大津会議によって大本検挙の方針が具体化した。京都府警察部によってその準備が急速に進められ内務省との打合わせもひんぱんになった。その打合わせにはすべて暗号がつかわれている。たとえば、「王仁三郎─組合長、綾部総本部─事務所、地方本部、支部─出張所、検挙─招待、霊界物語─規約、司法省─荘司さん、検事局─岡さん、小野検事─小田さん、取調─研究」等といったぐあいである。また検挙に必要と予想される書類として、大本の主義・綱領・規約集、大正十年事件記録写、幹部・信者の認識調、大本刊行物一覧、大本関係団体組織・機関分布一覧、特殊行動調、重要指令、通達書類などを、あるいは公然に、あるいはスパイをつかって入手し準備した。
一一月一日には内務省事務官秋吉威郎が打合わせのために入洛した。二日には、内務省が交渉した結果、司法大臣小原直から直接に検挙指令をうけたといわれる徳永栄吉が、東京地方裁判所次席検事から京都地方裁判所検事局の検事正になって移動してきて、ここに検挙体制がととのえられた(「徳永談話」)。一一月中旬には、京都府警察部は、検挙実施計画書、部隊編成表、綾部並亀岡両本部見取図、各建造物の構造および居住者調、捜査上の注意書、各部隊長にたいする命令書、部隊召集命令に関する通牒、留置人配置表等の検挙準備の一切を完了した。宗教団体にたいする検挙準備としてはおどろくほど綿密なそしてまたおおがかりな計画であった。またこのころより、各種の打合わせ連絡は街頭や神社の境内を利用したというのであるから、いかに秘密の保持のために苦心していたかがわかる。
こうして準備が完了すると、最後にのこされたものは検挙の最終決定である。大本は宗教団体として巨大であるのみならず、さきにものべたように、現役軍人や右翼団体とも関係連絡があることがわかっているから、検挙に付随して発生する不測の事態をも予想して慎重にかからねばならない。そのためには検挙にあたり、治安維持法違反に該当する明白な検挙理由の論拠をつくりあげなければならなかった。そしてその理由づけを担任したのは内務省の永野・古賀らであった。古賀らは一月下旬になって、大本教典の中から、「国体変革に該当する」と思われる辞句を抽出し、たくみにつづりあわせ、「国体変革の理論」を創作した。内務省警保局保安課刊行の『大本事件の真相』によれば、それは大要つぎのようなものであった。
大本教義の根幹をなすものは建替え建直し、すなわちみろくの世の実現の思想である。これは単に精神的な意味ではなく、現実の政治、経済を革新する思想であり、しかも現皇統の統治を否認し、王仁三郎みずからが日本の統治者となってこの革新をおこなうという思想である。このようなみろくの世の実現に関する大本の主張は次のようなものである。太古に伊邪那岐尊は、天照大御神に高天原を授けて天上の主宰神とし、その弟素盞嗚尊には大海原、つまり地球を授けて地上の主宰神とした。そのため天津神と国津神との開には歴然たる区劃が生じ、地上界は「皇祖」素盞嗚尊の統治するところとなり、霊主体従の神政が行われたが、尊の施政は余りに厳格剛直なため八百万神の反抗排斥を受け、ついに天照大御神の天の岩戸隠れの責任を負い神議の結果、地上界の統治者としての座から追放された。これは尊が世界万人の犠牲となって統治者としての地位を隠退したものに外ならない。素盞嗚尊の隠退後、その子大国主命は出雲の国を統治していたが、天孫瓊々杵尊が降臨してきたため、天孫に帰順して政権を譲渡するに至った。ところがその後、天孫の系統(現皇統がそうである)による施政は和光同塵、体主霊従を主とした結果、弱肉強食、私利私欲を恣にする現在の紛乱状態を現出し、統治全く乱れて民衆は塗炭の苦に喘ぐ悲惨な状態を呈するに至った。その理由を考えてみると、これは正に太古の神勅に背き、地上本来の統治者たる素盞嗚尊の子孫によらず、高天原の主宰神たる天照大御神の系統によって統治しているところに基因するというべきである。ところが天運循環三千年後の今日、再び素盞嗚尊の出現を要することとなり、ついに至仁至愛の尊はこの現状を黙視するに忍びず、済世救民の大救世主として綾部本宮に現われ、王仁三郎の肉体に化生して再び地上の統治権を回復し、この世の建替え建直しを行わせられるに至ったのである。そしてこれがすなわちみろくの世の成就にほかならない。
これは大本における宗教的意義を政治的にこじつけたものであった。大本における「建替え建直し、すなわちみろくの世の実現の思想」が、ただちに「皇室の統治を否認し」、王仁三郎が統治者となる思想ときめつけることが、大本の教義に照らしてはたして妥当なものであろうか。たとえば「極楽世界」とか「地上天国」の実現という言葉が、統治者を否認する意味をもつものと解釈しうるかどうか。そこには宗教教典にある宗教用語を強引に政治に結びつける飛躍とこじつけが宿されている。つぎに「地上界は皇祖素盞嗚尊の統治するところとなり、霊主体従の神政が行われた」とある。このような叙述は『古事記』はもとよりのこと、大本の教典のなかにもない。『古事記』には「速須佐之男命、命し給へる国を知さずて八挙須心前に至るまで啼きいさちき。…故伊邪那岐大御神、速須佐之男命に詔りたまはく、何由かも、汝は事依せる国を治さずて哭いさちるとのり給へば、爾に答白し給はく、僕は妣の国、根の堅州国に罷らむと欲ふが故に哭く、とまをし給ひき。爾に伊邪那岐大御神、大く忿怒らして、然らば汝は此国には、な住みそ、と詔り給ひて乃ち神やらひ賜ひき」とあって、「地上界は皇祖素盞嗚尊の統治するところとなり、霊主体従の神政が行われた」ということを意味する個所はない。「尊の施政は余りに厳格剛直なため八百万神の反抗排斥を受け、ついに天照大御神の天の岩戸隠れの責任を負い神議の結果、地上界の統治者としての座から追放された。これは尊が世界万人の犠牲となって統治者としての地位を隠退したものに外ならない」と断定している理由は、『古事記』のどこからでてくるのであろうか。素盞嗚尊の統治が「八百万神の反抗排斥を受け」、そのために「ついに天照大御神の天の岩戸隠れ」となったとは『古事記』にはない創作である。
つぎに「素盞嗚尊の隠退後、その子大国主命は出雲の国を統治していた」とあるが、ここにもおどろくべき解釈の飛躍がある。『古事記』によれば伊邪那岐大神は三貴子を得て天照大神に「汝が命は高天原を治らせ」、月読命に「汝が命は夜の食国を治らせ」、建速須佐之男命には「汝が命は海原を治らせ」と「事依さしたまひき」とある。これは、三神による分治の神話であって、王権が直系の嫡子によってうけつがれるようになる時代よりはさかのぼる、古い継承権のあり方が投影されている個所である。もとより出雲国というような、地上に政治的まとまりをもった行政区ができた時代のことではない。「これは正に太古の神勅に背き地上本来の統治者たる素盞嗚尊の子孫によらず」といわれるようなものではない。ちなみに『古事記』では、素盞嗚尊が海原を治すことを放棄したので、伊邪那岐大神は「大く忿怒らして……此国にはな住みそ、と詔り給ひて乃ち神やらひ賜ひき」とあって、「海原を治らせ」との勅はのちに撤回されることになる。したがって「済世救民の大救世主として綾部本宮に現われ、王仁三郎の肉体に化生して再び地上の統治権を回復し」というような解釈は『古事記』からはでてこない。
『霊界物語』の場合はどうか。第一巻の序文に「この『霊界物語』は天地剖判の始めより、天の岩戸開き後、神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、遂に叢雲宝剣を得て天祖に奉り、至誠を天地に表はし……」と書かれている。すなわち八岐大蛇をたいらげて天祖(天照大神)の神政に至誠奉仕することを物語ったものとされるのである。このことは『霊界物語』第一五巻にものべられており、素盞嗚命が天の岩戸隠れの後に、高天原を神やらいにやらわれて、母神伊邪那美命に面会するため地教山に登ったところ、「ヤヨ愛らしき素盞嗚尊よ、わらはは汝が母神伊邪冊命なるぞ。汝が心の清きことは高天原には日月のごとく照り輝けり。さりながら大八洲国になり出づる、あまたの神人の罪汚れを救ふは汝の天賦の職責なれば、千座の置き戸をおひてあまねく世界を遍歴し、あらゆる艱難辛苦をなめ、天地にわだかまる鬼、大蛇、悪狐、醜女、曲津見の心を清め、善を助け悪をなごめ、八岐の大蛇を十握の剣をもって切りはふり、彼が所持せる叢雲の剣を得て、天教山にまします天照大神に奉るまでは、ただ今かぎりわらはは汝が母にあらず、汝またわらはが子にあらず、片時も早く当山を去れよ。再び汝に遭ふことあらん。曲津の猛び狂ふ葦原の国、随分心を配らせられよ」と云われている。これは序文と同一の意味であって、素盞嗚尊は八岐大蛇・邪鬼・悪霊等をたいらげ、一切の罪穢を一身にひきうけ、贖罪の神業に奉仕するのが天賦の使命であるというのである。これが大本教義における救世的神業とみなされるものであって、素盞嗚尊が統治者となるという教義思想はない。「再び地上の統治権を回復し」、「そしてこれがみろくの世の成就にほかならない」という内務省側の見解は、いったいどの文献によって立論されたのか。それは創作以外のなにものでもない。
当局は、大本側は、教義の根本思想を公刊文書では露骨に表明することができないから、間接的にそれを信者に知らしめる手段をえらび、王仁三郎が案出した『霊界物語』という夢物語に仮託しているのだとも認定する。当局が引用したものは、『古事記』および大本文献のなかから断片的にぬきだしたものを、たくみにつづりあわせたものにすぎないのであって、それを具体的に指摘できない場合には、こうした仮託説をひきだしてくるのである。
さらに内務省当局が創作した、いわゆる「霊界物語の移写関係」における見解は、大要つぎのようなものであった(前掲書─要旨)、
地上の霊界の主宰神は国常立尊であったが、事情があって盤古大神にその地位を譲ることになった。霊界のことは、地上現界に必ず反映するものであるから、地上の現界も霊界の主宰神が交替した如く、素盞嗚尊が瓊々杵尊と交替したのであった。ところが天運循環し来って、明治二五年、地上霊界は国常立尊の神政にかえることとなった。これが今度は地上現界にうつりきたって、素盞嗚尊の霊代である王仁三郎が、瓊々杵尊の系統たる現皇統に替って日本の統治者となるものである。この仕組は三千年来予定されていた神の経綸であって、これが所謂一厘の仕組である。
これもまたまことしやかな想定である。大本の文献では、太古において国祖国常立尊の神政が破れて隠退した時には、まだ素盞嗚尊は出現していなかったとする。『霊界物語』では国祖の隠退後幾多の変遷をへて、神幽顕の世界は邪悪神のため、体主霊従的罪穢によって大洪水などの天変地異がおこったので、国祖は世界一切の罪を一身ににない、妻神とともに地底の国に落ち、すべての罪穢をあがなった。そうした後に伊邪那岐大神の出現となり、天照大神・月読命・素盞嗚尊の出生となると書かれており、その出生の時期も異なっている。『古事記』と『霊界物語』とをこじつけ、「地上の現界も霊界の主宰神が交替した如く、素盞嗚尊が瓊々杵尊と交替したのであった」と、どの文献にもみえないすじみちを組みたてたもので、それはおとし入れんがための作為にもとづくものであったことはいうまでもない。
当局のいう「移写関係」なるものは大本の教典にはみあたらない。そして「これが所謂一厘の仕組である」とも断定している。ところが「一厘の仕組」については、『霊界物語』第一巻第三六章「一輪の仕組」のところに、「国常立尊は邪神のために三個の神宝を奪収せられん事を遠く慮り給ひ、周到なる注意のもとにこれを竜宮島及び鬼門島に秘し給ふた。……その三個の珠の体のみを両島に納め置き、肝腎の珠の精霊をシナイ山の山頂へ、何神にも知らしめずして秘し置かれた。これは大神の深甚なる水も洩らさぬ御経綸であって一厘の仕組とあるのはこの事を指し玉へる神示である」と明瞭に示されているのである。素盞嗚尊の霊代である王仁三郎が統治者となる、これが「一厘の仕組」とはいわれていない。こうした当局作成の大本教義の曲解に依拠して、大本の根本思想は国体変革を企図するものという結論をみちびきだしたのである。その読本構想が、杭迫らによっておこなわれた刊行物の調査検討と入津会議によってくみたてられた。
ここで注意しておかなくてはならないのは、大本にたいする弾圧が、軍ファシズム運動の手足をもぎとり、その資金源をたち、国民大衆の革新勢力を阻止するという政治的要請から出発したにもかかわらず、調査の過程のなかから、このような国体変革を企図する団体という認識と理論が編みだされ、その立論の根拠が、『霊界物語』という純然たる宗教書に求められたということである。当局の思惑から事件の政治的性格が全面的に否定され、さらに公判廷においては、大本教義の理解をめぐる対立が最大の論争点となったこともあって、第二次大本事件はともすると宗教裁判であるとのつよい印象をあたえる結果にもなっている。このように「政治的要請」から出発した弾圧は、やがて、内在する神観のちがいという教義上の根本問題へと発展していったことをみのがすことができない。
そして昭和史の暗黒の一頁をいろどる諸宗教への弾圧がここからはじまってゆくのである。
こうして検挙の具体的な準備がととのえられていったが、昭和一〇年一一月下旬にあっては、まだ大本検挙の最後の断案はくだされていなかった。そのことについて古賀はつぎのように語っている。「一応理論体系はできたが、そのときはまだ検挙すべきか、見合わせるべきか踏みきりがつかなかった。それでそれ以上の決定は大臣なり閣議に委せなければならないというので閣議にまかせた。その結果、一応今までわかっている範囲内で治安維持法違反としての嫌疑は充分だ。検挙して真相をたしかめろという方針になった」(「古賀談話」)。もし古賀のいうとおりであるならば、一一月下旬、閣議決定によって大本検挙が決定されたということになる。その結果不敬罪以上の重罪である治安維持法違反を主たる容疑として検挙するということが確定したのである。
第二次大本事件は、治安維持法違反という罪名が、宗教団体に適用された最初の事例であるということも重要である。従来治安維持法は、主として共産主義運動にたいする取締りとして発動され、しかも一九二八(昭和三)年以後は、最高刑は死刑とする改悪がなされてきたものである。国体の尊厳を説き、皇道に立脚し、信仰を基盤とする国家主義的宣教に熱烈であった大本、そして右翼ともみなされた大本が、全く正反対の容疑によって検挙がおこなわれることになるという歴史の皮肉がそこにあった。治安維持法を、宗教団体もしくは右翼とみなされる団体に適用できうるかどうかということが、閣議でも問題になったが、結局、法に規定した内容と同じ思想内容をもっているものなら、左翼・右翼の区別はないし、そのうえ共産主義運動のみに適用するという特別の規定もないということから、岡田内閣は大本へ適用することにふみきったといわれている(「古賀談話」)。もっともこの法を不備としてこれをあらためる動きが、これまでになかったわけではない。治安維持法改正のうごきは昭和九年八月からふたたびはじまり、一〇年三月四日には、右翼団体の取締りに適用範囲を拡大することをもりこんだ改正法案が、議会に提出されていた。しかし、世論の反撃もあって、三月二五日、審議未了で流産してしまったが、政府はその意図をすてたのではない。大本に治安維持法が適用されたのはその具体化であった。ちなみに、宗教団体にも適用されるものとして改悪公布されたのは、一九四一(昭和一六)年三月一〇日である。この「改正」も第二次大本事件の影響とふかい関係がある。
治安維持法を適用することが決定されてもまだ問題はのこされていた。それは治安維持法は「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタルモノ」(第一条)にたいして適用されるという点てある。大本の根本思想が国体変革の容疑をもつとしても、はたして結社組織の事実があったかどうかが問題となる。この点については内務省は充分な確信信をもっていなかった。そこで苦心の結果案出されたのが、昭和三年三月三日のみろく大祭をもって、「秘密結社」を組織したとする断定であった。このみろく大祭のことについては、すでにのべたとおりであるから詳述をさける(五編一章)。聖師が五六才七ヵ月に達し、みろく菩薩として下生し、現界的に活動するという祭典をおこない、一〇数人の幹部が至聖殿に昇殿し、祭典を執行したのち新人事を発表した。このとき参拝した信者たちは、暗黙の裡に国休変革を目的とする意志を通じあったとみなして、あらたに結社を組織したという解釈をくだしたのである。そしてその目的のために、数十万の信者を中心に、多数の賛同者を獲得したうえこれに組織的な訓練をほどこし、さらに他の革新勢力と結合したのち、目的達成のため決起しようとしたという解釈のもとに、昭和青年会や昭和神聖会をその中核的組織と断定したのである。
こうした当局による検挙のための法的な見解は、検挙後、昭和一一年三月に刊行された、警保局保安課の『大本事件の真相』という極秘文書にあきらかである。そして後述するように、警察および予審での取調べは、この『大本事件の真相』の見地にもとづいておこなわれ、検挙された被疑者をそのわくのなかにはめこむように取調べが仕組まれたのである。このようにして大本検挙の一切の準備は、昭和一〇年一一月下旬にととのえられ、検挙の日取りも一二月一〇日前後と決定された。
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○検察当局による大津での謀議は大本の運命を最悪にした アジトは三方琵琶湖を繞らし広潤一千数百坪奥まりたる数室を之に充て常時見張を附し細心周到、家人にも告ぐるに残暑の清遊を以てせり「杭迫日記」 p363
○徳永栄吉 小原直 p364
○天国の香ただよう綾部の神苑 金龍海にうかぶ教祖殿と言霊閣 p367
○開祖の奥都城には参拝者のたえることがなかった 綾部天王平 p369
○活気あふれる亀岡天恩郷 ①豊生館②更生館③瑞月庵④透明殿⑤明光殿⑥万祥殿敷地⑦春陽亭⑧大銀杏⑨秋月亭⑩月宮殿⑨高天閣⑩光照殿⑩千歳庵@大祥殿 p370-371
○白雲たなびく月宮殿 亀岡天恩郷 p373