二十八歳の春
彼の女遠く去れるを見すまして濡れ鼠の吾れ池はひ上る
青くさの萌ゆる堤に濡衣を圧搾しつつこころさびしも
何者かあとを追ひ来る心地して静ごころなき池の辺の夜半
ひやひやと肌ざはり悪き濡衣を身にまとひつつしばし佇む
右やせん左やせんとしばしの間池の堤に腕組みてたつ
○
彼の女逃げゆきし道の何となく心わるさに左にすすむ
大池の南の土堤を東して進めど吾が足おぼつかなきも
ゆけどゆけど谷あひの道九十九折松吹く風にも心おののく
こんなことで神の修行がなるものかと心の駒をたてなほす夜更け
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薄暗き杉むらの蔭にちよろちよろと白き行燈に灯のともりをり
この道をゆかねばならず是非なくも灯のある方に近づきにけり
もそろもそろ近づき見れば旅籠町神道教師の新墓なりけり
一つ灯にてらせば白木の霊牌に某訓導の墓としるせり
道をゆく裳裾にさはる近き辺に墓のあるこそいまはしかりけり
春の夜は明けやすけれど何故か今宵の夜半の長きに苦しむ
草萌ゆる細き一筋道ゆきて吾れ幾たびかつまづき倒れぬ
何時の間にか肌暖かになりにけりわがころもでは乾き果てねど
谷道の月は尾の上にかたむきてあたりをおそふ闇の薄幕
黎明の空を眺めて天津日の尊きことをしみじみ思へり
地獄より天国さして昇りたる心地したりぬ黎明の空に