兎も角も博奕岬までは無事に進んだが、一旦其突端を回ると、モウ前は漫々たる日本海、吹きつける烈風、荒れ狂ふ怒濤が、五艘の船を木の葉の如く翻弄し始めた。二人の船頭は爰を先途と櫓を操つたが、進退更に自由ならず、風のまにまに波のまにまに、只押し流されるばかり。ものの半時と経たぬ間に、屈強の船頭もヘトヘトに疲れ切つて了つた。
出口先生は最前から何事をか神様に伺はれて居る様子であつたが、やがて参拝中止の命を発せられた時には、一同の顔に多少失望落胆の色が現れぬ訳には行かなかつた。
『今度は島の参拝は許されまへん、気の毒だから誰と名前は指さぬが、実は一行の中に不浄て居る一人の婦人が混つて居る。一人でも不注意な人があると、それが一同の迷惑になるからかなはん。残念ぢやが致し方がない……』
たうとう真夜中頃に船首をかへした。そしてとある山蔭に仮泊し、天明を待つて陸上にのぼり、沓島冠島を遙拝して、元来し途を引返して了つた。
綾部へ着いたのは午後二時頃でもあつたらう。雨も風も収まつて、ジリジリと焼くが如き暑さであつたが、一同はそのまま玉の汗を流しつつ世継王山に登つた。沓島冠島の出修が不首尾に終つた時は、必ずこの山に登りて遙拝式を行ひ、祝詞を奏上する事に規定されて居るのである。
山の高さは七八百尺もあらう。頂上は四つの峰に分れ、その中の右の端れが一番高い。一同は其最高峰に集まつた。神都の大観は此処へ登つた時に初て其全豹を窺ひ得る。四周皆山脈、さながら摺鉢を起したやうな窪地の中に、チヨンボリと聳えて居るのが此世継王山で、綾部の町は山麓の東から北にかけて連つて居る。『青垣山こもれる下津岩根の高天原』と祝詞にある通りの景色だ。風景を味はうなら他に幾らでもあるが、神都の真価は蓋し世継王山でなければ十分には判らない。沓島冠島へ行かれなかつた遺憾の一半は、確にこの登山によつて償はれた。かくて一同遙拝を済ませて大本に帰着したのは、長き夏の日も早夕暮に近い頃であつた。
第一回の沓島冠島の参拝はかく不結果に終つたが、其後自分は三回ほどその参拝団に加はつた。筆の序にそれを爰で書いて置くことにする。第二回目は大正七年の夏で、冴えたる月光をしるべに波静かなる日本海を押し渡り、暁近く無事冠島に到着した。しかし早朝島に上り老人島神社に参拝した頃から、風漸くはげしく雨さへ混り、たうとう一里先きなる沓島までは、この時も行けずに戻つた。
自分が大正五年来の素願を果して、首尾よく沓島参拝が出来たのは、漸く昨大正八年の夏、第三回目出修の時であつた。全島皆削れる如き巌から成り、野生の大根の白い花が島の半腹を飾れる外には、海風に苦しめられたる倭樹の、ただ申訳に島の巓に生えて居るばかり。其処に幾千とも数へ尽せぬ海鴎の群が、或は飛び交ひ、或は巌角に翼を休め、ギイギイ鳴き続けに鳴く光景は、殊更に絶海の孤島といふ感を深からしめた。
が、島の中で最も参拝者の心を惹くのは、大本教祖が三十八年戦勝所願の為めに島籠りした行場の跡と、その上の巌面に書きつけられた筆先とである。そそり立てる絶壁の端の僅か二三尺の平坦地──それが教祖が十有余日に亘りて端坐された所ださうで、試みに其所に坐つて見ると、真下は深い深い碧潭に臨み、眼が眩みさうで五分とも居たたまれぬ。若しそれ巌面の御真筆に至りては、今尚墨痕淋漓として立派に半以上を読み得るが、何処の痴者か、其一部の巌をかき取つて行つて了つた。
今年の初夏にも自分は又重ねて参拝したが、幾度行つても常に新なる興趣を感じ、新なる感慨を催すのは沓島冠島の参拝である。神世になれば茲が大本信徒の最も神聖なる行場になるのださうであるが、実に浮世に混りて、知らず識らずの間に積み重ねたる身魂の罪と穢れを洗ひ清めるのには、広い世界にこれ以上の場所があり得ようとも思はれない。現に鎮魂帰神の法を修めても、お筆先を何遍繰かへしても、まことの信仰に入り得なかつた者が、一度の沓島参拝で、すつかり往生したものもある。よしや幽界のことの腑に落ちぬ人でも、少くとも大本教祖の肉身を以ての苦労艱難は此処へ来てしみじみと味はひ得る。偽醜悪の悪魔の児には用事はないが、苟くも真善美を味はんとする一片の良心の痕跡あるものは、一生にせめて一度はこの島に来て見るのが損ではなからうと思ふ。その人の向き向きで絶好の画題、絶好の詩材、絶好の教材を捉へ得ることは請合だと思ふ。