二十八歳の春
大空の雲晴れゆきてかうかうと月光池の面をてらしぬ
月光を幸ひ彼女の後を追ひ稲荷の社ある算木山にのぼる
算木山の松の木蔭に身をひそめ彼女の様子うかがひ居たりき
彼のをんな稲荷の社の前にたち嗄れごゑにて心経を読む
頭髪を振りみだしつつ三本の蝋燭頭に照らすすごさよ
頭には蝋燭胸に鏡かけ鋏をもつてかがみ打ちならす
打ち鳴らす鏡の音のものすごさ身の毛もよだつばかりなりけり
彼のをんな汗だくだくに絞りつつ半時ばかり心経を読む
心経を終ればかたへの笠松の幹にむかつて釘を打ちこむ
わが男うばひし未の年の奴悩めたまへといのりつ釘打つ
未年と聞いて吾が胸とどろきぬ吾れも未の年なればなり
右の手に金槌をもち左手には五寸釘もちほほゑむ凄さよ
青白き女の面のいやらしさこの世のものとは思へざりけり
これこそはまさしく丑の刻詣りと思へば肌に粟の生ずる
形相のそのすさまじさ見るに堪へず吾が髪の毛は逆立ちにけり
○
この女辺きよろきよろ見回して人臭きかなと口走りけり
水さへも眠れる丑の刻詣り見つけたるもの無きかと狂ふ
残念やああ口惜しや百日の修行も水の泡といひて狂ふ
ちくちくと吾がかたはらに迫り来る女の姿たまらず逃げ出す
逃げてゆく吾が後姿を追ひきたる女の足は速かりにけり
追つつきてかぶりつかんとする刹那身を躍らして池に飛び込む
さすがにも女なりけり青青と水湛へたる池には追はず
榛の木の根株に片手をかけながら首だけ出してふるひ居たりき
キヤーキヤーキヤーコンコンクワイクワイいやらしき声をしぼりて怪女かけゆく
修行する身ながら夜半に独り見る怪女の姿は恐ろしかりける
大池の水は浪立ち冷えびえとわれに迫りて物凄ごき夜なり