霊界物語.ネット~出口王仁三郎 大図書館~
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『神聖運動』とは何か

インフォメーション
題名:『神聖運動』とは何か 著者:出口王仁三郎
ページ:804 目次メモ:
概要: 備考: タグ: データ凡例: データ最終更新日: OBC :B195502c220432
初出[?]この文献の初出または底本となったと思われる文献です。[×閉じる]『神聖』昭和10年7月号
『神聖運動』とは何か

      昭和神聖会統管 出口王仁三郎

   一週年に際して

 当る七月二十二日は余が昭和神聖会を結成して東京九段の軍人会館に於て其の発会式を挙行してより満一年に相当する。
 その間余は紛糾せる国際状勢と危機を孕む皇国の前途を憂へ、声を枯し疲体に鞭打つて全国に皇道の大義と日本人の使命を絶叫したが、到る処憂国の士の絶大なる共鳴を得て、今や地方本部の設立は三十箇所に達せんとし、支部の設置四百箇所を越えるの盛況を呈したことは、皇道精神の全地に充溢せる証左なりと(まこと)に欣快に耐へざる所である。
 併しこの一箇年が昭和神聖会の大躍進の一箇年であつたと同時に、その間の世界の動きは愈々混乱への驀進に拍車を加へた一箇年であつた。
 天は今、口の人よりも腹の人、皇道を叫ぶ千人の人よりも皇道を行ふ一人の至誠人を要求して居る。
 而して神聖運動は今、外に進展主義を益々発揮すると同時に、鉄火の如き大勇猛心を内に養つて、来るべき一大飛躍への実を作らねばならぬ時となつた。

   皇道維新の道

 「天国は近づけり、汝ら悔ひ改めよ」と絶叫して、万民の為に十字架に登り尊い犠牲の血を流した、耶蘇基督は、洵に立派な聖者であつたに相違ない。崇敬すべき神の子として今日に至るも世界の人々が讃美するのも尤もなことである。
 併し乍ら、斯く耶蘇が絶叫してから既に二千年にならうとして居るのに、未だ一度も天国が地に降つたことはない。耶蘇を救主(すくひぬし)と信じ「天になる如く地にもならせ給へ」と祈つて居るキリスト教国に、二千年前に近づいて居た筈の天国がまだ出現せず、反つて今日修羅地獄の惨状を呈して居るのは果して何が故であらうか。印度に出た釈迦如来は、三十二相八十種好の紫磨金色の仏であつて、その相貌の荘厳端正なること他に比すべきものがない。加之(しかのみならず)其の説く処には大乗あり、俗諦あり、真諦あり、(まこと)に至れり尽せりの教義である。細を穿ち微に及び、一代に亘る説教は無量無限であると謂つても好い。
 然るに此の偉大なる釈迦を生んだ印度は、疾くの古に滅亡して既に他国の属領となること久しく、又仏教を奉ずる東洋の国々に、未だ嘗て其の最高理想とする所の娑婆帰寂光の真意義が実現した例も無い。又その教を奉じて真に即身成仏の境に入つた人が、古往今来果して幾人に達したであらうか。地獄に陥るものは()に大地の砂よりも多く、仏になるものは爪上(さうじやう)の土よりも稀であると云ふ。吁! 難信難解なる哉、仏の宗門。
 勿論、耶蘇の熱愛に感激し、釈迦の光明を敬仰して、個人的に安心立命し心の内に天国を築いた人もあるであらう。法の為に殉じ、教の為に身を捧げて、死して後天国に引上げられた人も尠くないであらう。或は又之等の教が世上の風紀上、道義上に利益を齎したこともあるであらう。併し其れだけで良いのか。それで耶蘇や釈迦の理想が達成出来たと云つてよいのだらうか。耶蘇の云つた地上天国とは、釈迦の説いた娑婆即浄土とは、決して斯る一部的一時的のものではない。十界同時の成仏であり、我々が飲み食ひする斯土自体が天国化されねばならないのである。
 然るに仏教説かれて二千五百年、キリスト昇天して二千年、その間幾多の熱烈なる伝道者が現はれ、尊き幾多の血涙が絞られて、今や仏耶の教理は遍く世界に宣伝(のべつた)へられたが、然も仏教もキリスト教も未だ素志の一部をすら達することが出来て居ない。現実の世界を見よ、人と人とは相(にく)み、国と国とは相(をか)し、恐るベぎ悪魔の世界を展開しつつあるでは無いか。斯の如き有様で、果して何時の世にか其の理想を実現することが出来るであらう。
 二千年二千五百年の永い過去の経歴を以て其の未来を推考するならば、宗教を営業として居る特殊なる人々の考へは別として、真に冷静なる心に世界を照らす人であつたならば、その過去を以て其の未来を予想すること必ずしも難事ではないのである。
 皇道を奉じ「神ながらの道」を信仰する我々は、決して仏教やキリスト教を以て役に立たぬ教であるとは云はない。併し上述の如く、その過去を以て将来を推考して見る時に、キリスト教及び仏教の採るべき本当の手段、本当の途に於て重大なる欠陥がありはせぬかと疑はざるを得ないのである。即ち仏教は釈迦の説いた真の大乗といふ意味が解つて居ないのではあるまいか。又キリスト教は耶蘇が叫んだ天国の真意義がハツキリと判つて居ないのではあるまいか。
「御心の天になる如く地にもならせ給へ」
といふ「主の祈祷」の詞は、天国の国体及び天国の政体の判らないものには、全然その意は判らないものである。而して天国の国体政体は真の日本人にのみ解し得る境であつて、洵に気の毒なことではあるが外国人には到底伺ひ知ることの出来ない世界なのである。如何にも偏頗なことを云ふやうであるが、此れは事実だから已むを得ないのである。
 天国の政治は如何に行はれて居るか、天国の経済は如何なるものであるか、天国の社会は如何に組織されて居るか、天国の芸術、天国の家庭、天国の教育、天国の恋愛等々が明瞭に判つて居ない者が、如何に「地上天国来」を絶叫したとて、そんな人に依つて絶対に天国が招来されるものでは無い。
 単なる信仰の善男善女ならば兎も角、神の道を説き世を導く牧師達にして本当の天国の状態を知らなかつたならば、耶蘇の大理想を実現することは永劫に不可能事である。宜なるかな、この根本問題を忽処(こつしよ)に付したるが為に、その熱烈なる二千年の猛運動も全く画餅に帰したではないか。
 仏教に於ても、キリスト教と同様の誤解がある。仏教を単に理屈を論ずるものであるかの如く思惟して居る輩には何を云ふ必要もないが、少くとも仏教の要諦が、立正安国にありと念ずる程の人であつたならば、必ず吾人の言に耳を傾けるであらう。
 真に世を指導せんとする者は、どうしたならば天下万民を救済することが出来るかといふことを、ハツキリと掌に掴まなくてはならぬ。唯何が無しに、宗教を広めたらよい、信者を多くしたらよい、といふ妄想では駄目だ。今日の仏教の指導者達の中に、如何なる日本を作り如何なる世界を作つたなれば、娑婆即浄土が実現出来るかを知り、それに直進して居る人が幾人あるか。
 大乗宗教の目的は、個人修養即ち主観的立命の道でなくして、現世安穏、治国安民の大道であらねばならぬ。故に極楽の政治経済や如何、浄土の社会、家庭や如何、の問題を確実に解決しなくては、立正安国の実現は思ひもよらぬ所である。
 然らば如何にすれば天国の政治経済機構を知ることが出来るが、如何にすれば浄土の社会、家庭、教育の真相を伺ふことが出来るか。曰く、神聖なる皇国日本の国体を正しく認識すること、曰く、神代より伝へられたる純潔なる日本魂に立帰ること、以上の二つである。
 されば耶蘇はその弟子達に告げて、「我なほ汝らに告ぐベき事あまたあれど、今汝ら得耐へず。然れ共、彼すなはち真理の御霊来らん時、汝らを導きて真理を悉く悟らしめん。かつ来らんとする事共を汝らに示さん」と云ひ、釈迦も亦、「弥勒下生して苦、集、滅、道を説き、道、法、礼、節を開示す」と教へたのである。
 実に天津日嗣を拝することは真理の御霊を仰ぐことであり、皇恩を謝することは弥勒の慈恵に浴し奉ることであるのだ。皇道維新とは、天皇の御稜威の下に皇典の示し給ふ大理想はもとより、耶蘇教、仏教等の最高理想を完全に先づ、神聖国日本に実現し、世界楽土達成の永遠的基礎を確立することである。

   祭政一致の本義

 現代の既成宗教は悉く小乗教の域を脱しない。今日の宗教家は、寒くば火鉢に暖まれといふ、火鉢で足らねば暖炉にせよといふ。暖炉を設け重ね着して尚寒ければ、酒でも飲んで炬燵に暖まれと云ふ。実に注意周到な御教示である。併し炭火もあり重ね着する衣服もある宗教家達はそれでいいが、疲弊のドン底に喘いで居て着るに衣なく食ふに糧なき人々は一体どうすればいいのか。
 斯ういふ時に、大きな風呂を沸かして向ひ三軒両隣の人々を招いて、素裸にしてその大風呂へぶつ込んで見給へ。十人でも二十人でも一時に暖まつて、誰彼の差別なしに同様に暖かいから、着物を重ねる世話もなく炭火を購ふ要もない。
 やれ修養だとか、ヤレ修行だとか、ヤレ道徳ヤレ宗教と謂つて種々の事柄を強ひられても、我々の全体を通じた仲間に果してそれが出来ようか。出来る人もあらう、だが出来ない人が一層多からう。
 然らば彼の桃源に鋤犂(じより)を採つて働いて居たといふ人々が、毫も悪事をしなかつたといふのは、彼等が幾多の修養を積み、色々な修行を為した結果であらうか。周囲の空気が悉く花の香を含んで、春の光が普く人の上に輝く場合に、誰が悪念を抱くものがあらうか。抱かむと欲するも得べけんやである。
 正しき社会には無意識に善人が集団して、自然の天国が茲に開けるのだ。吾人は空気の存在を意識しない程有り余る空気を享楽して地球上に生活して居る。だが火星の人類は空気が稀薄なる為に、空気の保存に痛く腐心して居るそうである。洵に社会が混濁した時に個人の修養が叫ばれ、世の中が乱れて来て個人の修行が重んぜられるのである。
 古書や古人の言を引用する必要はない。世を悲観する際に宗教が起る。現界の不満に対して幽事未来の願求が現はれるのである。真実の生活には顕幽の別隔がない。顕幽の別れめが人間堕落の第一歩である。現代の既成宗教の説く処は、此の意味に於て悉く堕落した教義であり、個人に修養を勧める所の小乗教である。一ツとして大乗がない。大風呂ヘブツ込み桃源を実現する用意がない。換言すれば治国平天下の経綸を忘却して居る所の閑人間の仕事である。
 治国平天下は先づ修身斉家から始まるとは「大学」の教ふる所である。修身斉家が出来ずして、治国の大事を望むことは間違つて居ると云ふ。然り、吾人は決して此の語を否定するものではない。併し又本乱れて末治まるものではない。現に今の世の有様を視よ、若し衣食足り生活の不安さへ無ければ善良なるべき多くの人々が、その生活を脅かされて自ら好まざる悪の世界に如何に沈んで行きつつあるか。
 無上の政事理想の政道が世に施かれた暁でも、矢張り今日のやうに八釜敷く修身斉家を謂はねばならぬものであらうか。老子の(ことば)
大道廃レテ仁義有リ……聖ヲ絶チ智ヲ棄レバ民ノ利百倍ス。仁ヲ絶チ義ヲ棄レバ民ハ孝慈ニ(カヘ)ル。巧ヲ絶チ利ヲ棄レバ盗賊有ルコトナシ。
とある。洵に至言といふべきである。
 宗教即政道政事即ち宗教であつてこそ、現土に創めて天国が来り、地上に浄土が実現するものである。然らざれば幾千万載待つたとて、地上天国の建設、娑婆即寂光の出現は到底思ひもよらぬことである。
 此の政道即ち宗教の本義を称して祭政一致の大道といふのである。今日既成宗教家に果して一人と雖もこの意義に心着くものがあるだらうか。余が昭和神聖会を起し挺身して神聖運動に邁進する所以は茲にあるのである。
 併し、神聖運動は決して今日の所謂政治運動ではないのである。今日の政治家達は政治をマツリコト(神の御心に真釣り合ふこと)と知らずして、此れを政略、政策の意に解釈して居る様である。故に今日の政治運動なるものは、政権獲得運動である。斯る運動は、覇道国家なら知らず、我皇道国に於ては大権を侵し奉る不逞断じて許すべからざる行為である。
 神聖運動は飽くまで神聖なる皇道に立脚して寸毫と雖も不純物の混入を許容してはならない。

   皇道外交の確立

 霊界とは想念の世界であつて、時間空間を超越した絶対界である。現実世界は総て神霊世界の移写であり、又縮図である。霊界即ち精神世界の真象を写し出したのが現界即ち自然界である。故に現界を称して、ウツシ世と言ふのである。
 例へば、一万三千尺の富士山の姿を小さな写真にうつし出した時、その写真が所謂現界即ちウツシ世であるのである。故に僅か一間四方位の神社の内陣でも神霊界に於ては、殆んど現界人の標度で見たならば十里四方も二十里四方もある広大なものである。又一尺足らずの小さい祭壇でも、八百万の神々や祖先の神霊が狭隘を感じ給はずして鎮まり給ふのは、総て霊界は情動想念の世界であつて、自由自在に想念の延長をなし得るからである。
 我国を日の本と称するのは()(もと)の意なのである。(れい)の字は産霊神(むすびのかみ)直霊魂(なほひのみたま)の如く和訓ではヒと云ふのである。夫に対して外国のことは之をカラの国と謂ひ、カラとは殻であり、空であり体であるのである。
 此の消息がハツキリと解つたならば、日本と世界の関係も自ら開明となるべきものである。日本の国土と全世界とを比較したならば日本の国は洵に小さい。又その人口も尠い。物質的に又現界的に見るならば、我国は世界の中の小なる一存在に過ぎない。併しこれを神霊界から見る時は全世界に拡大する偉大性を持つて居るのである。殊に満洲事変の勃発と共に我国民が日本精神に覚醒するや、国威の伸張は洵に素晴しいものがある。それは上述の如き意味に於て当然である。
 国が小さいからと云つて又人口が尠いからと云つて、我々日本人は少しも臆することはない。国民が無限の延長性を有する日本魂に生き切る時に、全世界は皇国の大御稜威に(まつろ)ふように成つて来るものである。
 今日迄に我国は東西古今の一切の文明を吸収して来た。その為に幾多の犠牲を払つたことは史実の明示する所である。併しそれは恰も心臓が汚れたる血液を浄化して、再び全身に送り出して四肢五体を養つて居るやうに、不撓不屈(ふたうふくつ)の苦闘は日本天賦の大使命なのである。
 今日我国の非常時は、余りにも汚れた血液を浄化しようとする、心臓の力闘さながらの状態であつて、これが立派な血液に仕上げられた暁には、又強圧なる力を以て毛細管にまで送り出されねばならぬのである。それには一方(ひとかた)ならぬ努力と奮闘を必要とすることは勿論である。
 併し日本人が霊の本の精神力に生きてこれを全世界に拡大延長する気力を持ち、神国日本の所以をハツキリと自覚したならば、此の漂ヘるカラの国々を救ふことは決して難かしい問題ではないのである。
 皇道外交とは、斯る精神に基く太陽外交なのである。故に陰険な策略や下劣なる謀計は絶対に使用してはならない。併し如何なる好策をも直ちに照破する(てい)の大光明を常住不断に放射して居らねばならぬのである。
 外交官になる為には、先づ外国語を学び、外国の歴史を研究し、外国の風俗習慣を知らねばならぬと云ふが、是等は総て第二義的の問題である。外交の目的は大日本国威の世界的伸張発揚である。国史を知らず、国風を悟らず、国体の精華も皇国民の使命も弁へざる者が、如何にして皇威を八紘に輝かしめることが出来ようか。皇道外交の確立は先づ皇道教育の実行より行はれる。真正なる人を作り立派なる日本人を作らなくては、皇道政治も皇道外交も達成すべからざる一つの空想に過ぎない。

   皇道教育の基礎

 我皇国日本教育の大精神は既に教育勅語に依つて明かにされて居り、今更之を喋々する必要はないのであるが、然らば如何にすれば明治天皇の大御心を実際に施行することが出来るかといふ具体的方針に至つては、国家も国民も共に慎重に研究しなくてはならぬ大問題なのである。
 近時国民教育に関する真摯なる叫びが次第に高まり、皮相的外形教育を排して漸次精神的内容教育に向ひつつあることは洵に慶ぶベきことではあるが、未だ以て我教育の大経大法たる、上は大学より下は小学幼稚園に至る迄、之を一貫せしむる根本的主義精神が確立して居ないことを遺憾に思ふものである。
 御維新に際し、時の為政者達は明治天皇の大御心を真に明察し奉ることが出来ずして、徒らに海外の新学説に盲従し、唯欧米を模倣せんとして(にはか)に教育制度を変改し、その間何ら独自の統一的基礎を確立しなかつたのである。
 故に徒らに諸種雑多の科目を設けて子弟の脳髄を苦しましむる事多く、外観的糊塗粉飾教育に終始して遂に教育の内面実質的の効果を挙ぐることが出来なかつたのである。その為に抑々たる小人のみを輩出せしめて雄渾活達の大人物を抹消し、祖国進展に何程の妨害をなしたか知れない。
 今や日本精神に帰れ、皇道に目醒めよ、の声が澎湃として全国に挙げられて来たが、此の際一番大切な問題は皇道教育の根本的確立であつて、之れが徹底的実施を見ざる時は皇道日本の建設は到底思ひもよらぬ所である。然らば如何なる指導精神の下に教育の根本を樹立したならばよいか。余は左の通り四つの基礎を挙げるものである。

 皇道教育の四大基礎
  倫理上の基礎
  地理上の基礎
  歴史上の基礎
  国家天職上の基礎
レイアウトを変更した

一、倫理上の基礎

 倫理道徳を無視して教育の成立しないことは万人の認むる所である。然らば今日果して上は大学から下は小学幼稚園までの教育が確固たる倫理的基礎の上に築かれて居るか。殊に高等教育、大学教育に於て然りである。凡そ高等教育及び大学教育を受ける人々は、将来国家社会の指導者となるべき階級の者である。或は政治者になるとしても学者になるとしても、又実業家、法律家になるにしても、苟も国家社会の指導者となるべき人々が、人格下劣、不信不義の徒輩であつたならば、国家社会の平安進展は到底望み得ざる所である。
 然らば今日の高等及び大学教育が学生生徒の人格教育に心を尽し、精神を尽して居るかどうか。玉磨かざれば光なしである。如何に小学時代の最も品格の立派な生徒のみを選び抜いて高等の教育を受けしむるとしても、今日の如き確固たる倫理的基礎に立脚せざる教育を五年も六年も施したならば、人は悉く功利主義の奴となり、遂に世界に誇る大和魂の精髄を引抜かれること亦当然と云ふべきである。
 故に苟くも人の教育者となるべきものは、敬神の念厚く、人格最も高潔にして生徒の師表たるべき人であらねばならぬ。又然あらしむべく勉めねばならぬ。これは最も平凡なる論の如くにして而も最も重大なる真理である。
 次に今日の学問には何ら統一がないのを遺憾に思ふ。政治学は治国平天下の学でなくして政策学であり経済学は経世済民の学でなくして欲望充足学である。又法律学も詭弁術の如き観がある。即ち今日の学問には倫理的基礎がない為に真の教育の実を挙げることが出来ない。倫理学では人格主義を教へ、経済学では金力万能主義を吹込み、政治学では権力全能主義を注ぎ込み、法律学では法規第一主義を叩き込むの如き不統一さで、教育の正しき進展は望み得ない。況んや倫理学に於てすら人格主義を忘れて金力主義、権力主義、或は法規主義に迎合堕落しつつある傾きがあるに於てをや。
 どうしても教育は倫理的基礎の上に統一して立てねばならぬ。而して其の倫理は実に神より来る絶対的倫理でなければならぬ。

二、地理上の基礎

 我国には我国特有の風俗習慣がある。勿論長所もあり短所もある。併し如何に短所でもそれを全然廃して外国流にしたならば良いかといふと、物事は左様に簡単なものではない。物の長所短所は一枚の紙の裏と表である。裏を削りすぎると表にも穴があく。個人の性質でも国家の特質でも同じことであつて、各々独自の個性或は民族性がある。その個性を正しく誘導するのが教育であつて、その個性を打壊して全然新たなる人格を作り上げることは不可能の問題である。無理にそんなことをすると唯物を破壊するに過ぎない結果となる。
 故に日本には日本独特の教育方針がなくてはならない。又同じ日本の国内でも北海道と台湾、農村と都会、山村と漁村に依つて自ら変化がなくてはならない。画一主義の教育は駄目である。
 特にこの際緊急なる問題は、外国語教育のことである。果して我国の中等学校の生徒に、あれだけ苦しめて英国の言語を学ばしめる必要があるか。若しありとすれば何の程度に必要であるかを真剣に研究すべき問題であると思ふ。
 抑も言語なるものが国民精神に顕著なる影響を及ぼすものなることは、既に今日科学的にも論証されて居る所であるが、特に之を言霊学上(げんれいがくじやう)より見る時には、言葉と人心の間に現代の科学者の到底窺知することの出来ない尚一層重大なる生命的関連が伏在してゐるのである。我国は古来言霊(ことたま)の生ける国と称へられ、国土の清明なる国風の高潔なる人心の純真なる悉く惟神(ゐしん)言霊(げんれい)の発現ならざるはないのである。
 故に吾人は皇道の大精神に立脚して、外国語の研究学修は素より之を無視すべきでないことは認めるが物に本末あり事に前後ある所以を明覚しなくては断じて教育の実績を挙げることは不可能である。

三、歴史上の基礎

 凡そ一国の歴史は其の国家の成立、人民発展の過程を表示するものであつて、現代の国民が祖先より譲り受けたる遺産の総目録とも称すべき性質のものだから、その国家を継承し先人の遺業を恢弘すベき相続人たる国民は、明瞭に正確に国史を知了すべき必要あるは言を俟たない。殊に同じく歴史なる名目を冠すると雖も、その中外国の歴史に比して一種特別なる性質を具有して居る我国史の如きは、国民教育に於ける諸学中の統一学として首位を占むべきものである。
 欧米諸国に於ては、歴史は道徳倫理の経典とは全く別物である。道徳は専ら之を聖書に拠らしめ、歴史は単にその国家社会に於ける物事の発達変遷を記述せるものに過ぎない。然るに我国に於ては歴史と経典は全然同一物であつて、而も我国典は宇宙の創成から国家人生の成立、発展を記述すると同時に、一貫して国民の大精神の中枢となり、万古東海の天に磅礴(はうはく)せる道義の大本源を成して居るものである。
 又皇室典範も帝国憲法も教育勅語も総てこの光輝ある神聖国史より抽象せられたものである。加之(しかのみならず)、我惟神の大道亦国史を離れて存するもので無く、敬神崇祖即国史であり、国史即ち尊皇愛国となる。実に国史と道徳の経典は全然一体である。その他祖宗の遺訓洪範、父祖の忠誠孝敬の事蹟、燦然としてその表に輝耀して居る。斯の歴史の精華は即ち斯の国家の最高指導精神である。雄大なる国家の気魂も崇高なる国民の品性も悉くこの内に含まれて居るのである。
 然るに現在の教育より見たる我国史は、道徳の経典と国史とを全然別物にしてゐる欧米人の観念をその儘直写せるものであつて、我特異なる国史の精華に深く留意せず、その編纂の体裁に於ても勉めて欧米歴史に模擬し、上古の事蹟の如きは努めて彼と同一のものとせんことを求めて、我等の祖先は蒙昧にして野獣穴居の伍であつたなどと云ふ事を排列して、肇国の大理想を滅却し神聖なる国体の所以を否定せるは洵に慷慨に堪ヘぬ所である。
 之を要するに、我国の教育に於ては国史は実に全教科中の主脳中心たるべきものであつて、一切の学科は皆之に付随して以て我国史の光彩を付加すべきものである。

四、国家天職上の基礎

 個人が個人として各々使命があると同様に、国家は亦国家として各々独自の天職が神から課せられて居るのである。日本民族には日本民族としての使命があり、白色民族には亦彼等としての天職がある。即ちヨーロツパは今日迄に機械文明と自然科学の創造に依つて、人類に著大なる貢献をなして来た。而して此れに対して我日本は、地上の太陽として暗点の世に光明を与へ、皇道の稜威によつて混沌の民に統一を与ふる使命があるのだ。
 肇国の理想を神意に発し天津日嗣天皇は神意の実行者にまします国日本、国は天皇を親とする大家族であり、民は神を通じて兄弟である国日本。実に日本は来るべき理想世界の雛型であり、地上天国の縮図なのである。
 故にこの大精神を広く深く国民に知らしめて、天賦の大使命達成を助長することは皇道教育の要諦であらねばならぬ。
 以上、倫理、地理、歴史、国家天職上の諸基礎といふも、之亦個々に分離すべきもので無く渾然一体として融合すべきものである。歴史の中に倫理的基礎を有し、地理の中に国家天職上の基礎が合体し、斯くてこそ完全なる皇道教育が挙げられるものである。

   人類愛善の大精神

 宇宙の万物がその主宰者たる大神に帰向し、地上の青人草が顕津神天皇に(まつろ)ふ状態を称して皇道と謂ひ、大神の聖徳が普く万有を光被し天皇の御稜威が広く人民を遍照する状態を称して愛善と謂ふ。故に皇道といふも、人類愛善と唱ふるも、その名は異にすれどもその実は一つである。即ち皇道は啻に皇国日本の指導精神たるに止まらず、内斯道に依つて神聖日本国が完成せられると共にその極徳は洽ねく天下に発揮せらるるものである。併しその精神は必ず「愛」でなければならない。而も破邪顕正の「愛善」でなければならない。
 人類愛善の大精神とは人群物類を悉く神の愛即ち愛善に依つて育み養ふ精神である。今や全地上は、「正義! 正義!」の叫びが耳を聾せんばかりに挙げられて居る。而して万人の翹望(げうばう)する所のものは、千の正義よりも一の愛善なのである。(よこしま)を毀つ力よりも正を育る愛の生命力なのである。
 人類愛善の大精神より見る時は、己が身を愛し又わが郷里を愛し、或はその国土を愛するは自然の愛にして当然ではあるが、これを以て完全なる愛といふことは出来ないのである。我日本国は霊的に宇宙大の伸張性を持ち天国その儘の移写なるが故に、純真なる祖国愛は世界愛となり、至誠発する尊皇は直ちに敬神となるのである。
 併し今日、世界主義を唱ヘ国際主義を称する者の殆んど総ては、人類愛善の発露で無くして卑むべき自己愛欲の発露に過ぎない。試みに斯る人物が果して敬神至誠の士であるかどうかを検討したならば直ちに判明する。神を認めず、唯物主義の我利々々が如何に口々に国際正義を強調し、世界愛を云々しても、そは恰も白く塗つた墓の如く洵に醜いものである。斯る人間よりも己が名誉の為に或は又郷土の為に身を犠牲にする者の方が如何に尊いか知れない。今や世界には、フアツシヨとかナチスとか云つて国家の為に一身を犠牲にせよといふ叫びが上げられて居るが現実に顕津神を戴せざる以上已むを得ざる所であつて、愈々時節到来して、天津日嗣の大御稜威が遍く地上に光被した暁には、彼等も亦人類愛善の大精神に更生する日が来るのである。故にフアツショもナチスも善意に解釈したならば、皇道世界出現の一過程であり、人類愛善ヘの歩みであるとも見られるのである。だが今日のフアツシヨもナチスも未だ斯の大指導精神を発見し得ざるが為に恐るべき闘争混乱の世界へと歩一歩を進めつつある。其処に又彼等を指導すベき我等日本民族の重大使命が存在するのである。
 先づ我等九千万の同胞が人類愛善の大精神に覚醒して日本国を真の愛善の国家たらしめ、然る後に帰趨を失ヘる世界民族に愛善の生命を与ヘることが我等の神聖なる天職である。斯くてこそ暗黒の旧世界は去つて、黎明の新世界が開かれるのである。

   昭和神聖会の使命

 以上昭和神聖会の主張とする所を簡単に述べたが、神聖運動なるものは決して斯る理論に依つて組立てられたものではない。火の如く燃え上る純愛と泉の様に湧き出づる信仰が当然我々を此処に持つて来たのである。
 愛と信それは車の両輪、鳥の両翼の如く完全に均衡を保たねばならぬ。世を憂へ時を歎くは良し、されど神に対する絶対の信を失つてはならぬ。
 余が神聖会を起してから幾多の人々から種々な意見を聞いた。或人は云ふ「主義、綱領は結構です。だが其れを実現するのには何うすれば良いのですか」と。余は斯る人に「至誠を以て最善を尽せばよい」と答へる。神を信じない人、此の世界が霊界のウツシ世であることを知らない人は、この昭和維新を人間の智慧と力でやらうとする。だが浅薄な人間的工作で万古不易の神業は完成出来るものでは無い。又現実の社会を直視せよ、そんなことで理想世界が出現する程生優しい世の中では無い。故に神意を体し時節を信ずることが出来ずして、只管己の力に依つて事を成さうとする者には必ず一種の絶望が来る。その結果は一は迎合に傾き他は狂暴に走る。そは当然である。
 だから信仰なくして憂国の熱情のみに駆られて居る人々から見ると、神聖運動は生微温(なまぬる)い、そんなことで昭和維新が達成出来るものかと云ふ。又一方机上の論を闘かはして神国日本の所以を研究し、皇道精神を理論づけて居る人々から見ると、如何にも我々が(あせ)つて居るやうに思はれるであらう。だが真に祖国を憂ふる熱愛があつたなら「我叫ばずば石叫ばん」の気慨が溢れねばならない。と同時に「忍耐、忍耐! 至誠を尽して神意の発動を待つ」といふ余裕が生じて来る。
 我々は自らを顧みて己の心が神意にかなつて居るかどうかを尋ね、今進みつつある道が公明正大の道であるかどうかを反省すればいいのだ。人間的な批判や中傷を顧慮することは毛頭必要でない。
 既に神界の工築は完成し策戦計画は出来上つて居る。命令一下何時でも聖戦に馳せ参ずることの出来る心構へをして居ればよい。日本は神国だ。(あせ)らなくてもよい。天壌と倶に窮りなき皇運は、至誠が天に通ずる時、必ず神剣の発動となつて妖雲が薙払はれることは国史に依つて照々たる所である。
 昭和神聖会の使命は、愛善と真信の士を広く糾合して神聖皇道の大精神を遍く全地に宜伝(のべつた)へると同時に一旦緩急あらば心身を捧げて顕津御神の大御心を安んじ奉る心備へをして置くことである。(終り)
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