霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(二)

インフォメーション
題名:(二) 著者:浅野和三郎
ページ:206
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142500c55
「組飲み」式の気楽な話はこの(へん)で切りあげて、そろそろ真面目な記事に取りかからねばならぬ。概して言へば自分の並松(なみまつ)に於ける生活は、自分の生活を生活したのではない。九分以上大本の為めの生活、修行者の為めの生活であつて、自分自身又は家族の身の上につきては、(ほとん)何等(なんら)の考慮をも(つひや)さず、無我夢中で(くら)して来たというてよろしい。が、五年の(あひだ)全然記すべき事が無いではなかつた。数は少ないが、拾ひ出して書けば、多少の参考にはなる。
 自分()夫婦の信仰に導かるる動機が第三子の三郎(さぶ)の病気から(おこ)つた次第は既に述べたが、(いよいよ)信仰に入つて綾部へ引越してからも、一再ならず三郎(さぶ)の肉体を以て実物教授を施された。肉体から言へば我子(わがこ)であるが、信仰から言へば(むし)(わが)恩師と言ひたい位だ。信仰の手がかりは、何所(どこ)に隠して置かるるか知れたものでない。われわれ凡人は、兎角(たい)を見て霊を見ず、人を相手にして、神を相手にせぬから失敗を重ねる。今の世の中に『丹波の田舎者だ』の『紙屑買(かみくづかひ)のお(なほ)婆さんだ』のといふ罰当りの文句が絶えないのも(ここ)に在る。
 横須賀に於ける病気以後、三郎(さぶ)肉体(からだ)はすつかり健康体に復し、元気よく綾部の小学校に通つて居たが、突然右の眼に大故障を起したのは、大正六年四月下旬、自分()夫婦が吉野の奥に(おもむ)いた不在中(るすちう)の出来事であつた。帰つて見ると大騒ぎの最中、見れば右の眼は充血して高く腫れ(あが)り、そして白眼と瞳子(ひとみ)との境目の所に、直径約一分(いちぶ)(ばか)りの星が、気味悪く隆起して居た。
 大本からは既に役員が来て鎮魂したり、又お土で(ひや)したり、あらゆる手段を講じて呉れたので、疼痛(いたみ)は殆ど去つて居た。ただ其視力は甚だ覚束ないもので、一二(けん)()きは判然(はつきり)とは見えなかつた。
 十日ばかりで(はれ)疼痛(いたみ)は残らず去り、一見すれば普通の眼のやうになつたが、ただその星のみは依然として去らず、又その視力も十分回復が出来ずに居る。
『神様を信心して病気に(かか)るやうでは(つま)らない』と大概の人はさう思ふに相違ない。所謂(いはゆる)御利益(ごりやく)信心の癖が、数百千年に亘りて骨髄まで浸み込まされて居るので、この考へを打破することは実に至難中の至難だ。病気になつても神に感謝し、仮令(たとひ)死んでも(すこ)しも(うら)まぬといふところまでの、(しん)信仰を築き上げるのは実に骨が折れる。大本の信仰の当世(たうせい)向きがせぬのは、一つはこの点に存すると思ふ。
 大本の(をしへ)(うち)で最も肝要な事の一つは、因縁因果の関係の(あきら)かな点である。全大宇宙は活機(くわつき)臨々(りんりん)たる一大精霊体であつて、これが万有一切の全一大祖神である。かるが故に、宇宙内部の神も人も、日月(じつげつ)星辰(せいしん)も、禽獣(きんじう)草木(さうもく)も、広い意味に於て(ことごと)く親類同志で、悉く切つても切れぬ因果律で繋がれて居り、(あひ)(たがひ)に連帯責任を有して居るとふのだ。こんな次第であるから、同一霊統に属する神と人との関係は極めて深く、功罪ともに其(せめ)に任ぜねばならぬ。神諭の中にも、
『元の(たね)吟味(ぎんみ)致すは今度の事ぞよ。(たね)がよければ、()んな事でも出来るぞよ』
などと出て居る通り、現世に於ける人間の働きは、(ことごと)く自己の祖先の働きの連続であり、延長であるのだ。
 悠遠(いうゑん)の昔から現在に至る間には、いづれの霊統にも多少の失敗過誤がない訳には行かぬ。神諭の所謂(いはゆる)罪穢(めぐり)」がそれだ。既に罪穢(めぐり)がある以上、是非ともそれを子孫に於て(つぐな)はずには済まされぬ。人間はその罪穢(めぐり)を償却する為めに現世に(うま)れたのであるとも言ひ()る。個人主義などといふものは、この宇宙の大因果律を無視した悪魔の囈語(たわごと)で、(がう)も取るに足りない。現に自己一人孤立しては、人間は一秒時間も生存は出来ぬではないか。いかに(くち)に税がかからぬと云うて、白昼公然斯麼(こんな)ことが言へた義理ではあるまいではないか。
 親と子との間も無論この厳密な因果律の司配(しはい)を受ける。父母の恩義には幾らでも(あづか)るが、父母の罪穢(めぐり)を引受けるのは真平(まつぴら)だといふのは、無智の禽獣(きんじう)の間柄でいふべき事で、(いやし)くも人類の(くち)にすべき事でない。大本神界の規律はこの点に於て一歩も仮借(かしやく)しない。大本の信仰に入るや否や、何人(なんびと)も真先きに命ぜらるるのは罪穢(めぐり)の償却だ。その償却法は病気といふ形式で来たり、破産といふ形式で来たり、中には又死といふ形式で来たり。千種万様窮極する所がない。大本信者が世間から、迷信者だの、パラノイアの、誇大妄想狂だの、山師だの、時には又逆賊だのと(ののし)られるのも、矢張り罪穢(めぐり)()つて貰つて居るのだ。
 考へて見れば、自分などもその前半生に於て、随分罪穢(めぐり)を積んで来た。神さまや先祖の恩義も思はず、日本人としての使命天職も知らず、不知(しらず)不識(しらず)、個人主義、利己主義の(あく)空気の中に、無意義に蠢動(しゆんどう)し、太平楽をきめ込んで居た。自分一人では到底(この)罪穢(めぐり)(つぐな)ひ切れない。(そこ)で一家総懸(そうがか)りで、その償却に(あた)らせられたのだが、自分の家族の(うち)で、最も多量に之を引受けて呉れたのは、什麼(どう)三郎(さぶ)であつたらしい。そのお蔭で()のものが信仰に()り、又そのお蔭で他のものが神様の御用が勤まる。これについても他のものは三郎(さぶ)の分まで働かねばならぬと思ふ。それにしてもあれ丈の罪穢(めぐり)を、眼の故障(ぐらゐ)にとどめてくだすつたのは、神様の方で余程の恩典であつたに相違ない。
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