審神者の請求もだし難しと認めらるるや、神界からは直に眷族の天狗さんと竜神さんとを、同時に差向けてくだすつた。今しも山本大佐に憑依せる豪傑天狗が、
『エーヤツ!』
の掛声すさまじく、自分の頭を目掛けて拳固を打ち降ろさんとせる一刹那、突如として左手から突撃したのは、同じく天狗は天狗ながら、大神さまの御眷族として、幽界にその名を馳せつつある中峰天狗であつた。思ひもかけぬ助太刀に、豪傑天狗も聊か愕きあわてたものと見え、忽ち自分を打ち棄てて鋒先きを其方に向けた。
二打三打、打ち合ふと思ふ間もなく、右手の方からも亦も一人の天狗さんが現れて切先きを向けた。大抵ならば左右の大敵を見た丈けでひるむべきだが、山本大佐の守護の天狗は、余程きかぬ気の腕ききと覚しく、忽ち之とも渡り合つた。講釈師の文句ではないが、右に当り、左に転じ、四十八畳敷の金竜殿裡を駆けまはりつつ、死物狂ひの奮闘をつづけた。
斯うなると自分の方は呑気なものだ。モウ身構への必要も何もない。すつかり鎮魂の姿勢を崩して了つて、腕を拱いて、卍巴と入り乱るる三天狗の闘ひを見物するばかりであつた。
この格闘が一時間経つても終らず、二時間過ぎても引続いたのは驚嘆に余りあつた。天狗さんの勢力の持続するのはまだよいとして、天狗さんに使はれて居る山本大佐の体力の、飽まで消耗困憊の色を見せなかつたのは、殆ど不思議なほどであつた。二時間以上に亘りて組んだ両手を間断なく振り回し、又大きな声で間断なく、
『エーヤツ!』
と呶鳴り続けた。自分は過去五年の間に、あれ位根気よく、ねばり強く、抵抗を試みた天狗と人間とを見たことがない。たしかに一方の雄たるべき十分の素質を具備して居ると思つた。
しかし流石の豪傑も、最後に竜神さんが加勢を始めるに及んで、たうとう兜を脱ぎかけた。時分を見計つて竜神さんは、するすると相手の脚下を覗つたのであつた。
『ウワーツ!』
大悲鳴を挙げて、山本大佐の岩畳な肉体は、三尺ばかり跳び上つた。そして今迄の元気は忽ち失せて、いかにも薄気味悪さうに、ダヂダヂと後退りを始めた。竜神さんは面白半分に、又もスルスル接近するので、其度毎に山本大佐の肉体は、何遍跳び上つたか知れぬ。
『ヒヤーツ』
最後には情ない声を出すやうになつた。斯うなつては最早試合どころではない。たうとう金竜殿の右手の隅の太鼓の側に、ベタリとヘタ張つて、頻に叩頭を行り始めた。
自分は十分豪傑天狗の油を搾つて置かうと決心し、坐つたままで呼びつけた。
『叩頭をするのは帰順の意を表するものと認める。苦しうない、元の席に就いて貰ひたい』
山本大佐の肉体は立ちあがつた。そして瞑目した儘、些しも方向を過たず戻つて来て、審神者を距る約三尺の元の位置にビタリと坐つた。
『貴下の態度は余り感服出来ぬ』
と自分は徐ろに訓示を始めた。
『不肯ながら、大本の審神者として、貴下が天狗であることは最初から判つて居た。然るに貴下は勿体なくも大神のお名を騙り、剰へ理不尽にも腕力沙汰に及んだ。其手腕の冴えは確かに認める。封建時代ででもあらば確かに五百石位の価値はあらう。併し剣は一人の敵、神政成就、世界統一の御神業の間には合はぬ。それしきの力量を恃んで、大本の審神者に打つてかかるなどは余りに児戯に近い。貴下の気概には感服致すが、その野武士的の自由行動は、今日限り止めて戴きたい、遺憾乍ら御神業の間に合ませぬ。守護神としても、亦人間としても踏ませねばならぬ事柄は、明治二十五年以来御神諭の中に、繰返し繰返し教へられて居る。即刻生れ赤児の精神になり、御神慮を奉戴し。此優れたる山本氏の肉体を機関として、十分の働きを発揮して戴きたい……』
他にもいろいろ耳に痛い文句を並べ立てたが、豪傑天狗も余程先刻来の荒療治が身にしみたものと見え、徹頭徹尾謹慎の態度を持続し、一々自分の言葉に対して点頭いて居た。
『御苦労でした。お引取りを願ひます』
といふと、山本大佐は長い夢から覚めたる如く、初めてパツと眼を開いた。鎮魂を開始してからその終結まで前後約四時間ばかり、坐を立つた時は日は全く暮れて、金竜殿の裡は薄暗くなつて居た。
其夜晩餐後再び鎮魂したが、懲りたものか、守護神はモウ発動はしなかつた。その後自分は山本大佐と、一度も面会の機会を有たぬが、あれ位にやつて置けば、あの守護神の性行上に、確に顕著な影響があつたに相違ないと確信して居る。