両親ともに健在といふのが、久しい間自分の誇りであり、又他から羨まれる点でもあつたが、たうとうその一方が欠けてしまつた。『斯ンな事と知つたら、生前に彼様して置けばよかつた、斯様もしたかつた。せめて世の中に、大本の教へがモウ些し解るまで生きて居てくれたなら……』
ツイ愚痴やら追懐やらが起り勝ちで困つた。
それでも、幸に大本の信仰に入つたお蔭で、人の霊魂が生前そのままの個性を帯びて、永久に存在する事実を知つて居るから、従来のやうな、死に対して寂寞無常の感に打たれることなしに済んだ。顕幽に隔りこそあれ、矢張り心はいつまでも幽界に残るのだ。そして必要があれば、お互に交通も出来るのだと思へば、悲しいと言つても従来の悲しみとは、全然内容を異にして居た。例へば遠い所に離れて住んで居るやうな心持で、心の底には、一種の希望の光明が射して居るのであつた。
従来友人などが、その親の死に遭ふのを見る毎に、自分はよく考へたものだ。
『何れ自分にも母と別れ、父を亡ふことが循つて来るに相違ないが、さうした場合に何と考へて、この人生の悲事を侵げばよいのであらう。死とは何か? 死後は如何? ただ仕方がないから仕方がないでは、人生は余りに無意義でそして残酷だ。この謎の解けぬ間は、成るべくそンな事の起らぬやうにして貰ひたいものだ……』
神様はこの謎の解けるのを待つて、母の死に遭はしてくだすつた。さもなければ自分の後半生はいかに惨な、暗黒なものであつたらう。
『矢張り愚痴などはこぼさぬ事だ。年齢も七十三、人間としてまアまア仕方のない年輩だ。そしてそれが大正四年に起らず、又五年にも起らず、いよいよ自分の信仰の腰の据つた大正六年に起つたといふのは、有難い話だ……』
丹波から常陸まで約二十時間の汽車の旅の中に、自分の精神は殆ど平静の状態に復帰したのであつた。
が、いよいよ生家に着いて、老いたる父の顔を見、又死したる母の面影に接した時は、覚えず涙が澪れた。
『あれ鼻血が……』
亡母の面上にかけてあつた白布を、除けた瞬間に父はかく叫んだ。気が付いて見ると、成る程亡母の鼻から黒ずんだ血が流れ出して居た。
肉身のものが着いた時は、死骸から必ず鼻血が出るものだとは、昔からの伝説であるが、自分達は今目のあたり其証拠を見せられたのであつた。ツイ五分間ほど前に見た時には、鼻血などは出て居なかつたさうな。
『矢張り仏さんは可愛い人の着くのを待つて居たのでせうよ』
誰やらが感傷的な文句を吐いたので、一としきり一座には洟をすする音が聞えた。
葬儀はその翌る日を以て仏式で行はれた。自分は二十年前母の手織の袴、羽織、帯などをつけて之に臨んだ。これ等の品は、自分の生きて居る間は、いかに古びても大切に保存し、死ぬ時にはそれを着せて貰はうと、今から心に決めて居る。
一身の私事に亘ることを、自分は少々書き過ぎたかと思ふ。ただ最後に母の霊魂のことにつきて一筆書き添へて置きたい。
母の埋葬は仏式で行つたが、其霊魂は無論大本の祖霊社で祀り替て貰つた。肉体としては、母は一度も綾部へ来ずにしまつたが、然し其霊魂は屢次綾部へやつて来る。妻は幾度その姿を見たか知れぬ。起居風丯、生きて居た時と全然同一で、衣服までも見覚えのあるのを着て居る。そして生前接し得ざりし大本の教に、霊魂として熱心に接すべくつとめて居るやうだ。
龍ケ崎の修斎会支部長の飯田りん子は自分の従姉に当り、亡母からは実子のやうに世話をされたものだが、母の霊魂は前後数回、飯田の肉体に懸つて来て、其口を使つていろいろの事を述べたさうだ。其麼時には言語、動作とも、そつくり亡母その儘になつて了ひ、常に座右の人を驚かせる。一々その問答を茲に既述する訳にも行かぬが、ただ一つ筆先きに対して述べた事だけ紹介して置かう。
母の霊魂はしきりにお筆先の有難さを説いたさうだ。お筆先を肚に入れなかつたばかりに、神様の道が判らず、幽界へ入つてから、霊分相当の位置より、二段ばかり下げられたといふことであつた。
『あンな残念なことはない。階級が一段違つても大変な違ひで、それを幽界で取り戻すのは容易な事ではない。しかし自分の今行つてゐる所は大変楽な所で、上を見れば限りはないが、下を見ても亦限りがない。まア皆に安心して貰ひます……』
尚ほ母の霊は、神恩神徳の広大無辺なこと、すべての人が早く信仰に入らねばならぬこと、幽界の事情の発表は神則に禁ぜられて居るので矢鱈に口外は出来ぬこと、綾部には屢次行くので、その様子はよく判つて居る事などをきれぎれに物語つたさうである。