二十八歳の春
時をりは心の駒の狂ひたちて神うらめしくなりし吾かな
山に野に桜は春とにほへるにわれつれなくも花にわかるる
神様は春の夜を吹く山風かものいふ花を散らしたまへり
この若き日をいたづらに天地の神にささぐとおもへば惜し
果敢なきは吾が身なるかな花の春をよそに眺めて禊に暮るる
村人のそしり嘲り雨のごと浴びつつ春は空しく暮れゆく
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稗田野の大石翁を訪れてわが身のさまをつぶさに語りぬ
大石翁耳かたむけて聞き終り双手を拍ちて出かしたといふ
四面楚歌に包まれし吾の言の葉を只一言にうべなひし翁
静岡の師匠の許に詣で来よと旅費ととのへて渡したる翁
おもはざる大石翁の後援にわれいさみ立ち旅の用意す
時はこれ明治は三十一年の四月十五のあさのたびだち
穴太より三屋喜右衛門ともなひて花の大枝の山を越えゆく
夜の道を辿りたどりて朝六時京都駅にわれ着きにけり
山国に育ちたる身は二十八の春はじめての汽車に乗りたり
脚おそき普通列車もはじめての旅にしあれば速きにおどろく
静岡の駅より汽車を乗換へて江尻の駅にあした下車せり
ぶらぶらとかばんかたげて下清水長沢翁の館を訪ひにけり
富士ケ嶺は雲表高く聳ゑ立ちて吾が修行をむかふる思ひす
話のみ聞きたる富士の高嶺見てその崇高さに呆れたたずむ
松岡天狗使神送りし山神の畏こさ胸にひしひしせまり来