三郎の命拾ひの話をした以上は、順序として、美智子誕生の話をせんければならぬ。美智子は大正七年の七月二十五日並松で生れた。自分等夫婦の間のたつた一人の女の児だ。
思想が唯物的に流れた現代人士は、何事に対しても物質の上からのみ解釈を試みたがる。妊娠の説明なども矢張りその選に漏れない。無論それが決して全部誤謬といふのではない。立派な半面の真理ではあるが、しかし、他のより重大なる半面の真理を閑却して居る。外でもない、姙娠の鍵が神様に握られて居るのを無視して居る事だ。人間の夫婦の力のみで子を生み得ると思ふと、それは飛んでもない間達ひである。夫婦は寧ろ神の傀儡として盲目的行動を執るだけで、神様は素知らぬ顔をして、蔭から人間の夫婦を自由自在に操つて御座る。性欲は畏らく人間の属性であらうが、清き愛情の出発点は確に神に在る。この二者はしばしば合同しても働くが、又離れても働き得る。前者は衝動的、後者は持続的、その間に自ら截然たる区別があると思ふ。
子供が人間の力のみで生み得ぬことは、事実が立派に証明して居るから、抗議の余地はないと思ふ。人生儘ならぬ事の多い中に、生れる子供もその一つだ。モウ沢山と云つて居る夫婦の間に、弥が上にも子供が生れたり、手を合せて拝む程希ふ所に、最後まで一人も生れなかつたり、男の児を求むる所に女の児が生れ、女の児を欲しがる所に男の児が生れ、一方に誂へ向きの玉のやうな子宝を得て歓ぶ家庭があるかと見れば、他方には二た目と見られぬ子どもを生んで、憂へ悲しむ夫婦もある。これが人間業でないことの活きたる証拠でなくて何であらう。自分の注文通り、工夫通りの児が出来た暁に、唯物論者は意張つても遅くはない。それが出来ぬ間は、黙つて小さくなつて、引込んで居るより仕方があるまい。
議論めきた事はヌキにして事実を語らう。自分等夫婦の間には最初三人までは非常に規則正しく男の児のみ生れ、何れも年齢が三つ違ひであつた。ところが其後はパツタリ杜絶えて、十年の星霜を重ねて了つた。
『ぜひお嬢さまがお一人おありにならなければ……』
などと、出入りの者などがよく言つたものだ。妻も自分もそれを欲しいと思はぬではないが、こればかりは人間の智慧でも学問でも及ばぬことであるから、子供は男の児三人切りと観念して、全然断念めて暮して居た。
すると大正五年の春から例の鎮魂修行、出来た二三の神憑者の口からは自分等夫婦の間に久しからず子供が生れることが漏らされた。
『神界ではモウ立派に決つて居る、其所思で居れ』などとよく言はれたものだ。自分が人間の生死の問題に関して、聊か霊的研究の歩を進め出したのはその時分からの事で、幾多の実証実例に就きて考究した結果、ドウも神界の役場ともいふべき産土神には、人間の生も死も余程前から判つて居ると信ずべき幾多の理由がある。ただ生死の問題は幽界の秘事で、大体に於て人間には決して漏してくれない。殊に死といふ事は極秘中の極秘のやうだ。百弊あつて一利なきが為めであらう。人間はこの点に関して全然盲目であり、明日死ぬまでも、その間際まで一心に働かねばならぬ運命を有つて居る。
それは兎に角自分達は綾部に移住して約一年、子供の生れることなどは全然忘れて了つた時分になつて、図らずも妻に奇妙な霊感があつた。
夜も正に明け離れるに近い午前四時頃、突如として妻の枕頭に現れ給うたのは素盞嗚尊さまの御神姿であつた。御顔に微笑を浮べさせ、お言葉もいと優しく、
『爾の肚裡には数多くの珠がある筈、一度夫を吐き出して見せよ』
意外の仰に妻は且驚き、且怪しみ、畏る畏る答へた。
『私には其麼ものは厶いませぬ』
『イヤ確にあるのぢや、早う致せ』
有る筈がないと思ひつつも、神命もだし難く、軽く呟払ひをして見ると、意外にも一連の珠がソロソロと咽から出た。
赤、紫、水晶、黄、青、緑などとりどりの色を帯びて、眼のくらむほどうるはしく、そして珠の数は三十許りと数へられた。神様は点頭きたまひて、
『むむそれでよしよし、元の通りに肚裏に収めよ』
との仰せ。妻は内心では、斯麼ものをとても嚥み込むことは出来まいと思ひ乍らも、止むことを得ず口に当て見ると、不思議にも何の苦もなく、スルスルと咽喉へ入つて了つたのであつた。