並松から帰つて自分の居間に入るなり早々、澄子刀自がやつて来られて、
『浅野さん、あんた昨晩は飯森さん所へお泊りだつたさうどすが、教祖はんがなア、夜中眠れんで……』
自分は吃驚して、
『教祖さんが夜中眠れぬ? 私が飯森さんの所へ泊つた為めにですか?』
『さうどす。まアお聴きなはれ。今度あんたがお出になつてお筆先を査べるといふのは、皆神界のお仕組で、教祖はんもお待ち兼ねでしたし、又神さんの方では尚更お急きになつて居られますのや。それにあんたが』と澄子刀自は自分の顔を覗き込むやうにしてしみじみと『お友達の所へ行つてお酒などを上つて、泊つて居られるので、神さんが教祖はんをつかまへて、何故早う浅野を呼んで筆先を読ませぬかと、お責めになられて仕様が無かつたのざす。教祖はんも散々おことわりを申上げ、久し振りにお友達の所で、一晩位はと申上げても、神さんは中々お聴き入れがない……。浅野はん今日からはみつしりお筆先を腹へ入れてお呉れンされ!』
自分の両眼にはいつしか涙のにじむのを覚え、ああ悪かつたと衷心から、神さんと、教祖さんとにお詫をする気分になつたのであつた。
『日頃の癖で、ツイうつかりしました。宜しう厶います、今日からしつかり身を入れてお筆先を読ませて貰ひます。お世話様でも、万望早速御直筆を貸して戴きます』
間もなく御直筆のお筆先が五六冊お三宝に載せて自分の所に運ばれた。自分は其一冊を机の上に繰広げたが、さアいざとなつて見ると容易の業ではない。読める字も少々はあるが、読めぬ字の方が遥に多い。又その語脈、用語、内容、何も彼も自分には新奇なことばかりなので、意味の連絡が什麼しても取れない。自分は暫時撫然として紙面を見詰めるばかりであつた。
『誰かに訊て見ようかしら……』
と一旦は思つても見たが『まてまてそれも余りに意気地が無い。このお筆先も最初は誰かが読み出したに相違ない。自分も人にきかずに読んで見よう。何んとかして読めんこともあるまい』
帳面を出して読める、読めぬに頓着なく模写を始めた。一行又一行、一枚又一枚と写して居る中に什麼やら少々手がかりがついて来た。読み難いと言つても、多寡がいろは四十八文字に過ぎない。たうとう二時間許り過ぎた時には、何れが何の字といふことの呼吸を覚え込んで了ひ、覚束ないが、兎も角も拾ひ読みが出来るやうに成つた。半日がかりで漸く一冊を読み上げた時には、一方に多大の疲労を感じたと同時に、他方に於ては何とも言はれぬ愉快を感じた。
二三日後にはすつかり読み慣れて、すらすらとも行かぬが、一日に五六冊読み、そして其中の重要事項と思はるる所を抜粋して行くのは、左して難事ではなくなつた。
自分が毎日出して貰つたお筆先は、旧きは明治二十年代もあり、三十年代もあり、又新しいのは、ツイ四五日前に出たばかりといふのもあり、ホンの数千冊中の見本に過ぎなかつた。一と月足らずの滞在中、自分が読み上げた数は、せいぜい二百冊位のものであつたらう。それでも朝から読み始めて、隙さへあれば午後も読み、夜も読み、それで、やつとこの位しか読めなかつた。
飯森さんは当時信者の中でお筆先の多読家の一人であつた。ある日自分が同君に向ひ、
『あなたなどはモウお筆先の大部分をお読みでせう』といふと『イヤ什うしてそれどころではありません。十分の一も六ケ敷でせう。毎日五六冊づつ読み上げて三年はかかる勘定になります。しかし実際やつて見ましたが、平均五冊はとても読めません。まア十年がかりでないと全部に眼は通せますまい。さうする中にも後がどしどし出ますからナ』
お筆先の研究──是ほど容易なやうで、是ほど困難なものは無い、一と口に陳ぶれば大本神諭は大なる謎の集合と言うてよいやうだ。浅く観ればその謎がつまらなく浅い謎に解け、深く観ればその謎が何所までも深いものになる。要するに之を読む人の器量次第、宛も自然現象に対するが如きものである。山川草木、日月星辰、天地河海、ありとあらゆる人類は平等に之を観る。一人として自然現象に接触せぬ人はなく、これほど何人も親んで居るものはない。所が無智浅慮の人の眼には自然は要するに自然に過ぎぬ。林檎は墜ちるから堕ち、太陽は動くから動き、花は咲くから咲き、天は広いから広い。其所に何等の不可思議もなければ、又何等深奥の意義もない。ただ観る人が見れば、この日常平凡の事象の裡に天地の原則を見出し、宇宙の神秘を認めることも可能なのである。自然現象を捕へてその平凡を笑ひ、大本神諭を披いてその卑俗を嘲るのは、共に同工にして異曲、滔々として衆愚の陥り易き欠点ではあるまいか。一つ秦の始皇でも地下に呼び起して、こんな罰当りの連中を坑に投げ込むなども一策かも知れない。