首尾克く妻が一連の珠を、嚥み下したのを見そなはした時に、神さまは徐に懐中を探つて、今度は真紅の緒を通した、一箇の水晶の珠を取り出された。
『これを汝に遣はす。神の見る前で嚥んで見せよ』
畏る畏る妻は両手をさしのべて、神の御手から件の珠を受取つたが、先刻吐いた珠よりは遙に大型で、づツしりと受けた手に重みを感じた。質は飽まで透明で、水や滴る、露やこぼるるかと疑はるる明玉、覚えずうつとりと見惚れて了ふのであつた。
『さア早うそれを嚥むのぢや』
急き立てらるる神のお言葉に、妻は、はツと我にかへつた。先刻の珠は辛うじて嚥み込むことが出来たが、今度のはいかにも大きく、神のお言葉が寧ろ恨めしかつた。
『とても神さま、私には嚥めは致しませぬ。お宥しを願ひます』
『イヤ嚥める。汝に嚥めるから嚥めと申すのぢや』
『でも什麼してこれが……』
『早ういたせ、早う!』
と神様は相手にしてくださらぬ。仕方がないので妻も漸く覚悟を決めた。
『それなら、一生懸命嚥んで見ます』
珠を携へて神の御前を通り、次の室の水甕のある所まで行つて、珠を口に入れ、水と共に嚥みおろした。
珠は思ひの外に滑らか、スルリと咽を通過して、胸に行つてつかへた。苦しいので又水を一と口……。
と、俄に眼が開いた。暁の色は微かに戸の隙間から射し込んで居るが、まだ夜は明け切らない。今までありありと拝し得た神の姿は何時しか消えたが、ただ胸の痞はまだ少しも去らない。何処までが夢で、何処までが現か、とてもその区別がつかなかつた。思ひ惑うて妻は自分を揺り起して、今あつたことを詳さに物語つた。
『私どうしても夢のやうには思はれません。まだ胸のこの辺が些し痛う厶います』
などと言つて、頻に胸を撫つて居た。
大本の信仰に入つてから、これまでにも屢次夢で色々の事を知らされて居るので、今度のも確に霊夢であると自分は直覚した。素盞嗚尊の御出現、三十許りの連珠、赤い緒の白珠──無論自分の胸に覚る所はあるにしても、下拙な説明を下すべき限りでないのは言ふまでもあるまい。自分は直に妻が見た有りのままを茲に書いて置くにどめる。
兎に角この前後から、麦は妊娠した。
教祖さまも出口先生もこの話をきかれると、大変お歓びになつてくだすつた。生るる児が女子であることは何方もすぐお判りであつた。出口先生は早速筆を揮つて、
『月満放神光』
の一幅を書いてくだすつた。この文句を見ても胎児の女性であることは明かに示されて居た。
暁近く珠を与へられた母親は、十箇月の後に月満ちて暁近く女児を生んだ。その砌自分は態と子供達を外に連れ出し、船を和知川に浮べて居たが、うらうらとさし昇る旭日の光を浴びつつ、安産の吉報を得た歓びは今も尚ほ忘れない。
生れた女児に何といふ名をつけやうかといふのが、引続いて起つた軽い心配であつた。自分の頭脳の中で考へついた名は三ツも四ツもあつたが、寧ろこれは神示によりて決すべきであると暁つて、綾部の産土、熊野神社に参拝した。
祝詞を奏上して、お礼を申上げてから、社前で鎮魂の姿勢を取りて神様に伺つた。
『最早神界にては、今度生れた女児の届け出があつたことと存じます。名は何と申すか、お告示を願ひます』
待つ間程なく御神示に接することが出来た。美智子といふ名は斯くして命けられた。後で気がついて見ると、出口先生の下すつた掛物の文句の中にも、立派にこの名が暗示されて居た。