二十八歳の春
幽斎の修行せんとて小夜更けの山路を一人たどりてぞゆく
車瀬の奥山川橋わたらへば顔くづれたる女の藪蔭に立てる
おどろきの胸を押へて立寄れば故郷に名高き歌人なりけり
この女襁褓に火がつき小さき時半面火傷したるなりけり
二目とも見られぬ面の女にあひて淋しくなりぬ修行の夜道を
風の口の山辺の里を乗り越えていよいよ医王の山路にかかる
医王山谷間の池の青き波にしづかにうかぶ春の夜の月
しんしんと吾身に淋しさせまりけり月をくだきて真鯉の飛ぶ音
大いなる雲のかたまり襲ひ来て谷間の月を呑める小暗さ
つぎつぎに雲かさなりて池の面打つ春雨の音たかみけり
○
常磐木の松にふきしく小夜嵐雨を交へてものすごき山道
人魂の飛ぶととなふるこの谷の大池の辺の淋しさせまる
物凄さひしひし胸にせまり来て咫尺弁ぜず行きなやみたる
目を閉ぢておどろが下にかがみ居れば忍び寄り来る足音聞こゆる
足音の主は如何にとおそるおそる眼開けば白き影ゆらぐ
思ひきり大声あげて唸り見ればキヤツと叫んで倒れし白影
倒れたる影は幽霊か化者か胸とどろきて言葉も出でず
むくむくと暗に動ける白き影蚊の鳴くごとき細き声しぼる
何神か知らねどお助け下されと人だのめなる白影の言葉
白き影は生ける人間とさとりてゆ稍落着きぬ胸の動悸は
何人と言葉はげしく尋ぬれば稲荷降しの修行者と答ふ
この池に水行をはり稲荷山尾の上の窟に詣づと宣れるも
何故にこの真夜中に窟詣でするかとなじればコンコンとなく
この女狐の霊のかかり居しかわれを見捨てて飛び去りにけり
雨止みぬ風は止まりぬ白衣着けしをんなの姿月にほの見ゆ
白妙の衣を纏ひし稲荷降し尾の上をさしてはせのぼり行く