陸軍将校が大本の話をきくべく、ボツボツ福知山支部へ来かけたのは、大正六年の暮から翌七年の春にかけてのことであつた。それには現代式教育のある、布教者が欲しいといふ稲次支部長からの注文で、篠原君に福知山へ行つて貰ふことになつた。篠原君は家族を提げて福知山の支部の付近に引移つた。
当時の篠原君は、肉体並に精神の大修祓の真最中で、大概は神諭を読みながら寝てばかり居たらしい。今度の御神業に引き当つれば、その頃が「立替の大峠」といふ所でもあらう。兎に角福知山以前と以後の篠原君には、すべての点に於て見違ふほどの大変化を生じて来た。
稲次さんは神恩神徳の有難さが骨髄まで浸み亘つた敬虔な信者で、それが日常の一挙一動にもよく現れて居る。これが篠原君に対して最も良好な感化を及ぼしたらしい。現代教育を受けた人の欠点は、兎角主我的、利己的、又打算的で、自己を空しうすることが出来ない。自分なども其癖が除れ切れずに困つて居るが、篠原君も可なりそれがあつた。そして自分では立派な所思で、不知不識の間に、恕すべからざる神則違反をやつて居た。
此浮世の垢を洗ひ落すのには、福知山は誠に誂へ向きに出来て居た。全く人間の感化力ほど畏ろしいものはない。善くも悪くも什麼でもなる。稲次さんの感化力は、篠原君に対して最も思ふ壺に嵌つて働いた。それまでの篠原君は海軍士官の上に、大本信者の上衣を着て居たが、それからの篠原君は大本信者の上に、海軍士官の上衣を着て居るやうになつた。
篠原君の肉体の上にも一大革命が起らずには済まなかつた。夫は世にも奇抜なる睾丸の病気の引越問題であつた。ある日篠原君は御神前に出て熱心に祈願した。
『私などは甚だ汚れた人間で、目下は神様の御慈悲により罪穢を除いて戴いて居る最中で厶りますから、却々病気平癒の御祈願などは致しませぬが、ただ場所が場所で、聊かたりとも御神業の為めに働かして戴かうとするのに甚だ困り入ります。身体の何所でも構ひませぬが、ただモ少し人に見られても、体裁のよい所へこの病気を移して戴きたう厶ります』
この祈願は直に神界から聴き届けられた。一日の間に睾丸は全治して、そしてその代り左腕上部が噴火口のやうに抉れ出した。この噴火口からは間断なく膿血が迸り、又屢次疼痛を起し、最も酷い時分には腕骨が露出するまで腐蝕し、とても二た目と見られた態ではなかつた。素人眼にはひ必定腕は捥げるであらうとまで言はれた。
大本信者の中のお医者さん達は大変心配して、篠原君に薬を飲ませたり、湯治を勧めたりしたが
何をやつても些しの効果も見えなかつた。それでも当人は案外平気で、その痛い腕をかかへて講演もすれば鎮魂も行つた。
篠原君は大正七年の秋から一年半ばかり鳥取支部長を勤め、それから大正九年の春になつて、東京の確信会付となつたが、この足掛二年の間腕の疵は依然として癒らず、少からず其活動を妨げて居た。人間の肉体一つでも、其改造にはかくの如く手間が取れるのを見れば世界の改造となると大変六ケ敷いに相違ない。世の大峠の絶頂に達する迄に、尚ほ三十年の歳月を要するものとすれば、峠を越へてからも、矢張り三十年位かからねば平地には達せられまい。余程気を長く、急かず、慌てず、しつかりした歩調で進まねばいかぬやうだ。しかし失望は禁物である。篠原君の五年越の腫物も、大正九年の春の初になると、次第々々に自然に癒り出し、たうとう肉が上つて、皮膚が出来て、綺麗に全治して了つた。之と同時に血色もよくなり、元気も湧き出て、今は押しも押されもせぬ、立派な健康体と、そして確乎たる信仰との持主である。
篠原君に起つたことを大仕掛にしたのが、所謂世の立替へ立直しであると自分は思つて居る。