【社説】邪教の跳梁 速かに掃蕩せよ
今次、大本教が弾圧された直接の原因は不敬事件に絡むものと伝へられてゐる。不敬事件そのものが糾弾さるべきはいふまでもないとして、われらはこの際、当局が進一歩、無数の良民を惑はしてゐる一切の淫祠邪教に対して、徹底的な弾圧と撲滅の鉄槌を下すべき方途を講ぜんことを要望するものである。一見、いまはしい淫祠邪教と解つてゐても、現行取締法規の関する限り、それが具体的に社会の安寧秩序を紊さぬ場合には、取締当局は見す見すこれを放置してゐる。その結果が、全国にわたつて幾百といふ淫祠邪教の跋扈跳梁となつてゐる。文部省が来議会に提出するやに伝へられる宗教団体法案は、この点につゐて相当厳重な取締規定を設けてゐるが、ただ単に淫祠邪教の撲滅といふ見地からだけでも、適正な取締法を出来るだけ早い機会に制定すべきことを勧告する。この目的達成のためには、この際当局の手におゐて、全国の淫祠邪教と目すべきものの内容と活動状態を厳重に調査し、その全貌を白日下に暴露するのも一つの方法である。
だが、淫祠邪教も、一面、発生の社会的温床がなければ、かくまで浸透し、跳梁し得る訳がない。文教の施設が精神的にもその眼目に副ふ実効を挙げ、他面、善き政治の下に国民大衆の生活が、よどみなき向上発展を期することが出来るならば、いふところの淫祠邪教は地を払つてその影を断つであらう。溺れる者は藁をもつかむ譬へ通り、無数の良民が愚にもつかぬ「教義」に惑はされ、惑はされた良民を踏台にして、貪欲不逞の徒が、まんまと淫祠邪教の企業に驚くべく怖るべき成功を収めつつある一半の責任は、確に為政当局にあるといふことができる。も一つの大きな原因は、その教義と伝統の関する限り、十分大衆の宗教的欲求に副ふに足る既成宗教の大多数が、現実におゐては宗教本来の使命を忘れ、むしろ大衆の軽蔑に値するやうな不始末を演じてゐることである。為政者のなすところに社会不安を一掃する周到懇切の対策なく、既成宗教に大衆の宗教的情操をはぐくむ力がないとすれば、淫祠邪教の跋扈も、現象的には一応やむを得ぬ仕儀ではなかつたか。大本教事件は国民の精神生活に潜在するこの怖るべき結果に対して、貴重なる実物教訓を与へたものである。われらは政府当局が、単にこの事件の結末のみをもつて足れりとせず、広く国民生活の大局から、あらゆる淫祠邪教の掃蕩につゐて、抜本塞源の方策を講ぜんことを切望せざるを得ないのである。