二十九日の午後には京都で山陰線に乗替へ、夫から園部で下車して奥村といふ家へ立寄つた。これは横須賀の支部長の田中さんの縁家で、些し複雑つた家事上の用向きを頼まれ、それを果すべく綾部行の序に一寸立寄つたに過ぎなかつた。
一二時間で用向きは済んだが、裏の離座敷は保津川に臨んで涼しくはあるし、又此家は出口先生が明治三十一年から三十二年にかけて滞在された因縁の深き場所ではあるし、かたがた汽車の疲れを医すべく一泊と決した。当時の先生は漸く高熊山の参籠を終り、盛んにその独特の霊学霊術を実地に試みて居る最中で、まだ綾部の教祖と結びつく以前であるから、恐らく先生の生涯中最も油の乗りかかつた出端で、当時の奇蹟逸話は数限りもなく存在するやうである。その晩奥村氏老天妻が、酒間試みた二十年前の想ひ出語りは深い深い印象を自分に与へた。思ふにそれが他人の受売でなく、自分達が実地に会つたことを、作らず飾らず物語るといふ点に一層の興味があつたやうに思ふ。
『実際管長さんの術には恐れ入つて了ひます』と奥村主人は冒頭して語り出でたのであつた。『あのお方の話は一向私達の腑に落ちません。世界統一たらいふ法螺のやうな事は手前どもにはただ阿呆らしくてきいて居れませんが、然しあの霊術だけは確なもので厶ります。いつそ、あの世界統一だの、世の立替立直しなどを廃止にして、霊術だけで売り出したら成功疑ひなしと手前どもは思ひますが、御当人の身になると、さうばかりも行かんものと見えまして、いまだに世間から笑はれもので綾部などに燻つて居るといふのは、兎角世間は儘にはならぬやうに出来て居るものと見えます。ナニ貴下も世界統一に御賛成……これは恐れ入りましたネ。』
『管長さんが拙宅どもに居られました時分は、ホンのまだ若々しい子供染た人でした。手前どもも今では年齢を取つてモウさつぱりあきませんが、その時分はまだ若う厶りました。夫婦の間にはその頃子供が二人ばかりも厶りましたらう。所がその頃家内は病身で、流産の癖がついて、一人も満足に育つのがないのは何より難儀致しました。お薬は浴びる程飲ませましたが、さつぱり利目がなく、お医者さんより。手前どもの方で匙を投げて了ひました。所が、管長さんが、之をききつけて、私が鎮魂で癒してやるといふので、家内を其所の床の間の前に坐らせ、何やら口の中で咒文のやうな事を唱へて居ましたが、しばらくして灯明の火を持つて来いといふ御注文です。私は側に坐つて見物して居ましたので、早速御灯明に火を点けて持つてまゐりますと、先生はそれを受取りなされた。一体何をするのかしらと見て居りますと、灯明の焔を直接に唇に当てて、スーツと吸ひ込んだのには呆れました。私どもなら唇が焼け燗れて了ふにと思ひました。』
『腹一杯焔を吸ひ込んで置いて、灯明を私の手に戻したと思ふ間もなく、ヒラリ! 先生の身体が宙に飛び上り、家内の頭の上を越したのには驚きました。危く持つてる灯明を墜すところでした。飛び越した先生は家内の背中に向けて、フーツと今吸ひ込んだ焔を吹きつけなさる。イヤ何うも其時の私の魂消方たらありませんでしたよ。元の席に復帰るのにも今生は矢張り頭の上を飛んでかへりました。(これでよし!)と管長さんは申されましたが、成程家内の持病はそれきり忘れたやうに全治し、流産の癖も止まつて、引続いて三人も子供が生れました。あれ彼所に居る男の児なども、勿論その後に生れましたので厶ります。兎に角管長さんの霊術だけには私どもも恐れ入つて居ります』
斯麼話なら、その頃の出口先生には山ほどあるやうで、これなどは蓋し千百の中のただ一例に過ぎない。この方面に興味を有する人は、園部、八木、亀岡、但しは綾部に来たなら面白い材料を幾らでも蒐集し得ると思ふ。浅薄極まる物質中毒に罹つた現代人は、霊的方面のことさへ見れば直に迷信と貶し、さうするのが自己を偉いもの、聡明なものにし得ることと思うて居る。実に浅墓な考へである。迷信と言はうが言うまいが、活きたる事実は常に活きたる事実だ。メーテルリンクや心霊研究会で蒐めた位の事実は、日本国内に腐る程存在する。その活材料を全然無視し、書斎に引籠つて、受売や翻訳でもしようとする今の日本の学者、今の日本の文士の気が知れぬ。御機嫌取や提灯持ちは独り日本の外交官や政治家ばかりではない。どれもこれも比々として皆然りだ。時代の進展、天運の循環には気もつかず、今頃日蓮を担いだり、釈迦を担いだり、何といふ盲者聾者、調子外れの人間の多いことだ。担ぐ者こそ好い気になつて居るが、担がるる日蓮や釈迦やその他の教祖達の霊魂は、疾うに国祖国常立尊の神勅を奉体し、屢々大本に出現して、自己を担ぎまはつて鰹節にする似而非信徒等の腐敗堕落を痛歎して居られるのだ。彼を思ひ此を思ふと、いかに抑へようとしても、ツイ筆は荒びて来る。切に読者の宥恕をお願ひしておく。