『近い中に東の方へ行かねばならぬやうだ』
斯麼考へが、自分の胸の奥の奥の方に萠しかけたのは、五月の末か、但しは六月の初からの事であつた。其考へはいかにも取り留めのない。影か幻のやうなもので、何等捉へどころとてはなかつた。『何故?』『何時?』などと問はれても、とても返事は出来ない。ただ其麼気がする。虫が知らせるともいふべきものに過ぎなかつた。無論妻に向つてさへ打明けはしなかつた。
自分の理性、自分の常識は、毫も東の空を慕うては居なかつた。成る程自分は東に生れ、東に住み、趣味、感情、気分、習慣の末に至るまで、什麼しても関東臭を免れない。又老いたる父も母も皆東に居る。が、自分は最近東のすべてのものに反いて、奮然として西の空に引移つて来たのである。一寸の虫にも五分の魂、ただで東には行きたくない。
『関東人士が皇道大本の教に、頭をさげてから行つてやりたい』
といふのが、当時の自分の偽らざる感情であつた。それにも拘はらず東の方へ行かねばならぬといふ暗示はいかにしても消えず、それが日を経て益々強くなつて行つた。
すると六月十四日に至つて、突如として秋山真之少将が綾部に現れた。
秋山さんが初めて参綾したのは、去年の十二月十四日、数へて見れば恰度半歳ぶりの参綾であつた。秋山さんはこの春から兎角健康が優れず、たうとう重い盲腸炎に罹つて、一時は危篤を報ぜられたが、最近に至つて不思議に癒り、数日前退院したばかりの病後の身体であつた。
秋山さんはこの病気によりて、ますます神力の加護といふ事を確信するやうになつて居た。
『何アに病気などといふものは、医者の薬などで癒るものではありません。医者は通痢のないのを大使心配して居ましたが、私は千代殿さんから頂戴したお土米を服んで、これで必ず大丈夫と多寡をくくつて居ました。薬などは服んだ風をして棄ててやりましたがネ……。所が一昼夜経たぬ中に通痢がついて、それきり癒つて了つた。殺せば損だと思へば、神さんが癒してくださるものと見えます』
病後に似合はず、却々の大元気、大気焔であつた。そして大八州神社の境内に生えて居る莓などを毮ぎ取つて、ムシヤムシヤ食つたりなんかした。
『斯麼ことをすると医者は、八釜しい事を言ひますがネ、何アに大丈夫です』
秋山さんは綾部に二泊し、その間出口先生や自分と間断なく神霊上の問題を論議した。また自分が審神者として二三回金竜殿で鎮魂したが、早くも言葉を切り、又霊眼も開けて来た。秋山さんの大本に対する信仰は、この頃が蓋し最高潮に達した時で、その言動が殆ど常識の範囲を脱する程度に自熱化して了つた。常に昂奮した口調で惰気満々たる現代を罵倒した。
『世間の奴なんて仕方がない。早く上流から覚醒して呉れんと、とても駄目だ。幸自分は此方面に便宜がある。これから大に馬力を出してやらなけりやならん……』
かかる時には、その隼の如き眼が爛々と輝いた。秋山さんは境遇が境遇なので、自然社会の最高所へ主として眼が着いた。一族を提げて笠置に馳せ参じた楠公の誠忠意気──これは夢寐の間にもその念頭から消えなかつた。『乃公出ですんば……』秋山さんは決して斯んなことを口にするほど、軽々しい人ではなかつたが、しかしこの抱負は片言隻語の裡に常にほの見えた。
自分は秋山さんほど、上御一人並に皇室を思ふ人士が、若干もあるとは思ひ得ない。歩一歩に迫り来る険悪の人心と世界の危機とは、秋山さんの鋭い頭脳に判り過ぎる程判つて居た。それがあるだけ、秋山さんは心配もし又昂奮もした。ただ、凝乎として普通の軍務に服して日を送ることは出来ない気分がした。爰に秋山さんの長所があると同時に又短所もあつた。隠忍自重して時節を待つといふ事は、什麼しても出来る柄ではなかつた。
秋山さんは、頻に「神霊界」に発衣してある大本神諭を読んだ。明治二十五年以来世界の人類に下された、痛切無比の警告は犇々と秋山さんの頭脳に浸みに浸みた。露骨にいふと少々それが浸み過ぎて、聊か調子が狂つた気味があつた。大本神諭の眼目は世の立替と各自の改心とである。立替は神がやられるのであるから、人間はこの点に就てはただ成行を待つのみだ。改心は人間のせねばならぬ事であるから、これは幾ら急いでも焦つても構はない。要するに、人は一心に身魂を磨いて、心静かに神の審判を待てばよいのであるが、実際やつて見ると斯んな六ケ敷いことはない。大概の人は身魂を磨くことを忘れて、立替といふことにのみ脳漿を絞る。秋山さんもこの点について或る程度まで錯誤に陥ることを免れなかつた。
十六日綾部を辞してかへる時、秋山さんは自分に向つて、
『東京へお出での節は是非私の所へ寄つてください』
と言つて行かれたが、自分が東京に出よとの神命に接したのは、それからたつた三日ばかりの後の事であつた。