霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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(十)

インフォメーション
題名:(十) 著者:浅野和三郎
ページ:237
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2025-01-24 22:22:00 OBC :B142500c63
 陸軍将校が大本の話をきくべく、ボツボツ福知山(ふくちやま)支部へ来かけたのは、大正六年の(くれ)から翌七年の春にかけてのことであつた。それには現代式教育のある、布教者(とりつぎ)が欲しいといふ稲次(いなつぐ)支部長からの注文で、篠原君に福知山へ行つて貰ふことになつた。篠原君は家族を(ひつさ)げて福知山の支部の付近に引移つた。
 当時の篠原君は、肉体(ならび)に精神の大修祓の真最中(まつさいちう)で、大概は神諭を読みながら寝てばかり居たらしい。今度の御神業に引き()つれば、その頃が「立替の大峠」といふ所でもあらう。兎に角福知山以前と以後の篠原君には、すべての点に於て見違ふほどの大変化を生じて来た。
 稲次(いなつぐ)さんは神恩神徳の有難さが骨髄まで()み亘つた敬虔な信者で、それが日常の一挙一動にもよく(あらは)れて居る。これが篠原君に対して最も良好な感化を及ぼしたらしい。現代教育を受けた人の欠点は、兎角主我(しゆが)的、利己的、又打算的で、自己を(むな)しうすることが出来ない。自分なども其(くせ)()れ切れずに困つて居るが、篠原君も可なりそれがあつた。そして自分では立派な所思(つもり)で、不知(しらず)不識(しらず)の間に、(じよ)すべからざる神則(しんそく)違反をやつて居た。
 此浮世(うきよ)(あか)を洗ひ(おと)すのには、福知山は誠に(あつら)へ向きに出来て居た。全く人間の感化力ほど(おそ)ろしいものはない。善くも悪くも什麼(どう)でもなる。稲次(いなつぐ)さんの感化力は、篠原君に対して最も思ふ壺に(はま)つて働いた。それまでの篠原君は海軍士官の上に、大本信者の上衣(ころも)を着て居たが、それからの篠原君は大本信者の上に、海軍士官の上衣(ころも)を着て居るやうになつた。
 篠原君の肉体の上にも一大革命が(おこ)らずには済まなかつた。(それ)は世にも奇抜なる睾丸(きんたま)の病気の引越(ひつこし)問題であつた。ある日篠原君は御神前に出て熱心に祈願した。
(わたくし)などは(はなは)(けが)れた人間で、目下は神様の御慈悲により罪穢(めぐり)()いて戴いて居る最中で(ござ)りますから、却々(なかなか)病気平癒の御祈願などは致しませぬが、ただ場所が場所で、(いささ)かたりとも御神業の為めに働かして戴かうとするのに(はなは)だ困り入ります。身体(からだ)何所(どこ)でも構ひませぬが、ただモ少し人に見られても、体裁のよい所へこの病気を移して戴きたう(ござ)ります』
 この祈願は(ただち)に神界から聴き届けられた。一日の間に睾丸は全治して、そしてその(かは)左腕(さわん)上部が噴火口のやうに(えぐ)れ出した。この噴火口からは間断なく膿血(うみち)(ほとばし)り、又屢次(しばしば)疼痛(とうつう)(おこ)し、最も(ひど)い時分には腕骨(わんこつ)が露出するまで腐蝕し、とても()た目と見られた(ざま)ではなかつた。素人眼にはひ必定(ひつぢやう)腕は()げるであらうとまで言はれた。
 大本信者の(うち)のお医者さん達は大変心配して、篠原君に薬を飲ませたり、湯治(たうぢ)を勧めたりしたが
 何をやつても(すこ)しの効果も見えなかつた。それでも当人は案外平気で、その痛い腕をかかへて講演もすれば鎮魂も()つた。
 篠原君は大正七年の秋から一年半ばかり鳥取支部長を勤め、それから大正九年の春になつて、東京の確信会(かくしんくわい)(づき)となつたが、この足掛(あしかけ)二年の間(うで)(きず)は依然として(なほ)らず、(すくな)からず其活動を妨げて居た。人間の肉体一つでも、其改造にはかくの如く手間が取れるのを見れば世界の改造となると大変(むつ)()いに相違ない。世の大峠の絶頂に達する迄に、()ほ三十年の歳月(さいげつ)を要するものとすれば、峠を越へてからも、矢張り三十年(ぐらゐ)かからねば平地には達せられまい。余程気を長く、()かず、慌てず、しつかりした歩調で進まねばいかぬやうだ。しかし失望は禁物である。篠原君の五年(ごし)腫物(はれもの)も、大正九年の春の(はじめ)になると、次第々々に自然に(なほ)り出し、たうとう肉が(あが)つて、皮膚が出来て、綺麗に全治して了つた。之と同時に血色もよくなり、元気も湧き出て、今は押しも押されもせぬ、立派な健康体と、そして確乎(かくこ)たる信仰との持主(もちぬし)である。
 篠原君に(おこ)つたことを大仕掛(おほじかけ)にしたのが、所謂(いはゆる)世の立替へ立直しであると自分は思つて居る。
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