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地方組織の拡大

インフォメーション
題名:地方組織の拡大 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:176 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日:2021-08-18 01:32:27 OBC :B195402c5304
 総本部の指示をうけた地方の代表者は、それぞれ帰国後、大本の信者、昭青・坤生各会員に、昭和神聖会創立の要旨を説明するとともに、全員協力して賛同者をつのり、地方本部・支部の結成に不眠不休の活動をはしめた。結成にあたって信者・会員にもっとも魅力であったのは、出口聖師が中心に立つということであった。「いよいよ聖師が立ちあがられるのだ」という信仰的情熱が、信者・会員のムードをもりあげていった。
 八月一二日、地方本部の第一声が、まず京都からあがった。三〇〇〇余人におよぶ知名人の賛同をえた京都は、岡崎公会堂で京都地方本部の発会式をあげたが、参集者は数千人にたっし会場にはいりきれないほどであった。竹山祥三朗の司会で、出口三千麿が宣言を朗読したのち、第一次大本事件以後、かつて一度も公衆の前に立つことのなかった聖師が、統管として壇上にあがり、聖師みずからによる昭和神聖会結成の決意がひれき披瀝された。ついで発会式は講演会にきりかえられて、「海軍軍縮問題と国難に直面せる国民の覚悟」と題する南郷少将および国防協会の小島高踏らの講演がおこなわれた。
 八月二一日、聖師六四回の生誕祭にあたっての、信者総会の席上で、聖師から、「東京及び横浜に七ヶ月間程尻を据ゑて各方面の名士の意見を聞いたり、状態を見たりしておりました。……いろいろな愛国団体が百廿余ありますが真面目なものは三つか四つで、そのほかは皆金もらい或はファッショ式の団体が多い様に見受け……。茲において私は愛国の志士の賛同を得、大本の昭和青年会を小堅として昭和神聖会を開設することに決心したのであります。……昭和神聖会は政治でもなければ宗教でもない。世界を一団とし、そしてわが万世一系の皇室の恩沢に浴して争ひもなく嘆きもない本当の五六七の世を造りたい。その産声をあげたのが神聖会であります。……六十四回目の私の誕辰(たんしん)誕生日のことに当りまして昭和神聖会が創立せられましたのは少し遅れた観がありますけれども……天の時、地の利、人の和を考へておつたが為めに今日まで遅れたのであります」と、昭和神聖会発会の経過にふれた挨拶がなされ、さらに
前途は遼遠でありますが、今後は政治や、宗教や、教育等すべてを超越して惟神の政治を説こう、惟神の教育を説こう、或は惟神の宗教を説こうといふ考へになつたのであります。……政治といふものは総て一人も嘆き悲しみ、怨む者のない様にするのが政治である。……皇道経済といふ事を私かいふたのは、大君が兵馬の大権を御握り遊ばすやうに経済の大権をも掌握されて、つまり国民全部が土地の所有権を奉還申上げ、従来の金銀為本によつて生じた経済的行詰りを土地為本の政策によって打開したならばよいと思ひます。……皇道経済を金銀為本の政策から考へたならば何も判らない。土地為本御稜威為本として考へたならば皇道経済の主眼は判って来る
とその意図が説明される。
 こうして昭和神聖会は発足したが、賛同者には知名人がおおく、運動をすすめてゆくうえに手となり足となる実践会員の不足がめだっていた。そこで体制の強化をはかるために、「人類愛善新聞」を昭和神聖会の機関紙のかたちにし、実際の活動部隊は昭和青年会に担当させることになった。聖師生誕祭にあたって昭和青年会の総会が開かれて、左の声明文が発表されたのが、その間の事情を物語っている。
   声明
曩に本会総裁は皇国内外稀有の不安に会せるを憂ひ、身命を挺して皇国の為に蹶起せられ、昭和神聖会を結成し、主義綱領並に宣言を天下に発表して其目的に遇進せらる。昭和神聖会と本会は指導原理を一にするのみならず其目的の達成は皇国本来の使命に外ならず。故に本会は積極的に之を支援し協力せんことを期す。
 右声明す。
   昭和九年八月二十一日   昭和青年会
 これにともなって、昭和青年会の今後のあり方が検討されることになった。会長の宇知麿は、「昭和神聖会に対する本会の立場が明かになりました以上、昭和神聖会を極力支援し、之に協力して皇道宣揚のため愈々対外的活動を更に積極的に進めます為に、この度昭和青年会本部を東京に移し、亀岡天恩郷に総本部がおかれることになりました」と会則の改訂を発表し、ついで、「一、昭和神聖会に関する件」として、声明にもとづいてその使命の達成に全力をつくし、昭和坤生会と全面的に協力すること、「二、皇道宣揚運動に関する件」として、国体闡明運動・大家族精神運動・国防運動等はひきつづきその徹底に努力すること、「三、人類愛善新聞百万部持続発展の件」として、新聞の拡張は本会の重大責任であるから、一〇〇万発行部数を持続しますます発展を期すべく努力すること、という指示がなされた。またこの機会に本部組織の一部があらためられ、訓練部が統制部に、航空部が国防部となった。さらに同日昭和坤生会の会則もあらためられ、会長・会長補のもとに管事・管事補をおくこととし、管事に西村雛子、管事補に高木孝子・御田村卓子が就任した。
 昭和神聖会は、こうして名実ともに人類愛善会・昭和青年会・昭和坤生会をその傘下におさめることになった。運動の組織化とともに統管の活動もまったくめまぐるしいものとなった。すなわち統管は、昭和青年会統務の大国をつねにともない、統管旗を北出古万吉にもたせて、昭和神聖会地方本部・支部の発会式にすすんで出席した。
 八月一九日大阪地方本部(中之島公会堂)・二二日何鹿支部(綾部町波多野記念館)・九月二日北陸地方本部(金沢市公会堂)・九日名古屋地方本部(公会堂)・一三日南桑支部(亀岡町公会堂)・一五日四国地方本部(松山市国技座劇場)・二四日九州地方本部(熊本市公会堂)・一〇月二日神戸支部(県会議事堂)・五日城崎支部(豊岡町役場)・七日鳥取地方本部(公会堂)・九日伯西支部(米子市電気館)・一〇日与謝支部(宮津町橋立劇場)・一一日加佐郡西支部・一二日天田支部(福知山町)・一四日津支部(三重県社会事業会館)・一七日静岡地方本部(城内小学校講堂)・二一日東北地方本部(仙台市公会堂)・二二日盛岡支部(盛岡劇場)・二四日沼津支部(商工会議所)・二五日船井支部(園部町)・二七日島根地方本部(松江市公会堂)・三〇日岡山地方本部(公会堂)・一一月二日広島地方本部(公会堂)・四日姫路支部(公会堂)・五日朝来支部(竹田町)・一五日宇治山田支部(神都公会堂)・一六日大津支部(公会堂)・一七日紀州地方本部(和歌山市公会堂)・一八日西牟婁支部(田辺町公会堂)・二〇日日高支部(御坊町日吉座)・二一日西之宮支部・二二日浜松支部(公会堂)・二三日東京地方本部・東京支部(早稲田大隅大講堂)・二四日横浜支部(開港記念館)・二五日水戸支部(常磐座)・二六日新潟地方本部(新潟劇場)・二九日北九州地方本部(戸畑市公会堂)・一二月一日横須賀支部(三笠記念館)・二日甲信地方本部(上田市公会堂)・四日稗貫支部(花巻小学校講堂)・五日奥羽地方本部(青森市歌舞伎座)・六日弘前支部(公会堂)・八日山形地方本部(第一小学校)・九日米沢支部(第二常磐館)・一〇日福島支部(公会堂)・一一日宇都宮支部(公会堂)・一二日前橋支部(臨江閣別館)・一三日浦和支部(埼玉会館)・一五日能美支部(小松町小学校)・一六日金沢支部(香林坊大神宮社殿)一七日鹿島支部(七尾町女学校)・一八日高岡支部(小学校)一九日富山支部・二〇日岐阜支部(公会堂)・二一日志太支部(藤枝町小学校)・二一日榛原支部(川崎町小学校)。
 以上が統管の出席した各地方本部・支部の発会式である。このわずか四ヵ月の間に東北・関東・東海・北陸・近畿・中国の各地方五九ヵ所の発会式にのぞまれたのである。このほか二八ヵ所、計八七ヵ所の発会式がおこなわれた。
 これらの地方本部・支部発会式において、賛同者三〇〇万人を獲得したことも注目すべきである。発会式は式後ただちに「華府海軍々縮条約廃止」の講演会にきりかえられ、国民大会の名のもとに、政府にたいし条約廃止断行の決議文が電報でおくられた。当局および枢要な重臣・財閥が非常なおどろきと脅威を感じたのはいうまでもない。このように東奔西走する統管の身をあんじて、亀岡・綾部の大本本部では統管に忠言するものが相当にあったが、統管はこれを聞きいれなかった。
 統管が発会式にのぞんだ機会に、各地方ではかならず有力者・知名人などとの懇談会や座談会が計画されて、時局にたいする統管の意見をきき、さらには書画の揮毫がもとめられた。しかも信者・会員はむれをなしてつきまとい、宿舎におもむいては面会をもとめ、書画短冊の揮毫を懇請し、なかには身上相談や病気の祈願までもねがいでる状態で、統管はじゅうぶんに食事をとるひまもなかった。日程は変更できなかったから、汽車で休養することになったが、車中でも新聞記者のインタービューがつぎつぎにおこなわれるし、熱心な信者は車中で面会をもとめ、夜行の場合も各地の駅で送迎かあって、睡眠もできないほどの多忙さであった。
 秋季大祭のとき、分所支部長会議の席上、昭和青年会統務大国は、統管の日程は本部で定めたとおり厳守すること、面会は信者は自粛し、夜間通過駅での送迎はつつしむこと、統管の座談会・懇談会は重要都市に限定することなどを要請し、「日夜御活動される統管の御健康については、もつと御配慮を願ひたいと存じます……御健康如何がいかに重大であるかを御再考願ひたい」とうったえて、日夜活動する統管の身をあんじているのをみても、聖師の活動にはめざましいものがあった。当時の汽車は、幹線には急行があったが、現在(昭和四〇年)のごとくスピードアップされたものではなく、まだ下関─門司間を船で連絡していた時代であった。東京を昼ごろに発車すると北九州には翌日の昼前につくので、ただちに発会式会場に向い、懇談会・面会等をおわれば、すぐまた東京にかえらなくてはならない。したがって車中が唯一の休養の場となった。「人類愛善新聞」は「僅か一箇月間に空陸七千哩」とつたえ、若い元気な随行者でも疲労してつづかなかったくらいである。にもかかわらず、統管は、「わしはやるといつたら、やりぬくのだ」ときわめて精力的であった。
〔写真〕
○神聖運動は爆発的な勢いでひろがっていった p179
○どの会場も聴衆でうずまった 上は綾部何鹿支部 下は大津支部 p180
○即発的に地方もたちあかった 上は東北地方本部発会式 仙台 下は台北地方本部発会式 台北 p181
○東奔…… 船上の出口統管 p182
○西奔…… 車中の出口統管 p183
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