をヌキにしても十分移住する価値がある』
と言つたが、自分もそれには衷心から賛成だ。船が門前まで流れて来ると、多くの場合妻か下女かが岸に待つて居て、
『お客さんが二三人見えて居ります。早く上つてください』
この一語に初めてハツと現実の吾に返り、急いで船を岸に着けるのが通例であつた。
何にしても余り気持がよいので、借物の古船では満足されなくなつた。少々道楽のやうだが、これだけは神様にお見免しを願ひ、たうとう新規の船を注文した。出来上つた船は「日之出丸」と命名して門前に繋いだが、その時の子供達の歓びと誇りとは大したものであつた。しかし内々親爺の歓びと誇りとは、決して之れに劣りはしなかつた。
新しい船を造つて、澄み切つた流れをギチギチ漕ぎまはす愉快は、新しい手車や自動車で、塵芥に埋もれたる街頭を乗りまはす愉快よりもどれだけ多いか知れぬ。その癖造船費は僅に三十五円、後は一文も要らぬ。費用さへ嵩めば善いものと思ふ成金気分ほど世にも阿呆らしいものはない。
一度は食膳を船に持ち込み、一家挙つて晩餐をしたためた事などもあつた。夏の夜に提灯を点して夕涼みをしたことなどは、幾たびあつたか知れぬ。かくて自分達の綾部生活は、船と川とで何れだけその単独を破られたか知れぬが、しかし世運の進展と共に次第々々に自分の身は多忙となり、たうとう昨年からは大阪方面に出動することになつて了つた。今から回顧すれば、大正六年の春から夏にかけては忙しいやうでも矢張り呑気な所が多かつた。これから先きは……。とても当分船どころの騒ぎではなささうだ。