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その前日

インフォメーション
題名:その前日 著者:大本七十年史編纂会・編集
ページ:374 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195402c6124
 おそらく閣議の決定をつたえ、検挙の最後的打合わせをするためであったろう。一一月下旬に永野事務官が入洛し、京都の検事正徳永栄吉・警察部長薄田美朝と密談している。このころ当局側がもっとも苦心したのは、その後の聖師および幹部の行動日程を正確につかむことにあった。そのため連日のように、大本の本部といわず地方支部へも刑事をはりこませ、ささいな動きをももれなく通報させた。これには大本側に気づかれないよう細心の注意がなされたことはいうまでもない。
 聖師が居住していた亀岡天恩郷には、杭迫特高課長の命をうけた亀岡署の由良伍一を配置して、専属に内偵させていた。そして、聖師はちかく 一、大連に行く 二、一二月八日の松江の島根別院の大祭に行く 三、南洋に渡航するという三つの情報をえた。しかし一一月一二日に大連行きは中止されたというあらたな情報をえたので、松江か南洋かということに予想がしぼられ、一一月一五日には急拠、東京本所警察署長の工藤恒四郎を島根県特高課長として赴任させた。工藤の談話によると、唐沢警保局長の命令で、赴任直前永野事務官にあい、永野から「大本教をいつ検挙するやらわがらん。外遊するといかんので松江でつかまえるから、これだけは内緒にしておけ」といわれたとのべている。それらを綜合すると、この時点では検挙の日は最終的には決定されていなかったが、外地に出られてはことがめんとうになるというので、出国するまでに検挙する必要に迫られていたことがわかるし、また松江で聖師を検挙する方針をとったことが知られる。
 一一月三〇日、東尾は宇知麿に書簡をおくり、「聖師様は来月二日綾部に御帰り、綾部より松江の神劇に御臨場致さるる御予定に候。綾部の御出発は何日に相成候や確かならず候へども、途すがら竹田別院、城崎温泉に御立寄りの御思召有之候へば、各一日づつの余裕をもつて御出発相成るべく……」と聖師の日程を報告した。これによれば聖師の松江行が最終的にきまったのは一一月末ごろであった。しかしその後の日程があきらかでなかった。当局は内偵をさらに強化して、聖師の行動を逐一報告させた。
 一二月一日、大津のアジトで薄田警察部長は特高課員や五十嵐綾部署長・木下亀岡署長をも召集して極秘の会議をおこなった。一二月三日、東京では大審院検事総長室で光行検事総長・木村大審院検事局次長・岩村司法省刑事局長・吉益大阪控訴院検事長・徳永京都地方裁判所検事正ら司法省首脳部の最終打合わせをおこなっている。「国家的事件」として、内務省警保局長・司法省刑事局長・検事総長など治安当局の最高首脳部が総動員され、検挙への綿密な準備がすすめられた。そして五日には、こうしたあわただしい動きをカムフラージするため、秋月京都府刑事課長を上京させた。ちょうどこのころ、大規模な鉄道疑獄事件と脱税事件を摘発中であったので、そのための上京とみせかけたのである。それほど警戒したのは、大本が事前に察知して、もし軍人・右翼と反撃に出たら一大事がおこるとおそれたためである。しかし、情報は大阪毎日新聞社には事前にキャッチされた。五日の夕刻大阪毎日新聞社京都支局の記者が、薄田京都府警察部長に電話したところ、薄田が内務省と連絡中の電話が混線するという偶然のキッカケから、大本検挙の動きを察知したのである。
 聖師は一二月一日南洋渡航を断念し、二日には穴太の瑞泉郷にいたり小幡神社に参拝した。そして四日には日出麿夫妻と綾部にかえった。五日は、いつものごとく神苑内を見てまわり、天王平の開祖奥都城に参拝して、同所の開墾地を奥畑と命名した。その夜、綾部在住信者の子供を鶴山山上の穹天閣に招き、「今晩は無礼講だ。みんな喰うて歌って騒いでくれ、しばらくお別れになるかも知れんから」とみずからも童心にかえって子供らとたわむれたという(塩月テル子談)。
 六日、森良仁・白石恵子を随行として島根別院の大祭にのぞむため綾部を出発した。途中鳥取市の山川石太郎方に一泊して、鳥取分院の開院式をおこなったが、聖師の泊った山川宅は夜どおしきびしい監視がつづけられていた(山川日出子談)。そして七日午後一時には、多数の信者にむかえられて松江駅に着き、ただちに松江市赤山の大本島根別院にはいった。
 この日綾部鶴山の機場では、二代すみ子によって、多年の念願とされていた四八台の機に経糸(たていと)緯糸(よこいと)のそろったものがかけられ、「タテ、ヨコ揃った機の仕組」の機が織られていた。そして二代すみ子も一〇時三七分発の列車でいそぎ松江へ出発した。
 杭迫は、検挙を「一二月一〇日頃を目標にしていたが、大阪毎日新聞が知ったらしいというので急拠一二月八日に早めた」と語っている(「杭迫談話」)が、もはや一刻の猶予もゆるされないと判断された。聖師が綾部をたって松江にむかったという情報をえて、六日夜、永野事務官と児玉内務属は急拠松江にむかい、七日早朝には相前後して松江に到着した。
 一方、六日の深夜、京都府特高課は綾部・京都間の道路を実地に踏査し、交通を遮断して検挙当日の万全にそなえた。そしていよいよ大詰めの七日早暁には、人目をさけて洛北の上賀茂神社境内に、薄田警察部長・杭迫特高課長・永岡保安課長・豊原警務課長らがあつまって立ちばなしで密談した。それは新聞記者の監視がきびしいので、その夜予定されていた警察部長官舎の会議を中止し、この会談で最後の打合わせをすましたという。この打合わせにもとづいて上京消防署で永岡保安課長が、かねて人選されていた池田・堀池・望月・別府・小浦の各中隊長を集め、また豊原警務課長は、田中・河津・村上・白畠・塩見・朝倉の各中隊長を北野警察署廐舎にあつめ、それぞれ大本検挙の具体的指令を伝達した。そして府下数百の警官を年末警戒の名目で動員した。じつにおどろくべき警戒ぶりであった。それは、昭和青年会の訓練された会員らが決死の反撃にでることをおそれたためでもあるという。
 この日、京都地方裁判所検事局は、予審判事に大本の強制処分を請求し、捜査押収令状が手交された。東京方面については、すでに六日、東京地方裁判所検事局へも嘱託されていた。
 七日早朝松江に着いた永野・児玉は、ただちに清水谷県警察部長官舎に入り、工藤特高課長・坂根松江署長・多々納警部らと午前八時から午後六時まで鳩首極秘裡の打合わせをした。そしてその夜、警察部長官舎が赤山の大本島根別院のふもとにあり、別院とあまりにも接近しているため、その行動を感知されることをおそれ、警察練習所長官舎に管下の警察署長を召集して、午後八時から一〇時までかかって出口王仁三郎検挙の指令を伝達した。特別警備隊員三〇人・警察練習所生徒四五人・警察部員一〇人、計八五人を二中隊にわかち、坂根松江署長・古川警務課長を各中隊長に、工藤が指揮をとる体制をととのえた。さらに大本にはピストルがあるという情報がはいっていることと、ここでも決死の昭和青年会員がどんな反撃にでるかもしれないという憶測によって、警官隊を武装させ、救護班を準備した。また官舎の家族はあらかじめ避難させたという。多々納警部の日記(一二月七日)には「何分とも極秘裡にこの大仕事の計画をやったので大変だった。十時ころ帰って一寸でも眠らうとあせったが、とうとう一睡もせなかつた」とある。動員された警察官らの緊張のほどがうかがわれる。
 島根別院にはいった聖師は、くつろぐひまもなく大祭に参拝するため県下からあつまってきた多数の信者に面会し、大祭後上演する神聖歌劇につき、亀岡から指導応援にきていた南靖雄(尊福)・田中緒琴・梅田伊都雄らに注意をあたえ、中国・四国・九州を巡回して聖師の命によって別院にはいっていた大国・大谷敬祐の報告を聞いた。そこへ、坂根松江署長がさあらぬていに聖師に面会をもとめ雑談してかえった。聖師は午後五時三〇分綾部から到着した二代教主となごやかな歓談をし、二代教主と大国を赤山の対岳亭にまねき、夕陽のうつくしくはえている大山の雄姿をはるかにながめ、抹茶をたしなみつつ、苑内の名残りの紅葉を観賞した。そのとき、大国は、「誰かの句だつたな、裹を見せ表を見せて散る紅葉といふのがあつたな」とポツリと語られた聖師の言葉を聞き、側近のものには「明日は大雨だな」ともかたられた。また、ふもとの警察部長官舎とおぼしきあたりをしずかに見下ろしていたともいわれている。その夜、聖師夫妻は赤山山上の三六亭に宿泊した。
 聖師・二代教主が松江に出発したあとは、三代直日が留守をあずかり、日出麿総統補は北関東巡教のため七日午後亀岡本部の光照殿にはいっていた。宇知麿は六日に上京し、七日には「人類愛善新聞」の特集「昭和十一年を語る」座談会に出席して、東京に滞在していた。そのありさまは『高木日記』によると、一〇月九日「朝六時すぎ……聖師様お出でになり玄関を叩き大声疾呼してお叱り、肺腑を貫くご教訓を下さる」、一一日には「課長会を光照殿に開き酷き訓示あり」とあって、神業が切迫しているのに、心がまえがまちがっていて緊張がたらんとも、聖師によってかたられていたというのにもうかがわれる。一〇月二〇日、高木から東京の米倉嘉兵衛にあてられた書簡には、「聖師様今日にて三日信者席に伍して朝夕御礼拝、おかげにて大祥殿は月並祭以上に満員に候……霊界は確かに一大転換ありたるやうに存じ候、立替の気運切迫をヒシヒシ身に感居候、内外に大波動の起ることを正感候」ともしるされている。しかも在住信者には、各家かならず一人以上朝夕の礼拝に参拝せよとの通達がだされていたので、緊張した空気が連日のごとくもりあがっていた。だが、大本側の信者・会員は大本検挙が明日にも迫っているとは気がつかなかった。
 そして、ついに運命の日、一九三五(昭和一〇)年一二月八日の未明は、刻一刻と近づきつつあったのである。
〔写真〕
○由良伍一 p374
○光行次郎 工藤恒四郞 p375
○吉益俊次 岩村通世 木村尚達 p376
○上賀茂神社境内で最後の打合わせの密談がなされた 今の西戸居付近 そのころは杉檜樫などがうっそうとしげり芝生をしきつめ人通りはなかった 京都 p377
○聖師 出口王仁三郎 p378
○暗雲につつまれた三六亭 松江島根別院 p378
○二代教主 出口すみ子 p379
○三代出口直日 総統補出口日出麿 p380
○聖師筆 12月7日 松江三六亭 p381
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